2011年6月2日木曜日

希望を、筋道をつけてゆける混沌を

「……ペレストロイカ停滞の原因がとりあげられ、問題は改革の道にダムのように立ちふさがっている巨大な党・国家機関にあることが確認された。…(略)…ところがその二日後にわれわれは恐ろしい試練に見舞われ、すべての構想は長期にわたり舞台裏へ押しやられてしまった。/チェルノブイリ原子力発電所の事故は、わが国の技術が老朽化してしまったばかりか、従来のシステムがその可能性を使い尽してしまったことをまざまざと見せつける恐ろしい証明であった。それと同時に、これが歴史の皮肉か、それは途方もない重さでわれわれが始めた改革にはねかえり、文字通り国を軌道からはじき出してしまったのである。/今はわれわれは、この悲劇がどれほどの大きな規模と広がりをもち、健康と家を失った人々のためにさらにどれほどのことをしてやらねばならぬかを知っている。この災厄とその後遺症が、私のソ連大統領在任の最後の日まで、そしてその後も私のどれほどの心労の因となったことか。」(『ゴルバチョフ回想録』ミハイル・ゴルバチョフ著 新潮社)


まだ骨折したカカトの腫れがひかず、リハビリで筋力増加に励み、家にこもっては読書をしている間に、仕事上の公共仕事としては、3月の年度末がすぎ、5月の入札時期が始まっている。怪我の経過報告がてら元請けの情勢を社長の息子にきいてみると、これまでとれていた仕事がとれず、というか、これまでの通例の管理作業が発注されていないようだ、というのが先月末の返事だった。私の推論では、東京23特区では、震災被害自治体に10億円の協力支援も決めているし、去年の実績で申告した税額が本年度に本当に企業から支払われるのか、その様子をうかがっているのではないか……という感じを、ちょうど今さっき電話をくれた社長にももらしてみると、よくわからないが、とにかく業界では激震が走っている、という。地震や原発事故があろうがなかろうがやってくることが、それを契機に、予定より早くやってきた、ということなのだろう。つまりそれはあくまで、惰性の果て、というよりは、転機として出現してくれた、ということだ。これは天啓なのだ、と私は考える。だから、その天啓的な転機を、あくまで惰性的なシステム体制の延命の方向で支持してはならない、というのが私の立場、になるだろう。そこから、いま、テレビでの国会中継を見ている。自民党の政治家の話しが、うるさい。


佐藤優氏のたとえでいうならば、すでに政治(経済)的な「メルトダウン」がはじまりだしたのだ。それを認めない、ということは、東電的な事態である。今朝の新聞(今は朝日を購読している…)では、不信任案可決なら衆院解散、と前回の民主党内選挙の、菅vs小沢の時と同じように、その一面を読んだなら、態度曖昧な議員には脅しとなるような紙面構成になっている。社会面でも、「復興遅れるばかり」「政争にあけくれないで」「今は選挙どころではない」――という世論の声が見出し紹介されている。たしかに庶民の感想は、そういうものに近いのだろう、とおもう。小沢氏自身は、先月のウォールストリート・ジャーナルへのインタビューでも、危機になると「みんなで仲良く」というのが日本人だが、それは間違っている、と認識表明しているのだから、現状世論と闘うことを宣言している、と言える。だから、その危機を、どのくらいの深刻さで認識しているのか、が実践的な行動への出発点になる、ということだ。


