2008年8月14日木曜日

息子とアナーキズムと上州人


「……今日の関東地方の北部の気質と関東地方南部のそれとの間に、かなりちがいがみられる。関東地方南部のそれは、主に江戸時代以降の変化をつうじてつくられたものであり、北部のものがもとの形をうけつぐものであろう。
 つまり、鎌倉武士の気風は、今日の茨城県や群馬県の北部の人びとにうけつがれているのである。関東地方には、広い平野が広がり、今日の平野部には東京を中核とする都市化がすすみつつある。
 都会風の気質をもつ人間が、しだいに古い気質の人間を関東平野から追っていくようにみえる。そして、近代化によりしだいにみられなくなった「上州人」や「水戸っぽ」といった言葉で思い浮かべる骨っぽい人間が本来の関東人なのである。」(武光誠著『県民性の日本地図』文春新書)

やっとお盆休み。休日の第一日目は、息子の一希の自転車の練習。が、補助輪なしではすぐには乗れず、ふらふらして恐いものだから、5分もたたぬうちにふてくされてやる気をなくす。座り込んで動かない。ちょうど新聞で乗れるようになるための練習とかの記事を読んだところで、そこには2・3時間程度の練習でできるようになるとあるし、知り合いの同じ年中組みの子どもなども、「練習して乗れるようになった!」と喜んでいたので、じゃあこの休み中に乗れるようにでもなれば、やたらこの辺では多い坂道を一希をのせてえいやこいやとこぐこともなくなると期待していたのだが……。情けなくて怒り心頭してくるのだが、こちらが自制していても、「おらあノハラ・シンノスケだ!」とかわけのわからぬクレヨンしんちゃんのギャクを真似して反抗するだけなので、怒り爆発するまえにとすぐに打ち切り。で、ならば他人の指導にあずけようと、午後には神宮外苑のサイクリング教室に参加させようと電車でいったのだが、今日は日曜でも祭日でもないのでやっていないのだった。しょうがないので、バッティングセンターで涼んでいると、「パパ打ってみろ」と言う。400円で20球。10球を越えてくると、もう腰がよくまわらなくなる。それでも、もう少しでホームラン、というあたりを3発ははじきだす。ああ疲れた、と休んでいると、「また打ってみて」というので、じゃあこんどは120kmぐらいのスピードにあげて打ってみよ、とやってみたのだが、もう体が動かないのだった。少し休んでから球場を出たところで、今度は自分がやってみたい、と言い出した。せっかく自分からやる気をだしたのだからと、また引き返してチケットを買って、いざ打席に立ってみると、「やらない」と言い出す。恐くなったのだろう。「自分でやるといったことは、やるんだ」と語気を強めても、やだといって外にでていく。しょうがないので自分が打つと、もう腕がまわらないのだった。まわりでは一希の運動能力をほめてくれる人も多いが、初めてのことを率先してやる冒険心と勇気がないから運動部タイプではないだろう、慣れるまでやるには好き嫌いが移り気すぎだし。セミプロぐらいまでの技術を身につけたいなら、もうひたすらボールで遊んでいなくてはならない年齢だ。一番手というより、他人がやっているのをみてからやる二番手、補佐タイプだろう。サッカーでも、フォワードにはなれない、よくて司令塔的なミッドフィルダー。知恵は発達している。幼稚園でも、年長クラスの2階に侵入するのに、のろまの友達を選んで一緒にいって、みつかれば自分はすぐに逃げて他の子がおこられるように仕組むのだそうだ。「かしこい」、ともよく言われるが。……言語能力をふくめて、子どもが先天的に技術を獲得習得していく能力を備えている、といっても、社会で生きるとは、好きな選択だけができるわけではあるまい。自発的にこれをやる、という本能(子ども)的な選択のうちに、何を教えるかが既定された既成の社会を塗り替えていくような批判性(新しい社会)が含まれているとしても、自転車が乗れないのでは、字が読めないのでは、と基礎(義務)的な条件の欠如が生きることを困難(障害)にさせないだろうか? まあ、自転車に乗ることぐらいは、もう少し背が大きくなって力がつけば、いやでも乗れるようになるだろうけど。

<だが最もナイーブな次元のアナーキズム、つまり悪い制度を駆除しさえすれば、組織的な努力なくして善なる人間の性が自動的に民主主義的な社会を創って行くだろうという想定への批判にはなっている。/わたしにとって現代におけるその例はノーム・チョムスキーです。彼にとっては先天的な言語構造の認識が、そのまま彼のアナーキズムを形成しています。つまり先天的、生得的な人間の性がアナーキスト社会を形成していくという考え方です。だから必要なことは、ただ悪い抑圧的制度を廃棄するのみである。わたしはチョムスキーの合衆国分析には、まったく賛成しています。だが、彼の思考にはオルタナティブな組織構築の必要性についての認識が欠落しています。>(「マイケル・ハート「コモン」の革命論に向けて」『VOL 03』以文社)

