2024年5月4日土曜日

『チッソは私であった 水俣病の思想』(緒方正人著 河出文庫)

 


「父、植民地のお代官だったのだ、水俣でしか通用しない知性だ」(2006.9.11

「父の友達は皆体を悪くしている、それが水俣だ、みんな自分に向かったからだ、うちの父だけが外にむけて、発散させた。(私が被害をうけた、と)」(2006.10.5)

 「一九五九年に「漁民一揆」でチッソに押しかけたときでも、自転車やバイクを排水溝に放り込んだり窓ガラスを叩き割ったりしただけです。命に関わる一番大事なところでは、いつも殺されても殺さなかった。これは事実です。

 なぜそういうことができたのか考えさせられますが、それはこういうことじゃないかと思います。魚を毎日たくさん獲って、それで自分たちが生き長らえる。魚によって養われ、海によって養われている。一年に二、三遍は鶏も絞めて食って、あるいは何年かに一遍は山兎でも捕まえて食っている。そういう、生き物を殺して食べて生きている。生かされているという暮らしの中で、殺生の罪深さを知っていたんじゃないかと思います。このことがなによりも加害者たちと違うところです。…(略)…

 では、なぜ闘いが必要だったのかということですが、おそらく、そのような水俣の漁民や被害者たちの精神世界からの呼びかけこそ、闘いの最も肝心なところではなかったのか。つまり、命の尊さ、命の連なる世界に一緒に生きていこうという呼びかけが、水俣病事件の問いの核心ではないのかと思っています。その問いは決して加害者たちだけに向けられたものではなくて、それこそあらゆる方向に発せられていると思います。」

 

「小さいときに親父を殺されて、チッソをダイナマイトで爆破してやりたいと思っていた自分が、今、チッソに対してほとんど恨みを持っていません。そして私は、チッソや行政の人たち、あるいは水俣被害者が拡がっていく当時、特にチッソ擁護に加担したといわれる人たちを含めて、ともに救われたいと思います。

 私は、今、水俣病患者として水俣病を語っているわけでもなくて、水俣病患者として生きているわけでもありません。私の願いは、人として生きたい、一人の「個」に帰りたいというこの一点だけです。水俣病事件の四十年、戦後五十年、私たちを支配し、まるで奴隷下に置くかのようなこの「システム社会」が肥大化してきて、自分の命の源がどこにあって、どういうふうに生きていくのか、もうわからん如なってしもうたそのときに、生まれ育った不知火の海と、そこに連なる山々や天草の島々、その連なる世界の中に、自分ひとり連なって生かされているという実感をともなって感じたとき、本当に生きているという気がするわけです。」

 

「私は一九九五年にアウシュヴィッツに行って来ましたが、以前からドイツとポーランドを訪れたいと思っていました。それは、自分がもしドイツにその時いたとしたら同じことをしたじゃなかろうかという気持ちがあったからです。自分がヒットラーの親衛隊の一員であったりドイツ軍だったり、或いは一般市民であったりしても同じことをしたんじゃないか。水俣病のことを考えても、チッソの中にもし自分がいたとしたら同じことをしたんじゃないか。…(略)…

 私は以前は、戦争と水俣病とは別の問題だと思っていたし、長崎や沖縄の問題とも別の問題だと思っていたんです。ところがどうもそうじゃないと思うようになったんですね。実は私も決してまともな男じゃなく、昔家出したこともあるし、右翼に拾われて熊本に二年ばかしおったこともあるし、患者の運動に参加し、そこで逮捕されたりいろんなこともありましたけども、そうやっていく中で、やっぱり本当の自分というのはなんだろうかと思うようになったんです。それまでは、そんなこと考えないでおったんです。ところがその問いが始まってから、今まで持ちあわせとったのがボロボロ崩れ落ちていく。恐くはありましたけども、命を懸けてでもそのことを知りたいと思ったんですね。ですから水俣病の事から、実は戦争の問題を考えるようになり、沖縄や広島・長崎の問題も少しわかるようになり、様々な社会事件や薬害事件や、日本国内だけじゃなくて、あちこちで起きる民族同士の対立の問題や宗教戦争や、いろんなことを考えるようになりました。ですから、水俣病事件というのはチッソを問うていたという言い方もありますけども、おのれが問われていた気がします。このことが水俣病に遭遇した自分の体験の中で一番気付かされたことだと思います。ですから、たしかに私の小さいころの親父は、非常に苦しんで目の前で狂って死んでいきましたけども、そのことが少し自分の中で意味をもってきたという気がしているわけです。」

 

※ 映画「ピアノ・レッスン」を受けて、その背景となる暴力の反復構造と、私たち身内のことに思いをはせていたとき、アートのパンフレットだとおもっていたものが、カレンダー形式の一日一行日記であると気づいた。息子が、三歳、四歳の時のものである。

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