2020年10月18日日曜日

引っ越しをめぐる(2)――石川義正著『政治的動物』(3)

非純粋ドア

団地からの引っ越し探し中に、石川義正氏の著作(『政治的動物』・『錯乱の日本文学』)を読むことになったので、その「建築/小説」をめぐって考察された文章を参考に、自分が何をやっているのか、文脈づけてみたくなった。 
まず、石川氏の、時代的な認識を要約してみよう。 
……
第二次世界大戦からバブル期にいたる半世紀にもみたない持家中心の社会システムは、1990年代以降の若い世代にとっては、まったくリアリティーが感じられなくなる。が、親元を離れた彼らの居住様式とは、「眠る」「休む」「養う」「育む」などの諸機能を発見した大正期の堀口捨巳による住宅建築、かつての民家には不可欠であった「接客」や「生産」といった機能を排除していく前提となった田園都市という日本の都市中間層のライフスタイル(天皇制のもとでのリベラル)が、より解体的な分離と散乱へ引き継がれていったものだった。いわばnLDK様式とは、実家の個室としての延長としてのワンルームマンション(n)、キッチン(K)としてのコンビニ、ダイニング(D)としてのファミレス、リビング(L)としてのネットゲームになっていったのである。その過程において、介護対象たる後期高齢者となった彼らの親たちは、ボケ老人となって持家に取り残されている。
……
たしかに、以上は、現在親になっていてもおかしくない年齢くらいの世代にとっては、そうかもしれない。が、父親である私の引っ越しの動機は、個室をもてない子供が、食卓の下に布団を敷いて寝ているのを毎朝みて、不憫にもおもったからであった。息子にとって、団地の2LDKの間取りとは、ほぼリビングしかないような世界であり、そこに、なにもかもがある、のが自明視されてきた世界である。私自身は、たしかに、石川氏の指摘の範囲におさまるのだが、それしかを生まれたときから経験していない世代への移行にあっては、意味が変わってきてしまっているのではないか。そしてその子たちの大半が、2LDKでさえ住んで結婚し子育てをする、という前提さえもてないかもしれない。ちなみに私は、団地に引っ越す前、子どもが小学校にあがるまえまでは、大家さんの敷地内にある2Kのアパートに住んでいた。学生中は六畳一間トイレ共同のアパートだったが、植木職人になった3年目くらいの30歳くらいのときに、移ったのである。二階建てで、一階の真ん中の部屋だった。隣は、発達障害と診断された子供をもつ30代の夫婦、もう隣は、老夫婦だった。息子の世話は、老人ホームへ移ることになる大家さんと、隣の老夫婦がよく面倒をみてくれた。駅前開発で立ち退いてからも、息子は夫婦喧嘩で家が荒れるたびに老夫婦が新しくかりた2kのより窮屈となったアパートへと飛んでいった。かつての長屋住まいみたいなものだった。そして団地にうつり、子供が中学生を卒業するくらいになると、息子の同級生たちも、もう少し広い家へと引っ越していった。私たちは、最後のようなものだ。

高校生になって、はじめて個室(n)をもつ。それはもはや、子供部屋、ではないとおもう。彼らには、子ども部屋に引きこもった私のような近代的な自我=内面みたいなものはないのではないのか? 少なくとも都会では、川の字になって、親と寝ていた子は多かったろう。私は、江戸時代に逆戻りでもしたのか、と感じられた。しかし、私たちのように、子どもを世話してくれる近所の手助けを得られなかった若い夫婦たちは、子を虐待してしまうことに追い込まれもしているだろう。親元が近い地元が東京の人たちは、回避しやすいかもしれない。おそらくそこが、江戸時代という比喩が当てはまらないところだろう。

私は、風雨がしのげる寝床があれば十分だ、と考えるものだ。持家幻想はない。若い人のなかには、無理してローンを組んで、東京の建売住宅に住まう人も多いだろう。今回、私たちが引っ越すのも、そんな建売住宅の2階建て借家だ。かつて、持家を構えていた親世代の土地が分割分譲され、そこに、細長い3階建ての家がたつ。3LDKくらいだ。が、そこに実際暮らしてみると、隣家の声は筒抜けで、三階まで子供を起こしにいったり、2階のベランダへ洗濯を干しにいったりするのも大変になり、ならばとそこは他人へと貸し、持ち主は、フラットなマンション住まいや、より郊外の広い敷地の家へと移っていったのかもしれない。そんな借家の空き家も、競争率があるのに、いまはなかなか住み手がつかなくなってきているようだ。都心近くだと、そんな3LDKでも、20万前後はするだろう。とても、若い世帯には借りられるものではないし、それくらい払うのなら、毎月払いやすい金額でのローンを組んだほうがいい、ということになる。が、では、どんな家が、間取りが、考えがいいというのだ? おそらく、いま、需要側は手詰まりなのだが、供給側は、相変わらず、3階の掘っ立て小屋を作っている。高給取りは、ある意味、持家幻想を抱擁できた親世代を反復しえて、ゆえに、引きこもりや家庭内暴力といった子どもたちが派生し、ひと昔前の事象をなお再生産していっているだろう。