北海道は洞爺湖で開かれたサミット、先進国家の長たちの会合に反対・抵抗する運動(家)等の理論的支柱ともいえる哲学・思想家のひとりは、その運動紹介の特集雑誌のインタビューで、上のように述べている。私が参加していたNAMという左翼団体も、無組織的なアナーキズムへのマルクス・レーニン主義的な組織的批判、という面(文脈)をもっていたが、その運動の中で目立っていたものの中には、むしろアナーキスト的な面の強い人もおおかったとおもう。しかし思想的にはともかく、私はこの反サミットにつらなる運動を傍観するにつけて、やはりなにかわからなさ、違和感をもつのだった。それは、欧米の運動家たちのそれは、なにか習慣伝統的であるのにたいし、日本のそれは、やはりインテリ的な無理=技巧があるな、という感覚である。サッカーのサポーターにみられる、アウエーというもののあるなし、の違いといおうか。知識教養的にも、向こうの知識人の亡命とは、日本の国内旅行のような地理感覚というし、要はこの地域でやばくなったヤクザ者が他の地域のヤクザ組織に囲われて難を逃れて時をすごす、ようなものだったのではないか、と思えるのである。そうした地域対立と横断のきいた範疇(伝統)の延長上に、現今のアナーキズムな対抗運動ものっかっているような気がするのである。だから、日本でその伝統に落ち着いた運動家形態となると、私にはかつて「大陸浪人」と呼ばれて、アジアの地域を運動的に渡り歩いた人物群=ネットワークに思えるのである。日本にもきた魯迅や孫文といった中国の革命の志士と往来していたような、思想的には右翼系の在り方である。日本ではもうその系譜が具体的に残っているのかしらないが、欧米ではある、ということなのではないかとおもえるのだ。また日本の左翼運動が浮いているようにみえるのもそのためだ、と。ならば、のっかる文脈を大陸浪人のような系譜に移さないかぎり、特集雑誌でも志向提起されたような、より庶民大衆を巻き込んだものにはならず、ただ一部のインテリの嗜好をでないだろう、とおもえるのである。思想内容的だけでみるならば、それでかまわん、ということでいいのかもしれないが。

が、その特殊(文化・地域)的文脈をのぞいても、やはり私にはインタビューを受けた『マルチチュード』の作者の展開には違和感を持つのだった。つまり、「ナイーブ」は、よくないのだろうか? と。私は気質的には、率先しての行動派というよりは風見鶏的であり、単独個人派というよりは組織集団的である。アナーキズムよりマルクシズム、ということになろう。が、むしろそれゆえに、というか、実際アナーキスト的な運動参加者たちをみてきて、むしろその「ナイーブ」さに、右翼系列の権力手先になるようなチンピラ・職人にも相似的にある「白痴」性に、なにか積極的なものを認めるのである(以前のテーマパークでもこの感想にはふれた)。この感覚は経験的な推論であり、直感であって、論理展開されたものではない。最近、サヴァンとかいう、知的障害・自閉性障害とされるものの驚くべき能力のことがクローズアップされたりしているが、その不思議さへの感覚と似ているかもしれない。まわり(社会)のことがみえない遅れたものの純粋さに覗える得体の知れないもの、である。精神障害者の右翼系の私の兄と、左翼系の運動参加者との表情は、薬でぼってりしてきたからか、むろんサヴァン的な特殊能力はないけれど、似ている。ダウン症の人たちの顔がみな似てくるように? かつての学生運動のことについて、博徒系職人が言っていた、「純粋じゃなかったら、説得力ないよ。東大でのやつが打算を抜きでやってるからいんじゃないのか」という第三者的な認識が、私の思考の中では交差する。社会の進歩とは、豊かさ=創造性=多様性のことではないだろうか? 逆に言えば、多様なものを生み出す条件が社会の理念ではないのだろうか? ならば、そこにむけて、どう「彼ら」とつきあう、共存したらいいのだろうか?

……と、そう直観的には思えても、いざ息子の一希と一緒にいると、やはり怒り心頭であり、本当にそんな直感、先天まかせでいいのか、という気がしてくる。そしてこの短気さは、ある面、「上州」という地域性の影響(伝統)を受けているかもしれない。東京から地元に帰って同期会にでもでれば、その言葉が荒いのに気づく。常に喧嘩してるみたいだ。これは関東特有のローム層(赤土)は米作に適していない環境だったので、「誠実で根気づよく義理人情にあつい生活態度が求められ」たからだとされる。――「群馬弁は荒っぽい。それに対応するように群馬県民の気質も荒いが、その素朴さがまわりの者に安心感を与え、人をひきつける。『県民性の日本地図』)」……自然も、社会も厳しい。おそらくは、これからますます。「短気」は一希にも受け継がれているようだが、この継承は、吉とでるのか凶とでるのか?

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