2015年9月20日日曜日

芸術家的応答――侯考賢監督『黒衣の刺客』をみる

「ただでさえ山賊などの多い鈴鹿の山を、飼いならした馬に銀の鞍を置いてお乗りになったのでは、かえって道中の邪魔になろうというので、御馬は宿の亭主に与えられ、座主は裾を引いた長絹の法衣に、檳樃創りの裏なしの草履をはかれ、経超僧都は衵のうえに黒衣をまとい、水晶の珠数を手に持たれたが、もう足も進まないそのありさまを見ては、誰しもこれは落人だなと思わない者があろうはずもなかった。それでも日吉山王権現の御加護によるのだろうか、路上に出会う木樵や草刈などが御手を引き御腰を押して、宮はことなく鈴鹿の山を越えられたのであった。」(「太平記」 『日本の古典15』河出書房新社)

雨つづきの日、ホウ・シャオシェン監督の映画『黒衣の刺客』を見に行く。
上映時間までまだ余裕があったので、紀伊国屋書店に立ち寄る。哲学関連コーナーは、「戦争」にまつわる本が集積されている。もうすぐ戦争が起きるぞ、といわんばかりに。立ち読みで同感した意見は、佐藤優氏の、「もう世界大戦ははじまっているのかもしれません。」というもの。ならばすでに時機を逸しているのかもしれないが、この「戦争」にまつわる特集をのぞいていると私の頭も混乱してきて、三冊ほど買うはめになる。古市憲寿著『誰も戦争を教えられない』(講談社α文庫)、小熊英二著『生きて帰ってきた男』(岩波新書)、西谷修著『夜の鼓動にふれて』(ちくま学芸文庫)。

そうして、映画を観た。
新聞の紹介などでは、物語性は希薄で、映像美でみせる趣向、という論調が目立ったが、私には、これは明確に政治的なメッセージだろう、とおもわれた。現今の、とくには東アジア情勢に対する、いち芸術家の応答だ。それは、単純に、ストーリーをおってみればわかる。
中国は唐の時代。辺境に接する地方では、中央から派遣された節度使(県知事のようなものだろう…)が独立的な動き、勢力をもち始めている(現今の中国も、そうであろう)。中央と地方の平和維持のため、独立的な節度使を暗殺する動きがでてくる。その節度使と従妹であり婚約者でもあった女刺客は、なかなか殺せない。節度使である夫を操ることで権力を維持しようとする正妻は、懐妊した側室を参謀の西洋人らしき男を使って暗殺しようとするが失敗し、影であやつる参謀は殺される。その正妻―西洋人参謀は、辺境に左遷されてゆく女刺客の養父の暗殺も企てていたが、その危うい現場で、遣唐使としてきていた日本人青年の果敢な介入もあって失敗する。女刺客は、節度使を暗殺する密命を辞退し、その現場で出会った日本人青年を、新羅まで送る仕事に同行する。その最後の出発シーンで、はじめて刺客は笑みをみせる。

映画おわって、幕に出演者のリストが流れるさいのバック音楽には、映画中、独立的なシーンとして挿入・演奏されていた、唐の踊りと日本の舞い、いわば唐の楽と雅楽とが融合された音楽がながれていた。ということは、この映画の主張、願いもまた、そういうことだろう。中国、朝鮮、そして日本と、仲良くやれ、いい関係はできるはずだ、われわれはすでに、そうした歴史文脈をもっているではないか、ということだ。

こうした政治的メッセージ性を、映画の物語背後に感じたのは、2003年に日本公開された、張藝謀(チャン・イーモウ)監督の『HERO(英雄)』以来だ。あれは、中国の天安門事件に対する応答だった。興味深いのは、どちらの著名監督も、「刺客」(テロリスト)をとりあげていることだ。ここには、司馬遷の「史記」以来の、なにか中国の伝統的な文脈があるのだろう。そしてその刺客の視点を通して、現権力を、暴力的・暴言的に批判するのではなく、自分たちの正統的な歴史的振舞いを喚起することで、戒める、権力の方向性を誘導修正させていかせる意図をもつような、どこか冷静・沈着した姿勢を感じさせる。

雨のなか、同じ新宿の通りでは、安全保障関連法をめぐる、反対デモ行進があったようだ。少なくとも、今の私は、とても今の反戦デモみたいなものに参加しようという気が起きない。理由はよくわからないが、気分がおきない。すでに、世界大戦ははじまっているよ。現憲法護持下でも。そしてならば、戦争にはしっかりと参加しなくてはならない。個々人の意志と考えで、参加しなくてはならない。シリアからの難民を受け入れる体制を表明したらどうか、という意見が出ているが、そうした意識が、参戦態度というものだろう。戦争に参加すること、おそらくはどうも、それだけが、人類を反戦させる経験意識を高じさせるのだから。反戦している自分は、戦争には無関与な正当性を握っているという意識で国民の大半がやり過ごすなら、また日本は世界から取り残され、遅れた意識のまま孤立するしかなくなるだろう。というか、そういう、敗戦ではなく、終戦被害者意識が、そのカラクリが、いまのデモに結びついているような気がする。それは、かつての世界大戦でさえ、ひとりひとりが、しっかりと参戦できてこなかったことを意味しているだろう。

われわれは、またその過ちを、繰り返すのだろうか?

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