2016年7月17日日曜日

クーデタ、「生前退位」報道の

「広島・長崎の原爆投下を経験した日本は、敗戦後、アメリカ合衆国の「核の傘」に参入し、原発を保持、増設して「世界第三位の原子力大国」としての道を歩み続けてきた。また、その原子力産業から必然的に生まれ落ちた放射性廃棄物の「捨て場」に困った日本の政府は、太平洋に「核のごみ」を投棄しようとすら試みてきた…(略)…。一方、パラオの住民たちは、冷戦期の度重なる核実験の被害当事者として、原爆、原発、核廃棄物のすべてに対し、民主主義的な方法としての「住民投票」によってはっきりと拒否を表明してみせたのである。この明確なコントラストを通して明らかになるのは、元々は「核」の被害者であったはずの日本人が、アメリカ合衆国主導の核戦略体制の中で加害者の立場に方向転換していった、という歴史的経緯であり、しかもその核戦略体制の内側にとどまる限り、日本人の加害者性は常に既に発揮され続けるだろう、という将来的予測である。」(佐藤嘉幸・田口卓臣著『脱原発の哲学』 人文書院)

三日前の14日朝刊に、でかでかと「天皇陛下 「生前退位」」などとよくわからぬ見出しがのった。そりゃ死んでからは退位できないからな、と思いながら記事を読んでみると、まるきり”事実”がわからない。事実、と読んでいいものは、一面をめくって読み進めた終わりのほうに、「宮内庁は否定」とその次長の言葉が小さく紹介されているもののみ(「毎日新聞による)。じゃあ今まで読んできたのはなんだったのだ、と読み返してみると、「…意向を宮内庁関係者に示されてることが、政府関係者への取材で分かった」と書き出してある。何が「分かった」のか? 事実は、何も伝えていない。長々と伝えているのは、天皇の仕事はつかれるねえ、年取って大変なんだよ、というヒューマンな話である。そのために号外のような特集記事なのか? ……翌日の新聞では、「宮内庁関係者が…」となって、「関係者」でいいのなら、俺だってそれに値するかもしれないぞ、だいたい、いつそう言ったというのかもわからない、もちろん、「生前退位」などという四字熟語を天皇が使うはずがない、何年前にそんなようなことをもらしたことを、この今をとらえて、解釈としては事実になりうる逸話を流したのではないか?

ネット検索してみると、NHKが第一報道者だったようで、私がもった素朴な疑問を、他の識者も投げかけている。だとすると、なんのために? さらに翌日新聞、トルコで「クーデタ」とある。国営放送は占拠された。ふと、日本のこれも、そういうことなのではないか、という気がしてきた。改憲をにらんで勝利した政権側が、本当に民心を掌握しているのか不安なので、それを確認、確実にするために、クーデタを企てたのではないか、と。実際、このNHKに先駆けだか抜け駆けだかされて、各社簡単に「事実」の裏をとることもなく踊らされた、ということではないか? 第一次クーデタ、成功なんではないか? 天皇側の動き、国民の沈黙の質、マスコミの流れ、次の作戦を練れる情報はとれ、さらに、また何事もなかったかのように、「事実」を糾弾しようにもマスメディア自体が不用意に乗っかってしまったのだから追求の体裁もとれず、次の手を地道に打っていく時間が与えられている。「本気で改憲する気なのか?」、その疑いが強くなる。宮内庁を信用していない天皇自身側が、そこを飛ばして意向をリークさせるなどという真逆の想定は、現天皇の人格をみると、考えにくい。だから、私は、政権側からのしかけだ、とおもう。ということは、現天皇を退位させてやりたい、そのヒューマンな思いやりにかこつけて、しかけたいことがある、ということか?

元総理森氏、オリンピック選手が君が代を大きな声で歌わないことに釘をさすように苦言を呈したようだ。静かに黙想して試合前の集中に備えさすようなメロディーだろうし、そういう選手がいることはアスリートとして不思議ではない。オペラのように君が代歌ったら、それこそ不謹慎だろう。が、誰も文句の声をあげていないようだ。が、シラケてはいるだろう。一希の中学でも、その運動会、けが人がでるからと組体操はやめて「集団行動」をやるのだという。もうそういうのに適さないほど軟弱になったから体操もできなくなっているというのに、方針だけが形骸的に維持されてゆこうとする。公開学習での「道徳」の授業になると、お母さん方はみな帰っていくそうだ。そんなシラケ、もう日本は実質的には北朝鮮のようにはなりえない、と気づいているはずなのに、認めたくないのか? いや、まだ民心を掌握できる、立て直せる、その道筋、シナリオは通せる、操作できると睨んでのクーデタなのだろう。

「憲法の無意識」を説く柄谷氏によれば、天皇の象徴性を担保する憲法1条と、戦争放棄の9条はセットであるという。ならば、9条をかえるために、1条を動かそうというのではないか? 1条の実質を憲法を変えずに変質できれば、9条の実質も変えられるという論理回路があるのかもしれない。あるいは、本当に、そこまで変える、からめ手としてはあまりに直結的な1条の変更で国民の関心をそっちにひきつけ、自然9条も自動的に変更されていくようなセットな論理が、あるのだろうか? 柄谷氏によれば、9条を条文化した日本には、戦争放棄をさせていく「世界史的使命」があるのだという。それは、原爆落とされた被害者としての訴えの延長にあるようなものではあるまい。やはり、佐藤・田口氏らが説く「加害者」としての自覚から、世界へと訴ええる説得の論理、道筋を見出し作っていかなくては、誰もそんなご都合主義な話をききやしないだろう。原発輸出していながら、自分は戦争に加担しませんということか、経済だめになってきたから、軍事費には金だしたくないということか、と世俗的に理解されてしまうだけだろう。ならばやはり、「被害」と「加害」を結ぶセットな論理が、見出されていなくてはならない。

現アベ政権は、それに似た論理、道筋を、手にしているということだろうか? そのシナリオどおりなクーデタが、敢行され始めた、ということだろうか? 日本人には禁断の手であった、天皇を政治的に利用できるという、「元首」化への道。自民憲法案。(……植草一秀氏がいうように、都知事選のために、そんな禁じ手をしたというなら、それこそ噴飯ものだ。)その、第一手かもしれない報道リークをやった「政治的関係者」は、戦犯者だが、国民は、黙っていてよいのか?

*安倍政権とは対立的な自民党内の動き、という見方もあるようである。

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