2025年8月17日日曜日

スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』(青土社 中山徹+鈴木英明訳)を読む(1)

 


 まず引用する。

    翻訳中のルビ、および強調傍点のような字体の横につくものは、このブログの機能上により、省略してある。

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定理Ⅰ 存在論の視差

 

 「自由意志」への欲望……自己の行為に対する全的な且つ究極の責任をみずからに負いたいという欲望は……おのが頭髪をつかんでわが身を虚無の沼地から(aus dem Sumpf des Nichts)救い上げようとするのと……同断である。

 

ニーチェがここでしりぞけているのは、ドイツ観念論において主体を規定している自己措定である。ここで銘記すべきは、そうした「わが身を虚無の沼地から救い上げようとする」動きが自然のなかであらかじめ示されていることである――ここでいう自然は、「前-自然的」な、いまだ自然的ではない現実、粒子が虚無から現れる場としての量子の原初的現実という意味での自然のことであるが。(p39)

 

これと同様に、量子物理学における<現実的なもの=現実界>は、波の振動(波動関数の崩壊を通じて現れる現実と対立するものとしての)ではない。それは、ひとつの動きとしての、「生成過程にある」この崩壊それ自体、構築された現実へと安定化する以前の段階にあるこの崩壊そのものである。チェスタトンは人間がサルの眼にどう映るかを想像せよと要求したが、それと同様にわれわれは、現実の構築が波の振動する空間の内部でどのように起こるのかを想像すべきである。同じことは性的差異についても言える。性的差異の<現実界=現実的なもの>は、男性的アイデンティティと女性的アイデンティティとのあいだの差異ではない。それは「生成過程にある」この差異そのもの、差異化された複数の項に先立つ<自己>差異化の運動である。(p56)

 

つまり、量子の波が小さく、宇宙が大きいのは、われわれの基準からみてそうなのである。そしてわれわれは恐れることなく、この論理を次のように最後まで突き詰めるべきである。樹木やほかの植物はなんらかの方法でコミュニケーションをとっており、脅威を感じたときパニックを起こして反応するということを科学者が証明したら、どうだろうか。産業用の飼育場にいる動物が耐えがたい苦痛を日々受けており、われわれ人間はそれを無視しているのだとしたら、どうだろうか。だが、なお悪いことに、この計り知れない苦痛に対して無知であることが、われわれの進歩と表裏一体の関係にある、つまり進歩の必然的な裏面であるとしたら、どうだろうか。数々の文化的偉業を成し遂げた人類がこの無知から生まれたのだとしたら、どうだろうか。われわれは、いま見えているものだけを見るために、こうした沈黙のつぶやきという巨大な領域を無視する必要があるのだとしたら、どうだろうか。

 ここからわかるのは、「客観的現実」に関するどの概念もひとつの主観と結びついているということ、そして、あらゆる客観的現実を考慮に入れた全体のなかにわれわれの現実を位置づけるのは不可能である、ということである――われわれの住まう地球が実は別の現実における小さな原子にすぎないとしたらどうだろうか、われわれが原子とみなすもののなかに知的生命が存在しているとしたらどうだろうか。しかしながら、時間と空間つまり物質の分割不可能性に関する量子理論を信じるなら、時間と空間は無限ではない。つまり、空間と時間には量子論的な極小単位が存在する。このことは、ものの大きさを測るための客観的なものさしを提供してくれるのではないか。(p86)

 

鍵となる問いは、こうである。われわれは「現実的なもの」との接触を、自身の主体性から抜け出すポイントを、どこに求めればよいのか。われわれはまさにこのレベルにおいて、次のように事態を逆転すべきである。現実的なものは、われわれが自分の主体性の痕跡を消去したあとでその輪郭がはっきりと現れる、そうした「客観的現実」として接触可能なものではない、なぜなら自然それ自体に関するあらゆる積極的な規定は、すでにわれわれの立場からなされているからである、と。われわれにとって接触可能な唯一の現実的なものは、われわれの主体性の過剰性である。主観による理解が及ばない盲点とも言うべき領域は、自然それ自体ではなく、われわれという主体性と自然それ自体との調和のありかたなのだ。この盲点と言うべき領域は、主体を欠いた客観的現実ではなく、客体(対象)としての主体それ自体である。主体はけっして自然と調和しない。主体とは、あらゆる存在論的体系における裂け目なのである。したがって、ここにみられる構造も、ある種のループ構造である。現実「それ自体」をめぐる、われわれから独立した事物の「実際のあり」方をめぐる新しいヴィジョン(ニュートンの機械論的宇宙、一般相対性、量子波)が、ますます精密さを増しながら構築されてはいるが、そこにはつねに次のような懐疑がひそんでいるからである。このヴィジョンは、そのへその緒であるわれわれ自身の観点と根っこの部分で結びついているのではないか、そして、それは風船のように破裂するのではないか、と。われわれが<現実的なもの>と接触するポイントは、新たな科学的モデルを通じて徐々に接近可能となるX地点ではない。そうではなく、そうしたモデルの構築によってわれわれが埋めようと試みる、現実における裂け目である。より厳密に言おう。(生活世界の)日常的な現実におけるわれわれの住処は、けっして安全な場所ではない。ここには、この住処を崩壊させるおそれのあるギャップがつねに潜んでいる。そして、直観に流されない科学的(あるいは形而上学)説明――これをわれわれの日常的経験に変換することは、ますますむずかしくなっている――は、まさにこのギャップを懸命に埋めようとしている。つまり、われわれの主観的観点から独立した事物のありようを「完璧に」記述しようとしている。だが同時に、こうした補足としての説明はその正体、虚構という正体を暴露されるおそれがある。それゆえに、現実的なものとの唯一の接触点となるのは、ギャップそのもの、すなわち、日常的な生活世界とその科学的補足とのあいだの移行ポイントである。(p89)

 

人間存在においてこの「欠陥」に付けられた名前は、セクシュアリティである――フロイトの暗黙の(ラカンによって明確化された)前提である。セクシュアリティとは、文明化された生活の自然の基盤ではなく、人間という動物の生活を「文明化する」きわめて根本的な身振りである。これは、われわれにとってもっとも重要なフロイト的前提である。つまり、労働でも言語でもなく性こそが、われわれ(人間)が自然から切断されるポイントなのである。性とは、われわれが存在論的な不完全性に直面し、無限の自己再生産というループ――欲望のねらい(aim)が欲望の目標(goal)ではなく、その目標の欠如の再生産になるというループ――にとらわれる場なのである。(p90)

 

定理Ⅱ 人は性を通じて絶対に触れる

 

崇高は、自分の私利私欲を超えているものの存在を感じさせ、理性的なものである無私の精神を示し、そうした精神に潜む快楽を教えてくれるのである。(p159)

 

これが意味するものは、ラカンが享楽(jouissance)と呼ぶもの、つまりは過剰な快楽は、道徳法則と同じく、快原則を超えているだけではなく私利私欲をも超えているということだ。快原則を超える次元にフロイトがつけた名前は死の欲動であり、したがって、死の欲動もまたカントのいう意味で感性的動因によらないものである。(p161)

 

力学的崇高において、われわれは否定的なやり方で道徳法則を力として経験し、この力のおかげで自然の猛烈な力という外的な脅威に抵抗できるからである。…(略)…しかし、われわれが数学的崇高を経験するときに起きていることは、これとやや異なっている。数学的崇高を詳しく検討するとわかるのだが、この崇高は、感覚的なものの外部にある、これとは別の「高次の」次元が存在することを暗示してはおらず、感覚的なものの秩序に対する例外を暗示してもいない――数学的崇高が暗示している「超感覚的なもの」は、人間の知覚能力の限界まで拡張された感覚的なものそれ自体なのである。われわれがここで出会っているギャップは、感覚的なものに内在しており、ラカンがすべてではない(non-all)というアンチノミーとして定式化したものに一致する。感覚的なものの秩序にとって例外は存在しないのだが、にもかかわらずこの秩序は全体化されえない。つまり、感覚的なものの秩序はすべてではないもの(非-全体)であり続ける。言い換えれば、感覚的なものがここで克服されるというのは、これとは別の、高次の次元に向かって克服されるのではなく、感覚的なものの内側で、それ自身の矛盾に陥るということなのである――これが、ラカンが女性の享楽(jouissance feminine)と呼ぶものの特徴である内在的対立である。ここでわれわれは、序章で手短に概略を説明した、男性のセクシュアリティのアンチノミーと女性のセクシュアリティのアンチノミーとの差異にもどることになる。女性の享楽には限界がないがゆえに、そこに内在する行き詰まりが障害となっている――この行き詰まりのために、女性の享楽は自制(self-renunciation)に向かう可能性がある――のに対して、男性のセクシュアリティの秩序は、性的ではない例外に(カントの場合は、倫理的な)例外に依存しており、この例外が男性の世界を支えているのである。(p162)

 

男性と女性は中身のある実在物ではなく、敵対の二つのタイプそれぞれの形式的構造だということである。…(略)…女性の主体性の核心にあるのは、イデオロギー的な呼びかけによって与えられたアイデンティティをヒステリー症的に疑うことなのである。「あなた(主人)はわたしのことをそう言いますが、なぜわたしはあなたが言うような者なのですか」。だから、女性がイデオロギーの甲羅という拘束から逃れようとする亀に似ているのに対して、男性はこれとは反対に、自分の手から永久に逃れ続ける、ファルスという象徴的アイデンティティをつかもうとし、「おれは本当に男なのだろうか」という強迫的な疑念に苛まれるのである。ようするに、性的差異とは差異それ自体に対する差異、メタ差異なのだ。性的差異とは、二つの性の差異ではなく、性的差異に関する二つの様式の差異であり、性的差異をめぐる二つの「機能(関数)」の差異なのである。ラカンの性別化の式に対する一つの解釈として、次のように考えられる。男性の側においては、性的差異は人間(男性)の普遍性とこれに対する(女性という)例外との差異であり、他方、女性の側においては、性的差異は(女性の側の)すべてではない(non-all)と(男性の側の)例外はないということの差異である、と。言い換えれば、性的差異は、二種類ある性の普遍性(この場合、トランスジェンダーなどのほかの種類を加えていくことができる)の差異ではなく、性の普遍性そのものに内側から亀裂を入れる差異なのである。(p165)

