2009年3月14日土曜日

WBCアジア予選から、その世間事情


「…こうして予想外の要素の混入がなければ新しい技術の発見もありえないわけです。ここで徂徠は技術という技術は破綻することが宿命づけられているといっているのでしょうか。いや、その反対に徂徠は、このようにけっして一義的に絞り込めず予測もしえない事象の生起、因果の偶発性を、にもかかわらずけっして偶発的なものではないとみなす――信じる――こと、そうした「理論的信」こそが技術者の行動を正常に制御し技術の向上を促す原理となりうると述べているのです。不可能で制御しがたい偶発性(そう受容してしまう知覚の錯乱性)を、にもかかわらず必然として繋ぎ止めるために要請される存在それが鬼神です。つまりここでもわれわれは、それ(その因果性)を経験的には知覚しえないが、しかし、それがたしかに在ることを知っているという、パラドキシカルな認識に出会うことになる。」(岡崎乾二郎著「確率の技術/技術の格律」)


WBC、アジア予選、その決勝、韓国vs日本。以前にもこのテーマパークで言及した、原監督の日本野球道の戦術にがっくりした。むろん私が言っているのは、8回裏にセンターへヒット出塁したイチローを、二番の中嶋にバントで送らせる、というその典型的な作法についてである。見ているほうすら、スポーツの高揚感が萎縮させられる。

あの場面、ピッチャーをはじめとした野手は、相当な緊張感をもって守備体制に望むことになる。足の速いイチロー、その日2本の安打を放っている中嶋、つづくクリーンアップ、一点差。盗塁、エンドラン、バント、それらをいつやるか、相手方のだす徴候を斜視で推測しながら、一球一球心構えの割合整理をおこない守備位置を微妙にずらしたりもするだろう。遊撃手だったなら、まずはゲッツーに備えて二塁ベースよりに移動する定位置が基本となるが、それが盗塁と予測するならほぼそのままの位置でエンドランに備えながら重心を二塁側へ移しきらないように気を配り、エンドランとして予測するなら守備位置を少し深めにとって一塁走者が走るみかけの牽制だけではなく、ほんとうに走ってくるのか、バッターは本気で振ってくるのか、それを早く判断できるよう、ほぼ90度の視界を全的に把握すべく集中していなくてはならない、バントでくるならば、その打球が一塁側か三塁側かで次に走り出す方向が逆になる。要するには、心を分割する構えの複雑さに、隙やぶれ、迷いがでやすくなるので、エラーの確率もぐっとますのである。

が、バッターはなんと、はじめからバントの構えを見せて打席に立った。高校野球レベルでも、これは信じがたい話である。原監督は中嶋が打席に入る前、なにか耳元でいい、それをテレビ解説者は、おそらくイチローの走塁を気にすることなく自由に打て、そしてイチローも相手の隙をみて自由に単独スチールを狙わせていく作戦だろう、と発言した。それが、勝負事として、オーソドックスな推論である。がなんと、原監督が選んだのは、少年野球レベルの作戦で、バントはバントとして的確に成功させるために、つまりやりやすいように始めからその構えをとってやれ、という指示だったのだ。これは勝負事としては、はじめから相手に手の内をみせて、そして歩兵の自分は自己犠牲で殉死し次の大物に体制を整えてやり、やおらおでましになったこの大将が正々堂々と勝負をのぞむ……この背後にあるのは、負けてもよいとする潔さの美学である。私には、戦艦大和の玉砕作戦か、とおもえる。つまり、勝つ気がないのだ。韓国側は、まず信じがたかったのではなかろうか? これはダミーか? それともバスターでのヒットエンドランか? しかしあの速球投手にバスターなど成功させるのは困難である。一球目バント失敗。そしてまたなんと、バントの構え。ピッチャーは安心し、単にバントをやらせ(成功させ)てあげればいい、と開きなおれるだろう。0対0ならまだしも緊張はつづくが、1点差あるのだ。このバッターでは気分転換的にリラックスし、次のバッターでの勝負に集中力を組み立てていくだろう。案の定、次の3番バッターには、解説者でもホームランを警戒して投げないだろうといわれた配球、内角へのストレートで凡ゴロにし止める。……二次大戦中、日本軍のいつも同じの突撃攻撃に、信じがたいおもいをこえて「気味の悪さ」を感じたという、諸外国の将校の発言を私は思い出す。




原監督、あるいは彼をWBC日本代表の監督に選んだ野球界のお偉い人たちが理解できないのは、この相変わらずの頭の固さが、どれほどの迷惑(失望)を選手(兵士)やファン(人民)に与えているのか、ということだ。それは、数学的な緊張、確率の世界の現実、厳しさにこそ、スポーツをするものや見るものの快楽もが約束されている、という人間的な事態である。イチローでさえ、たとえ最初のうちにヒットを連続できたとしても、最終的には3割の確率に落ち着くのだ。それはサイコロをふればふるほど1の出る目の確立が6分の1になってくるのと同じだ。しかしこの一定の現実のなかで、なぜこの場面でヒットがでるのか、その驚きと快感は奇跡的な事実なのだ。そうやってこの緊張の中で打撃不振だったイチローがセンターへはじき返したのに、その緊張をとぎらせるように、様式化された典型的な方法が脈絡もなく導入される。まるで監督やそのお偉い人たちが部外者なように。が、その人たちが世間を支配しているのだ。私は桑田真澄氏の言葉を思い起こす。「たとえプロ野球の監督になって日本一になっても、なにも変わらないし、変えることはできないんですね。だから僕はもっと上を目指す。」……たしかに、WBCに見られる事態は、野球界をこえて心配すべき世間事情を予測させる。

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