なおブルジョワの夢を再帰させてくる女房の繰り言と、スマホや不動産屋からとりよせた物件情報をみるにつけ、これは、土地を買って自分でデザインして作ってもらったほうが安くていい物ができるんじゃないか、とおもいはじめた。団地からまっすぐ50メートルほどいったところに、売り出し中の土地があって、私はさっそくデザインしてみた。道路には面しているが、奥行きのある真四角な土地ではない。平行線のない台形みたいな感じだ。奥の一角だけが直角をひとつもっているが、あとは、みな斜めの線になる。おそらく、30坪ほどで、狭い。デザイナー建築だと、三角形とかのも工作するようになるみたいだが、原則的に木造建築は、辺と辺は直角でないと、構造的というより施工的な不備がでやすいのではないか、と素人的におもう。四角と四角の連結でも、屋根雨漏りとかの施工技術が困難になるのではないか、と考えられるが、真四角では無理な土地なので、¬型の第一案をねん出してみる。長い辺は東側を、短い辺が南側を向いている。駐車場におく自動車が目隠しがわりだが開放的に。一階にはトレイ・風呂・脱衣所・リビング(しかおけないだろう)。玄関ではなく、奥側のリビングの方から階段をのぼらせて、そのまま廊下をつくり、そこに、ベランダ・テラスを隣接させて洗濯干し場とし、廊下の突き当りの道路側が子どもの部屋。折り返した廊下があたる長い辺の2階にもう一部屋。で、もし一階のリビングの先にも3畳ほどでも部屋が確保できれば、そこが私の隠れ書斎だ。まだ部屋が必要とあらば、長い辺にもう一階つけたして三階にしよう。……屋根の形が未定のままのその第一案をみて、また女房がぎゃあぎゃあいいだす。ので、やる気がなくなる。が、思考実験として、いまでも続けている。がまた、土地の形と、そこに何人で誰が暮らすか、と前提されてくれば、もう自動的に形態はできてくるようなもので、あとは、みてくれと、細かい細部への日常的な想像力で、使い勝手を少しでもよくしていくしかない、と、機械的な作業になってくるだけのような気がしてくる。
たしかに、かつて重用だった客間、という発想がでてこないことからも、持家nLDK思想の延長のままだ。しかし、リビングや個室をはぶいて応接間というわけにもいかない。だいたい、そんな偉そうな客などこないだろうし、呼びたくもない。身内や友人くらいだから、リビングでの対応で十分だ。となると、ここには、どんな思想が欠けているのか? 

(1) 風雨がしのげれば十分だという思想、あるいはランボーのいう「ところかまわずしけ込め」という覚悟、そのホームレスなホームを突き詰めていない、ということ。私が植木職人になっているのも、新宿で家賃2万のアパート(いまも崩れたままのこっている)の裏に、そこに植木屋があったから、ということだ。 

(2) 長屋住まいや団地の話をだしたのも、このブログで言及した、中谷礼仁氏の「納戸」の反復=古層の露呈、みたいな歴史の構造性のことが念頭にあったからである。住んでいるうちに、でてきてしまう、というか、やってしまっていることがある。その身体的な予期とデザインとの関連性を突き詰めていない、ということ。いわば、人間、あるいは民族というような文化的な風雨をどうしのぐか、ということだ。この視点は、石川氏の著作では、赤瀬川源平を論じた箇所において重なってくるのだろう。――<そこには匿名の人びとの慣習によって徐々に形成されてきた時間制が折り重なって堆積している。…(略)…しかし現代の都市の生活様式は民衆の基盤となる村落的あるいは共同体的な規範ではなく、むしろ断片化した共同体の廃墟なのだ。超芸術はこの生活様式の廃墟を、芸術とその外部の短絡を可能にした不在の表象とみなすのである。>(「芸術・大逆・システム」『政治的動物』)

石川氏は、その赤瀬川の「短絡」と、柄谷行人の「単独―普遍」という回路の「短絡」とを結びつけて考察している。私はこの「短絡」と、大澤真幸氏や佐藤優氏からも指摘されていたそこを、「量子のもつれ」として理解できないか、と考えている。非局所性としての「単独―普遍」である。

0 件のコメント: