「日本の近代化をめざす琵琶湖疏水とともに生まれた小川治兵衛の庭は、山県有朋によって日本の近代化をはじめて表現した無鄰菴庭園としてその姿を現し、幅広い世界をつくり上げていった。そして山県がつくり上げた大日本帝国が五〇年を経て崩壊してゆくに際して、岩崎小彌太が財閥解体を目前にして鳥居坂本邸に籠りながら眺め、近衛文麿が末期の目で見つめたのもまた、小川治兵衛の庭であった。/ 小川治兵衛は、日清戦争の勝利にはじまり太平洋戦争の敗戦に終わる、すなわち山県有朋にはじまり西園寺公望をへて近衛文麿に終わる日本の近代化のプロセス、そのプロセスを担った山県・西園寺・近衛という大三角形をまるごと包み込む庭園をつくり上げたのであった。」(鈴木博之著『庭師 小川治兵衛とその時代』 東京大学出版会)
季節の変わり目には風邪をひきやすい。当たり前として伝承されていることだとおもう。寝入るときは暑くても、夜半には開け放した窓から夜気が忍び込み、寝ている最中にとりまかれとりつかれてしまう。自然(身体)とのバランスを崩して邪気にやられてしまったならば、暑くてもその熱を追い出すために、蒲団をかぶって寝る。汗を出す。我慢する。それが文化というものだ。おそらく何万年と人類が暮らしてきたなかで体得し伝承してきた。子供が蒲団を蹴とばしてはいだなら、我慢強くまたかけてやる、それが親の受け継がれた作法だったはずだ。ところがわが女房、毎年その作法を性懲りもなく無視し子供に風邪をひかせ発熱させている。低級な身体の快・不快に左右されて卑小なエゴに居直り、自分の脂肪太りのためか女の性質なためか、暑さにも我慢しようともせず、クーラーだの扇風機をかけまわす。そして「反原発」だの「子供を草っぱらで遊ばせよう会」だの「うちの子も甲状腺癌が心配だの」とほざいている。わが子の夏風邪ひとつ防げもしないのに。こんな秋への移行期の暑さなど、虫の鳴き声や空気が皮膚をなぜてゆくその流れに集中してさえいれば、いつしか気持ちが涼しくなって寝入ってくる。そんな単純な自己コントロール、自然との調和の術も忘れた者が、放射能だとぎゃあすか騒ぐ。原発推進派も反対派も、近代下の卑小な自己に依拠しているところで同じ穴のムジナである、という好例だ。しかしおかげでこっちは腹が立ち、寝入れずにこんなブログを夜半に書き込むはめになる。今夜は台風が直撃するというのに、窓を開け放ち、扇風機をまわし、咳をし38度近くまで熱をだしている息子は熱いといって蒲団をはいでのたうちまわっても、暑いからそうなるのだからとなんの対策もとらず、女房ひとりで鼾をかきはじめて寝入っている。なんともいい気なものである。
台風雨で家に閉じ込められた昨日日中は、前の晩に借りたDVDをみていた。息子が、『明日のジョー』がみたいというので、テレビシリーズのものをいくつか借りてきていた。映像としての記憶はないのに、見ているうちに、次にどうなるかのストーリーの細部が、断片的なシーンを脳髄のどこからか掘り起こしながら思い出されてきて、記憶というもののあり方に不思議になる。その漫画のなかで、ジョーが、慈善活動をする金持ちのお嬢さんを、その活動のエゴイストな偽善を囚人衆の前で告発し笑い飛ばすシーンがある。自己弁解のためにやっているだけじゃないか、それが、俺たちのためになっているのか? ……その場しのぎの快を欲する囚人たちは美しいお嬢さんを支持し、ジョーは独り暴力にたかぶっていく。これは、いまもって「連続する問題」だ。というか、今の社会活動なるものは、このジョーの批判を忘れたというよりも、自己満足やエゴなのは当たり前だからとそこを肯定して素通りし、実践的にマシな改善がなされるのだからいいのだ、と居直っているようにおもわれる。しかしほんとうに、そんな程度で、マシになるのか? 配膳されたホームレスはその日をしのげるだろう、が、ジョーの怒りや暴力を発生させているものは収まらないどころか、むしろその慈善=偽善=居直りによって、なおさら深く激しく潜伏してきた、そしてなだめられ抑えつけられたところとはちがった場所から噴火しようとしているのではないのか?
夏風邪と甲状腺がん、あなたは子供のどちらを心配しますか? 明日は、どっちですか? あなたは、どっちの明日を選びますか?
0 件のコメント:
コメントを投稿