くり返していえば、私はすでに「メルトダウン」ははじまっているのだとおもう。しかしまだ、釜の底が抜けて爆発するという、チャイナ・シンドロームが起きているわけではない。しかし、一刻を争う、ということだ。危険を犯してでも手を打たなければならない。いまの官邸は、東電相手、という狭い領域では筋を通しているようにみえるが、大きくいえば、自民党時代に敷かれた官僚の路線を引き受けていく方向だ。つまり、平常どおり、なのである。これは、あの原発現場では安全などありえない、という現実を引き受けて作業をしているのに、厚労省が「安全管理」の徹底を要請する、などという、工事現場での役人態度を頑なに反復することしかできない、のと同じだ(官僚にはそれくらいしかできない、ということだ)。それが無理なほど深刻だから被曝しているのに、その現実を無視して表向きの体裁、官僚としての国民向け立場保身しか打ち出せていない。だから現場では、すでに法的庇護を超えている作業をしているのに、そのことが是正という建前で隠蔽され、裏で抑圧された形で強行させられるのである。作業員は、二重拘束的な分裂状態に苦しむだろう。これは非常時なのだ、注意して作業をしても、法的以上の被曝をして健康を壊すかもしれない、その時はその労働者と家族の保証はするから頑張ってくれ、労働体制も非常体制でくみ支援強化するから、とリスクを負って官邸中枢が言えない、言ってやらない。平常運営でしかないエリート官僚(東電)体制だから、作業員も半端なことしかできないのだ。それがダラダラきて、転機への芽が、決死の意志がなえ、だから役人同様、小さなエゴからの、ごまかし作業が横行するだろう。


もし、あのチェルノブイリ後の政治状況のなかで、ゴルバチョフ改革派ではなく、共産党国家機関が主導権を握りつづけたらどうなっただろうか? 官僚国家の意志とは、増税と統制である。旧ソ連ではともかく、ペレストロイカという、一国の内政を超えた世界規模での道筋をつけた。たとえその後の経過で、民間(マフィア)上の混沌がやってきても、その道筋がロシア人魂として一貫していくことができたようにみえる。つまり、文化精神的な意味での、アイデンティティーも保たれた。ではいまのこの日本では? とりあえず自民党提出の不信任案が可決されようとされまいと、政治家の意志の足並み乱れは、官僚が体現してしまう国家意志を利するだろう、というような状況だ。投票の結果、というより、その結果の度合い、の中において、どちらの方向に転ぶのかの予想がみえてくるのではないか、と思うのだが……まだ抗辯がおわらない。ながい話しだ。結果をみてから、次の行を書こうとしているのだが……。


いま採決がおわった。私の見たところでは、官僚に<代行>される国家意志へ動く方向へ舵がきられた、とおもう。欠席・棄権が小沢氏本人くらいなら、まだ民主党内に国民を<代表>する政治家意志がだいぶ残るので、両義性を孕んだままで推移することになったのだろうが、彼等30名ほどの政治家が除名されるとなれば、政治情勢はなおさら混沌としてくる。可決されて解散が回避され内閣が政治意志の方向で改造されるか、圧倒的に否決されて民主が一丸的になるのがいい方向性かな、と思っていたのだが……。くり返すが、官僚の国家意志とは、増税と統制である。原発事故のどさくさにまぎれて、ネット規正法のようなものが成立されたことをおもえばよい。そして今回の場合、外交的な敗北である。先月末ころ、朝日新聞だけが一面で、「海外賠償巨額か」と報道していたが、読んでみると、アメリカの原発保険に入ろう、という話しなのだ。つまり、毎年も保険をはらい、ということはソ連が拒否した海外賠償も支払って、さらに廃炉作業でも金をとられる、というか、貢ぐわけだ。そのための増税路線なのだから。ずるずる、というより、みるみる経済的にゆきずまって、国民大衆が米騒動的な騒ぎをおこす場合もでてくるかもしれないが、もちろんそのときは手遅れである。もちろんそれは革命(変革)でもなんでもない。それができなかったことへの回復不可能な取り返しの試みである。そんな騒ぎ=爆発が起きるまえに、事態を深刻に認識し、まだ目に見えてこない段階で危険をおかし、手を打っておけばよかった、という話しなのだが…。


フクシマ以後の日本において、混沌は避けてとおれない。しかしだからこそ、希望のある、筋道のある混沌を作らなければならない。その希望、筋道とは、世界へむけての道理である。地球規模での論理なのだ。そういう物語=文脈、世界への説得力をもってこの日本の事故を開くこと。光の見えない混沌はわれわれを絶望させるだろう。今日の政治的結果が、危機への対処を一手遅らせたことは確かになってくるだろう。現場の作業員は、なおさらずるずると意味もつかめない作業を、「安全」にという標語のもとに、一層の被曝を蓄積させながら、だらだらとやりつづけなくてはならないだろう。(そうしているうちに、また貯蔵プールの方が爆発する、ということも十分ありえる話しだとおもうのだが……。)

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