2011年11月26日土曜日

論理と実践

「小出裕章の間違った行動提起については、彼一人の問題ではないので、きちんと批判しておきたいと思います。/問題は三つあります。/まず第一に、この行動提起は、問題を極端に個人化してしまっているということです。消費者が買うか買わないか、買いましょう、と言っているだけなのです。ここでは、放射能汚染の全体が見落とされています。あらためて言うまでもないことですが、物流には起点と終点があり、起点とは生産者、終点とはごみと下水の処理です。消費者が何かを買うということは、起点での農業・水産業を可能にし、終点でのごみ・下水処理を要請します。放射性物質を含んだ食品を買うといことは、それを生産するために消費者以上に被曝する人々がいて、被曝しながらの作業を継続させてしまうということです。そして放射性物質を含んだ食品を食べる人々は、使わなかった野菜くずや食べたあとに排泄する屎尿を、地域の公共施設に負担させます。ごみ焼却や下水処理といった作業の従事者は、福島から遠く離れた場所で思いがけない被曝労働を負わされてしまうことになる。そうした作業全体が「責任を引き受けるべき老人」によって担われているかというと、そうではありません。現場で働く若者たちは、小出氏らが勝手に引き受けようとしたもののために、望まない被曝労働を強いられるのです。」(矢部史郎著「3.11以前と以後」『atプラス10』太田出版)

科学的と称される事実をめぐる真偽ではなく、それを引き受けた(「解釈」した)者の態度(実践)が潜在させている論理(展開)の現実(実際)を批判する矢部氏の上記引用のような発言は、今回の事態の最中で、私にははじめて触れた発想で、説得的であると感じた。低線量は「安全か、危険か」というような二者択一を迫る科学に対しても、その二項対立の中では「危険」の立場に分類されてしまうとしても、問題としているのが原子力を扱う社会のあり方自体への批判なのであるから、たとえ低線量が安全である、とするのが科学だとしても、それを批判する構えは変わらない。氏が事故以前の著書『原子力都市』で抽出してみせたのは、原子力を扱うということが、どれほど社会を管理していくものになるのか、原子力技術とが、徹底的な社会管理の対策技術なのだ、ということだ。そして今回の事故で、「私たちはみな原子力に関する知識などまったくない、しかし、原子力政策というものがどういうものであるかはみな知っている」ようになってしまった。科学的真偽ではなく、それを成立させてきた権力のカラクリに私たちは直面しているのだ。確かに、私たちは放射能が恐いというよりは、こんなにもいい加減な国家運営の下で現在も進行・侵食形で生きさせられていることが恐いのではないか? 原発に反対する本音は、国家を止めてくれ、ということなのだが、それがどんなことかよくわからないので、原発を止めてくれ、と言っているのではないか?

しかし私は矢部氏の論理態度を説得的と感じるけれども、その実践態度に疑問を覚えてしまう。これは論理的反駁といった疑義ではなくて、理論的な社会運動を体験したことからくる印象である。つまり、論理的に反駁してみせることが、実践的に正しいのか、ということだ。もう少し原理的に言うと、その筆者に潜在的な思考の型を抽出して問題露呈することが必要なことであったとしても、それをそのまま実践過程に結び付けて批判してみせることが、現実実際上いいことなのか、意義あることなのか? それは、自己の知的優越さを論証して競うメディアの中だけの議論なのではないか、ということだ。たとえば、氏は言う。<結果として、小出氏らの主観的な「決意」は、政府が号令する「食べて応援」を容認し、追随するものだと思います。それは原子力国家を論難しているように見えて、実質的には、原子力国家との対決を回避しているのです。いま東北・関東の母親たちが子どもを連れて避難し、あるいは公園や学校を計測し、全国の親たちが学校給食を監視し、ごみ焼却場に問い合わせ、食品検査や土壌検査を独自に進めている、そうした実質的な戦争状態があるかたわらで、小出氏らはただなげやりに「食べるしかない」と言うのです。彼がこの問題について矢面に立って闘うことはないでしょう。彼らは批判的ポーズをとるだけであって、偽の、口先だけの、戦争ごっこに興じているのです。>――しかし実際、「母親」たちはその小出氏から活力をもらって実践しているのではないだろうか。近所で講演をしてもらうこと等でネットワークを作ったりしているのではないだろうか? だとしたら、というか、私のまわりではそう見えるのだが、小出氏の実践が「意味のない」こととは思えない。知的議論上無効だと論駁されても、実践的に意味のないことなどあるのか? どうなっていくのかが不透明なのが社会なのであってみれば、それはこうなるという論理展開の想定(潜在)は、実際にはその論理上の中だけに必要な手続きである。社会での自他の言動は、どう展開されてどんな意味をもたされていくのかわからない。それを肯定というよりは、その想定外を想定している気構え(寛容と緊張)が持てない論理態度は、実践態度として弱いのではないか? 矢部氏は、「フランス現代思想」は核の脅威のもとで営まれたのであり、そのことがドゥルーズやガタリの「国家装置」や「管理社会」という概念提起させたのだと指摘している。なるほど、と私は思う。同時に、このエセーでの結末文、<テレビや新聞がどんなに国民的号令をかけても、彼らはもう相手にしません。「専門家」の権威を信じていないし、性別に絡めた道徳的な非難中傷などまったく怖れません。それは、都市が教育し都市住民が獲得した、ハビトゥスであり知性なのです。こうした人々が、これからの戦争状態のなかで主導的役割を果たす前衛になるでしょう。彼女・彼らは粛々と放射線を測定し、被害の実態を告発し、避難民となり、避難民と結合していくのです。>……この物言いに、私は「分子革命」あるいは、「マルチチュード」といったフランス思想を連想する。つまり、なにか小さなロマンチズムである。文体上の期待、といおうか。むろんこの読後感は、論理的反駁などといったものではなく、単に私が氏の文体から感じた類推にすぎない。

この間の日曜日、「なかのアクション」主催の飯田哲也氏の講演をきいてきた。そこで飯田氏が呈示してくれた資料にびっくりさせられた。それは、「緊急災害対策本部」があの3月11日22時35分現在にネット上で公開していた随時速報で、おそらく現場の吉田所長からファクスされてきたものをそのままあげたものなのではないかというのだが……〔東京電力(株)福島第一原発 緊急対策情報〕〇2号機のTAF(有効燃料頂部)到達予想 21時40分頃と評価。炉心損傷開始予想:22時20分頃 RPV(原子炉圧力容器)破損予想:23時50分頃〇1号機は評価中――専門家が2号機にいわれたこの三つの情報をみれば、ネット上で公開された時刻には、すでに燃料棒が露出し溶融をはじめ、あと一時間ちょっとで圧力釜も壊れる、と評価報告を受けているのだから、何が起きてもおかしくないと思うのだそうだ。にもかかわらず、斑目班長は爆発はないと総理に断言し、翌朝ヘリで一緒に上空視察。無知の恐さ知らず、というのだろうか? 現場責任者からすれば、死ぬのは俺たちだけでいいからあとは来るな、といったはずなのに、一番の責任者が二人もそろって現れたのにはびっくりしたことだろう。しかし、いまなおこんなわけのわからないことが進行中なのだ。私は、ドストエフスキーの『白痴』での、ムイシュキンと花瓶のエピソードのことを思い出してしまう。君はパーティーでその花瓶を割ってしまうのではないかね、と言われたムイシュキンは、本当に割ってしまうような強迫観念にかられて、そして本当に割ってしまうのである! 私はこの挿話がどんな意味をもっているのか、心理学上もどんな心的規制が働いているとされるのか知らないが、やけにリアルに読めたのである。おばかな日本国家が、本当にもう一度やってしまうのではないかと怯えながら、本当にやってしまうのではないかと推論してしまうのである!

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