 

われわれは社会的―政治的経験において、これと同じギャップの別のかたち、つまり異なった「生き方」の通約不可能性という見かけをとったギャップに出会う。別の生き方、われわれには計り知れない、享楽を得るための集団的様式もまた<他者性>の姿ではないだろうか。この場合、(政治的権利の、市場の)普遍性と、生き方として具体化された<他者性>とを一致させるにはどうすればよいのだろうか。直接的な解決方法――あらゆる差異を超えてわれわれを一つにする普遍性を主張することと、異なった生き方の、埋めることのできない差異を超えてわれわれを一つにする普遍性を主張することと、異なった生き方の、埋めることのできない差異を受け入れること――はどちらも失敗する運命にある。解決方法は、またしても、神秘を二重化することにある。<他者>の神秘は<他者>自身にとっての神秘である、というように。<他者>を把握することにわれわれが失敗するのは、<他者>が自分自身を把握しようとして失敗することの反映なのだ。われわれと<他者>を一つにする普遍性は、われわれと<他者>が共有する具体的な特徴にあるのではなく、この失敗それ自体のうちにある。これと同じことが、謎めいた<他者性>とのこうした出会いの原型であるセクシュアリティについてもいえる。…(略)…人間のセクシュアリティの原光景が――これと同時に無意識の原光景が――始まるのは、幼児が、他者たち(両親、兄弟姉妹、等々)が自分といっしょに遊んでいると意識するとき、他者たちは自分に何かを求めているのだが何を求めているのかよくわからない、と意識するときだけではない。こうした他者たちは幼児に何を求めているのか自分でも気づいていない、そう幼児が意識するときにも、セクシュアリティの原光景が始まるのである。セクシュアリティの原形式は、他者のこうした行為、他者自身にとって不可解な――自分の子供を過剰に愛撫する母親などの――行為に位置づけられる。(p176)

 

では、最終的に人間の知性の過剰な発達を頼みにして、「汝は何を欲するのか(Che vuoi?)」の深淵、<他者>の欲望の謎を読み解こうとすると、どうなるだろうか。ここに、解きえない問題を解くことに人が固着している理由、解答不能な問いに答えることに人が固着している理由があるとしたらどうだろうか。形而上学とセクシュアリティ(より正確にいえば、人間のエロティシズム)との結びつきがまったく文字通りに受け取られるべきだとしたら? 意味を支える非意味としての、このトラウマ的で理解しがたい核は、究極的には、排除不可能な幻想そのものなのである。(p178)

 

セクシュアリティは、性関係はないという事実によって規定されており、部分欲動の多型倒錯的な戯れが生起するのは、この不可能性/敵対を背景としてなのである。したがって、性的行為(性交)には両面あることになる。オーガズムという性行為の絶頂の裏面は、不可能性という行き詰まりである――セクシュアリティをむしばむこの不可能性、内在的障害を主体が経験するのは、性交という行為を行っているときなのである。こういうわけで、〔性器の結合という限定的意味での〕性交はそれ自体では成り立たないので、霧のような幻想だけではなく、部分欲動という支え(愛撫やキスからはじまって、軽く叩いたり強く抱きしめたりするなどの「些細な」愛の行為にいたるまで)を必要とするのである。…(略)…性的差異は、実質的な存在としての二つの性の差異ではなく、差異「それ自体」であり、あらゆる性的アイデンティティを横断する純粋差異(矛盾、敵対)である。(p184)

 

男性・女性というアイデンティティが中心的であり、この両者の異性愛関係が中心的であると主張することそれ自体は、ほかの性的アイデンティティを、二次的な逸脱あるいは規範からの倒錯的逸脱にしてしまうものではない。異性愛規範からの「逸脱」が、規範それ自体における「逸脱」を指し示しているとしたらどうだろう。「逸脱」が、規範それ自体の抑圧された真実が回帰していることの症候として生じているとしたらどうだろう。この「真実」は、フロイトの言葉を用いれば、あらゆる性的アイデンティティにともなう居心地悪さ(不満というより不安に近い意味で)と呼べるものだ。言い換えれば、根源的対立は、異性愛規範とこの規範からの逸脱とのあいだにあるのではなく、性的差異という不可能な<リアル>を捉えそこなう異性愛規範それ自体の核心に書き込まれているのである。…(略)…性的差異は示差的であるだけでなく、敵対的な(非)関係において、性的差異はそれが差異化する項よりも先に存在するからである。女性は、非男性であるだけではなく、逆に男性は非女性であるだけではない。女性は、男性が完全に男性になることを妨げるものでもあり、逆に男性は女性が完全に女性になることを妨げるものでもあるのだ。(p186)

 

では、すべての性的差異を横断するこうした差異から、二つの性の差異、男性と女性の差異への移行は、どのようにして行われるのだろうか。…(略)…敵対関係が二つのタイプとして現れるのはなぜなのか、と。その理由は、<二>は存在論における根源的な対のようなものではない、ということである。<他>は<一>の不可能性の「反省的規定」にすぎず、それゆえ、<他者>という形象は<一>の不可能性を具体化したものにすぎない。…(略)…性関係はない、というだけでは十分ではない。<他>(の性)という形象において、この非関係はたしかに存在している。男性は女性と関係を築けない、というだけでは十分ではない。女性それ自身がこの非関係を表す名前なのである。

 これが含意しているのは、二つのアンチノミーのあいだには根本的な非対称性がある、ということでもある。「女性の」数学的アンチノミーは「男性の」力学的アンチノミーよりも優位にあるのだ。つまり、力学的アンチノミーは、数学的アンチノミーの行き詰まりを解決しようとする二次的な試みなのである。力学的アンチノミーは、<すべてではない>という開かれた〔閉じることのできない〕領域から<一>を、例外を除外することによって、一つの<全体>、一つの普遍を構築するのである。(p190)

 

では、主体はどのように性別化されているのだろうか。まず、ここまでの結論をまとめておこう。性的差異は、第一に、二つの差異ではなく、それぞれの性の内側にある差異(矛盾、敵対)である。それぞれの性を規定しているのは、もう一方の性との差異では必ずしもなく、それ自身との差異、それ自身のうちに在る「矛盾」なのだ。そして二つの性を横断するこの普遍的差異から、二つの性の差異へと移行するときにわれわれが出会うのは、二つの性のあいだの永久の闘争(あるいは、コスモロジーの水準でいえば、<男性原理>と<女性原理>(陰と陽)や<光>と<闇>などの、対立する二つの宇宙原理)という古くからある話ではない。また、構造主義の用語でいえば、男性のシニフィアンと女性のシニフィアンという、対立する二つのシニフィアンの差異でもない。ラカンが指摘したように、二つの原初的シニフィアンのうちの一つが欠けており、それは「原抑圧」されている(つまり、一方の原初的シニフィアンを抑圧することによって性的差異の全領域が構成される)。性的差異を表すシニフィアンは男性の(「ファルスの」)シニフィアンのみ、ラカンのいう<主人のシニフィアン)S1のみであり、このシニフィアンに女性の側で明確に対応しているシニフィアン(S2)は存在しない。この「対となるシニフィアンの欠如」が意味するのは、男性のポジションのみが同一性を有し、これに対し女性のポジションには欠如/過剰が位置付けられる、ということだ……と述べただけでもフェミニストの怒号が聞こえてくるようだ。存在するのは男性だけで、(ラカンがいうように)女性は存在しない。…(略)…したがって、「性関係はない」という事実は以下を意味している。二次的なシニフィアン(<女性>というシニフィアン)は「原抑圧されている」ということ、そしてこの原抑圧の代わりにわれわれが得るもの、つまり原抑圧によって生じた空白を埋めるものは、数多の「抑圧されたのちに回帰してくるもの」であり、「普通の」シニフィアンの系列である、ということだ。<引用者付記――「…帰結の一つは、男が厳密な意味での唯一のジェンダーであり、女は最初のトランスジェンダーであるということだ。」>しかし、ここで事態は複雑になる。対を成す二項のうちの一方が欠けており、その欠如を埋めるのが多数性なのだが、こうした多数性の起源は、これと対立する起源によって代補されているのである。この対立する起源においては、出発点はシニフィアンの多数性(系列)であり、このシニフィアンの系列における空白を埋める再帰的なシニフィアンとして<主人のシニフィアン>が現れる。(p197~201)

 

こういうわけで、ラカンが正確な言葉で指摘したように、性的差異には非対称性が存在する。男性は非―女性である(男性の同一性は示差的であり、女性の対立物として設立される)のだが、女性は非―男性ではない。ここで気をつけなければならない。非―男性ではないからといって、女性は差異の空間の外部に住っているわけではない――女性の否定性は男性のそれより根本的なのだ。…(略)…ある人が、最愛の人の死のような辛い喪失に苦しんでいるとき、この喪失はその人を肯定的なやり方で規定する、つまり、その人の人生全体は最愛の人のいない人生となる――しかし、最愛の人を失ったあとで、その最愛の人は見かけとは違って偽物だったことに気づき、その結果――その人の構築する契機としての喪失それ自体を奪われ、自分の人生が空無であると悟るとしたらどうだろう。…(略)…この、喪失を根本的に喪失することは、女性の主体性を規定している。(この主体性は、もっと基本的な主体性、主体性それ自体である)。喪失はここで、他動詞的なものから自動詞的なものに変化する。すなわち、女性には対象がない、のではない、女性は「~がない」そのものなのだ。(p203)

 

もしもヘーゲルが自分の体系を今日書きなおすとしたら、その主要な三つの部分は、論理―自然―精神ではなく、量子論的実在(量子波という前存在論的な潜在空間)―現実―精神となるだろう。注意すべきなのは、それぞれのレベルから別のレベルへの移行は、たんなる「進歩」のようなものではなく、失敗(喪失、拘束)を必ずともなってもいるということだ。われわれの日常的な現実は、波動関数の崩壊によって、つまり潜在的可能性が消去されることによって現れる。現実はしだいに進展していき、生命の誕生を経て、思考/精神/主体の爆発的発生へといたる――しかし、精神のこの爆発的発生は、動物の生命の行き詰まりによるものでもある。人間は失敗した動物であり、人間の意識は根本的に限界や有限性に対する意識なのである。(p218)

 

社会や政治の分脈におけるこのパラドクスの決定的に重要な事例は、根本的に誤りを犯したマルクスに見いだすことができる。その誤りとは、先に述べた洞察にもとづいて次のように結論づけたことにある。すなわち、より高度なレベルの新しい秩序(共産主義)は可能であり、この社会秩序は、高いレベルを維持するだけではなく、より完成度を高めていくことすら可能で、スパイラルを描いて自己増殖する潜在的な生産力を現実において完全に解き放つことができるだろう。しかし資本主義においては、この自己増殖は資本主義に内在する障害/矛盾のために、社会を破壊するほどの経済危機によって繰り返し頓挫させられている。これがマルクスの結論である。ようするにマルクスは見逃していたのは、デリダがよく使うフレーズでいえば、生産力を完全に展開することの「不可能性の条件」としての内在的障害/敵対は、同時にその「可能性の条件」でもある、ということだ。もし障害を、つまり資本主義に内在する矛盾を除去するならば、生産力に向かう完全に解き放たれた欲動を、これを阻む障害から最終的に解放することは不可能になるのであり、資本主義によって生み出されると同時に頓挫させられるように思えた生産力をまさに失うことになってしまう――障害を取り去れば、この障害によって頓挫させられる潜在力そのものが消失してしまうのである(マルクスに対するラカンからの批判があるとすれば、この点についてなのかもしれない。剰余価値と剰余享楽とのあいまいな重なり合いに焦点を合わせると、その可能性が見えてくる)。(p221)

 

唯一の解決策は、「人間の本性」は今日も変わり続けているという事実を受け入れ、この変化の危険性と可能性にわれわれ自身をさらすことである。

 要約すれば、セクシュアリティの進化には五つの段階があることになる。最初に無性生殖(単為生殖)がある。次に植物の段階においては、性的差異は単体のなかに〔即自的に〕措定されるが、「それ自身に対して〔対自的に〕いまだ完全に現実化されていない。さらに進んで動物においては、性的差異は〔それ自身に対して〕完全に現実化され二つの性となる。そして人間において、本性としてのセクシュアリティはもはや生物学的なものではなくなり、セクシュアリティの不安定性を許容する象徴行為という事実として二重化される(生物学には男性である人間が、象徴秩序においては女性のアイデンティティをもつこともありうる、等々)。最後に、今後到来すると予想されるポストヒューマンの段階では、二つの性という地平は崩壊する。セクシュアリティは、科学的に操作された無性生殖によって無効にされ、今後実現されるかもしれない無性の象徴的同一化によって脅かされてもいるのである(しかし、こうした同一化を相変わらず象徴的と呼ぶことができるだろうか)。(p223)

 

われわれは<絶対>に触れる契機としてセクシュアリティを詳しく論じてきたわけだが、そこから得た教えは、セクシュアリティは主として内容(「アレに関すること」)には関係がない、ということである。セクシュアリティは究極的には形式にかかわる現象なのだ。ある活動は、ゆがめられた循環的な時間制に囚われたとたんに「性別化される」。ようするに、性別化された時間とは、フロイトが死の欲動として指し示したものの時間である。つまり、生と死を超えて永続する反復強迫という忌まわしい不死性である。(p229)

 

われわれはここで、もう一歩先に進むべきだろう。労働/資本の交換において、労働者は自分の生産物を売るのではなく、自分の労働力を商品として売る。ここで問題になっているのは、普遍とその例外という論理である。商品形態が普遍的になるのは、生産者たちが市場においてその生産物以外のものを交換しているときのみである。つまり、生産的な労働力そのものが例外的な商品として市場に現れるときのみである。これと同型の例外が、性の契約においても存在しているのではないだろうか。互いに快楽を与え合うパートナー同士の対称性も、つねにすでに崩れているとしたらどうだろうか。一方のパートナーが他方に「働きかけて」快楽を与えるということは、もちろん、快楽を与えるというこの活動そのものが、働きかけを行う=労働者にとっての快楽の源泉となることを意味している。(労働者によって生み出される)剰余価値と、(快楽を与える活動によって生み出される)剰余価値――他者(セックスのパートナー)に奉仕するという活動によって生み出される享楽――との同型性をここに見いだすことができる。(p283)

 

定理Ⅲ 三つの向き付け不可能なもの

 

たとえば、性的差異は二つの性の差異ではなく、あらゆる性的立場が安定化しようと試みる行き詰まりに付けられた名前である。あるいは階級闘争は、既存の社会集団の闘争ではなく、社会的敵対性に付けられた名前であり、あらゆる階級的立場はこの敵対性に対する反応として現れるのである。これが意味するのは、二つの性あるいは二つの階級のあいだに共通する空間はない、ということである。二つの性あるいは二つの階級が共有するもの、社会空間あるいはセクシュアリティ空間をまとめるものは、最終的には敵対性なのである。(p308)

 

われわれは破壊的な否定性と、われわれという存在の「止揚不可能な」背景であるそのあらゆる姿(狂気、性、戦争……)において、そしてそれがもたらしたあらゆる創造性において、和解するべきである、ということである。(p322)

 

階級闘争は社会的全体性の「深層にある基盤」ではない。つまり、社会的全体性のあらゆる契機を媒介する、その全体性の底にある構造原理ではない。そうではなく、それはそうした基盤よりもはるかに表層的なもの、終わりなき複雑な分析が失敗するポイントである。つまりそれは、絶望のあまりやけになって「でもこれは結局、階級闘争のはなしなのだ」と言って結論に飛びつく身振りなのである。ここで銘記すべきは、こうした分析の失敗は現実自体に内在したものである、ということである。それは、社会自体が社会を構成する敵対性によってのみ全体化されているのと同じことなのだ。言い換えれば、階級闘争は、厳密な意味での全体化が失敗した場合の、即製の疑似-全体化である。それは、敵対性そのものを全体化の原理として用いるという必死の試みなのである。(p342)

 

すなわち、なぜそしていかにして、量子的宇宙は波動関数の崩壊を、量子的宇宙が古典物理学的宇宙へと「脱-一貫化」することを、要求するのか。言い換えれば、なぜ、そしていかにして、量子的宇宙には崩壊が内在的に備わっているのか、である。量子の世界の驚異を前にしてただ立ちすくむ代わりに、われわれは視点を転換し、われわれの「日常的な」時空間の現実が発生することこそを真の驚異としてとらえるべきである。…(略)…これと真っ向から対立する理論は、そうした縮減を認めないMWI(多世界解釈)の理論である。これによれば、波動関数に含まれるあらゆる可能性は現実化される。しかしながら、すでにみたように、コペンハーゲン定説に本当に対立するのはMWIではない。本当に対立するのは、波動関数(量子の時空間)を究極の現実と考え、われわれの時空間をある種の存在論的幻想として、われわれの無知と認識的限界の産物としてとらえる解釈である。では、どちらのヴァージョンが正しいのか。あるいは少なくとも、どちらのほうがまさると言えるのか。スターリンの言葉をもじって答えれば、両方とも劣る、となる。つまり、この二者択一自体が間違いなのである。われわれは、最終的にどちらを選ぶのは不可能である、と主張すべきである。つまり、この二者択一自体が間違いなのである。二つのレベル〔波動関数と、われわれの時空間〕のいずれも真の現実に格上げされるべきではない。

 どちらかを選ぶべきでないというのは、二つのレベルが対称的な関係にあることを意味しない。われわれは唯物論者として次のように主張すべきである。現実の「基本文法」を形成する量子波以外には、なにも存在しない。そのほかの現実などありはしないのだ、と。このないということ(nothing)はそれ自体、積極的(肯定的)な事実である。要するに、この「基本文法」のなかには、ある種のギャップあるいは切断、波動関数の崩壊のための空間を開くギャップあるいは切断が、あらねばならないのだ。これによってわれわれはクラインの壺のモデルに連れもどされる。その丸みのある表面が<現実界>を、すなわち基本的組織としての量子波という「軟体動物」を表しているかぎりにおいて、そして、この組織は前―存在論的なもの、「無未満のものless than nothing」であるかぎりにおいて、この壺の真ん中の穴は、何かが、深淵に引き付けるある種の力が、その場そのものを下に引っ張り、「無未満のもの」を強引に<無>に変える、なにか(日常の現実)が現れる際の背景となる<空無>に変える、ということを示している。したがって、われわれが手にしているのはたんに「土台」的な量子波と「上部構造」的な巨視的現実という二重構造ではない。ここに第三のレベルがある。それは、前―存在論的な<現実界>が巨視的な現実へと変質することを可能にする、深淵のような<空無>である。(p386)

 

量子物理学は事実上、唯物論的である。つまり、神-システム―に記録されない微視的プロセス(量子振動)が存在する、ということである。そして神が大<他者>に付けられた名前のひとつである以上、われわれはいかなる意味で神(大<他者>)を単純に排除できないか、またいかなる意味で大<他者>なしに存在論を展開できないかを理解できる。つまり、神は幻想であるが、それは必要な幻想なのである。

 したがって、量子物理学の興味深いところは、それが無知に積極的な存在論的地位を与えていることにある。無知とはたんに、現実に関する完全な知を絶対に得られないという観察者の限界のことではない。無知は現実自体の構造に刻印されているのである。完璧な観察者としての大<他者>という考えそのものは、内側から崩される。つまり、量子振動は大<他者>による把握を逃れる前―存在論的な領域において起こるのである。だからこそ、存在論的に「あざむく」ということが可能なのであり、粒子が現れつつも、その存在が記録される前に消えることができるのである。(p393)

 

つまり、真の出来事は、つねにすでにここにある<空無>からなにかが出現することではなく、<空無>そのものの出現なのである。言い換えれば、問題は、なにかが無から生じるのはどのようにしてか、ではない。<無>そのものはどのようにして前-存在論的な<無未満>の群れから生じ、<なにか>が存在するための場を開くのか、である。…(略)…<無>とはむしろ、無未満のもの(less-than-nothings)と無以上のもの(more-than-nothings)(なにものかsomethings)とが循環する際の軸となる深淵である。(p399)

 

われわれはここから唯物論の必要最低限の定義を得られるかもしれない。唯物論とは、二つの真空のあいだの縮減不可能な距離のことである、と。そして仏教でさえ「観念論」にとどまっている理由もここにある。仏教にあっては、二つの真空が涅槃(ニルヴァーナ)という概念において混同されているのだ。フロイトもこのことをはっきりとはわかっていなかった。彼はときおり死の欲動と「涅槃原則」とを混同していた。つまり、死の欲動は生と死を越えて持続する反復という「死にきっていない」猥雑な不滅なるものであるが、フロイトは死の欲動のこの核心を見逃していたのである。有機体以前の安定状態への回帰としての涅槃は「にせの」真空である。なぜなら、それは〔真の真空としての〕欲動の円環運動よりも高くつくからである。欲動の領域内において、この二つの真空のギャップに相当するものは、欲動の目標と欲動のねらいとのあいだの差異――ラカンが詳しく論じたような――となって現れる。欲動の目標――その対象に到達すること――は「にせもの」であり、その「真の」ねらいを隠している。真のねらいとは、その対象を繰り返し取り逃がすことによってみずからの円環運動を再生産することである。対象との空想的な合一が推定上、完全な/不可能な近親相姦的享楽をもたらすとすれば、欲動がその対象を繰り返し取り逃がすことは、たんにそれよりも弱い享楽で満足することを強いるだけではなく、それ固有の剰余享楽(the plus-de-jour)を生み出すのである。かくして死の欲動のパラドクスは、ヒッグス場のパラドクスと厳密に構造的に一致することになる。つまり、リビドーの秩序の視点から言えば、システムが完全な休止状態にある場合よりも、システムが繰り返し欲動の円環にそって動いたほうが「安くあがる」〔エネルギーがいらない〕のである。(p402)

 

われわれは過剰な要素の機能を、明確に三つのレベルに分けられるだろう。…(略)…1<無未満>。無未満としかみなすしかない逆説的な要素があり、それを表す形象はden(デモクリトスが原子につけた名前)から量子物理学における「ヒッグス・ボソン(ボース粒子)」にまで及ぶ。これは「無のコストを、なんらかのコストよりも高くする」要素、言い換えれば、純粋な真空を得るために前―存在論的な混沌に付け加えねばならない要素である。…(略)…2<一>と<二>のあいだ。第二に、1+aがある。<一>は純粋な<一>ではない。それはつねにその影のような分身によって補足されている。つまり、それは「一以上、二未満」なのである。…(略)…つまりラカンが言ったように、<他の性>は存在しないのである。この過剰な要素が対象aである。…(略)…3<二>と<三>のあいだ。ラカンが述べたように、<三>は三つの<一>ではなく、根本的には2+a、つまり<二>の調和を見だす過剰を<二>に加えたもの――<男><女>に対象a(ラカンの言う非性的な対象)を加えたもの、二つの主要階級に浮浪者(非-階級という過剰)を加えたもの――である。(p404)

 

性的差異と階級闘争との相同性に対する通常の反論では、両者のわかりやすい差異が指摘される。階級間の敵対関係は歴史的に特殊な現象であり、徹底した被支配階級の解放によって廃止されるべきであるが、それに対し、性的差異はより深淵な人類学的由来をもつ(性的差異は人類史のはじめから存在し、動物界にもみられる)、と。ここでのアイロニーは、遺伝子工学による人間の「自然」への介入が予想されるなかで、われわれはそれとは反対の状況に置かれる公算が高い、ということである。つまり、性的差異が廃れ、階級的差異は勢力を持ち続ける……という状況に。われわれはこうしたわかりやすいレベルではなく、より基本的なレベルに立って、こう主張すべきである。性の場合も階級の場合も、差異を内在的に止揚すること(たとえば、敵対性なき多様なセクシュアリティや調和的な階級関係といった理想がこれである)はできない。差異を克服するには、セクシュアリティそのもの、あるいは階級そのものを廃棄するしかない。(p407)

 

マルクスから有名な例を引けば、王制主義そのもの(という普遍)は、…(略)…共和主義として存在する。あるいは、人類そのもの(という普遍)は、…(略)…プロレタリアートのすがた、つまり社会内にそれ固有の場を持たない人々のすがたをまとって存在する。

この二つの例外〔ヘゲモニー的要素と外部的要素〕は、どのような関係にあるのか。…(略)…たとえば、なにも所有していない個人や飢えかけた不安定労働者さえもが自己起業家として定義され、その結果、起業家精神が労働するすべてのひとの特色となっているこんにちでは、敵対性は起業家とプロレタリアとのあいだに、この二つの普遍のあいだにある。支配的なイデオロギー的立場から言えば、われわれはみな企業家であるが、その一方で「プロレタリア」は、この普遍性から主体的レベルにおいて排除された者たちを指すのである。階級闘争をこの意味で、つまり二つの特殊な集団のあいだの闘争ではなく、普遍性それ自体に内側から亀裂を入れる闘争としてとらえたときはじめて、われわれは階級闘争を他の解放闘争よりも「基本的な」ものとして擁護できるようになる。(p430)

 

それは、ある種の神秘主義者が「世界の夜」と呼んだ恐るべき空無――純粋な死の欲動の支配――を名指す用語である。<出来事>はいかにして<存在>のただ中で発生するのか、<出来事>が<存在>の領域において可能となるにはこの領域はどのように構造化されねばならないのか、という問いに答えるには、この深淵を参照するしかないのだ。…(略)…ここでは今一度、物質が空間を曲げるのではない、物質は空間の歪曲の効果であるという、アインシュタインの一般相対性理論のパラドクスを思い出すべきである。つまり<出来事>が<存在>に刻印されることによって<存在>の空間を曲げるのではない。それとは逆に<出来事>は、<存在>の空間の歪曲にほかならないのである。「あるのはただ」<存在>の裂け目すなわち自己不一致だけ、言い換えれば、<存在>の秩序が存在論的に閉じられていないという状態だけである。中立的な観察者の目には日常的現実の一部にすぎない一連の現実の事件が、積極的な加担者の目には<出来事>への誠実さの刻印となる――そういった事態を生みだす条件としての差異こそ<出来事>と<存在>との差異である。たとえば、中立的な歴史家にとってロシア史における暴力的な異常事態や変化にすぎない事件(ペトログラードの街路における戦闘)も、積極的に加担する革命家にとっては、十月革命という画期的な<出来事>の一部なのである。(p437)

 

人間を(「ヒト動物」を含む)動物から隔てるのは、意識ではなく――動物がある種の自意識をもっていることは簡単に認められる――無意識である。動物は<無意識>をもたないのだ。したがって、こう言うべきだろう。<無意識>は、より正確に言えば、「死の欲動」という領域、動物の本能的生のこのゆがみ―不安定化は、ひとつの生が<真理>の主体に変容するのを可能にするものである、と。<無意識>をもった生き物だけが、<真理-出来事>を容れる器になれるのである。…(略)…(さらに一歩踏み出し、思い切ってこう言うべきだろう。環境に完全に適合した生き物という意味で「動物」という語を用いるなら、たんなる動物など存在しない、と。生物と環境との相互作用における調和のとれた均衡は一時的で脆弱なものであること、それはいつでも突発的に壊れる可能性があること、それがダーウィニズムの教えである。人間の傲慢によって乱される均衡状態としての動物という考えは、人間の空想である。)(p440)

 

「永遠性」はそれ自体、歴史的である。つまり、永遠性がいったんここに存在すると、いったんひとつの「世界」として出現すると、それは「永遠」にここにあって、遡及的に過去を変え、また新たな未来を開く――「永遠性」はそうした概念的な構造を表している。ここで含意されているのは、すべての現実(<存在>の秩序)は<真理-出来事>に基礎づけられている、すべての現実は<真理-出来事>が沈殿して固まったもの、<真理-出来事>の「物象化」である、ということである。ひとつの<出来事>は、沈殿作用を通じてひとつの<世界>になる。それゆえ、あらゆる<世界>は、沈殿した<出来事>なのである。(p446)

 

本書の最期の定理においては、次のナイーブな問いに答えてみたい。(略)ねじれた存在論という構想は、われわれが現実を捉えようとする際にどんな意味をもっているのか、という問いである。…(略)…というのは、障害は内在的であり、外在的なものではないからである。つまり、あらゆる同一性を不安定にする恐れのある根本的な否定性は、同一性のまさに核心に書き込まれているのだ。…(略)…法の支配によって保証された平和的な関係を、国際関係というグローバルな領域にまで拡大すること(これはカントの考えた世界共和国という理念である)だけでは、直接的に「文明を文明化すること」はできない。ヘーゲルはわかっていたが、ここに欠けているのは、それぞれの文明の中心にあってその文明の倫理的構築物を支えている野蛮な核(戦争、敵を殺すこと)に対する認識なのである。(p461)

 

狂気は、必然的な事実として生じるものではないが、人間の精神を構成する形式に関する可能性である。…(略)…狂気の次にくるのがセクシュアリティである。…(略)…セクシュアリティは、もはや生殖するための本能的欲求ではなく、その本性上の目標(生殖)に関して頓挫させられ、それゆえまさに形而上学的で無限の情熱へと急激に変化した欲動なのである。このようにして、文明/<文化>はそれ自身の前提要件である自然を遡及的に措定/変容させる。つまり、文化は自然それ自体を遡及的に「脱自然化」するのだ。これこそフロイトが<イド>、リビドーと呼んだものである。このようにして、そしてここでもまた、自然という障害と戦いつつ、自然の実質と対立しながら、<精神>はそれ自身と、それ自身の本質と戦うのである。(p466)

 

戦争において、普遍性は、散文的な社会生活における具体的―有機的宥和に対抗し、かつそれを越えるみずからの権利を再び主張する。したがって、戦争の必然性は次のことを最終的に証明しているのではないだろうか。すなわち、ヘーゲルにとって、あらゆる社会的和解は失敗する運命にあるということ、いかなる有機的社会秩序も抽象的―普遍的否定性という力を包含することは事実上できないということである。こうした理由から、社会生活は、安定した市民生活と戦時の混乱状態とのあいだを永久に揺れ続けるという「偽の無限」であることを運命づけられているのだ――「否定的なもののもとへの滞留」という概念は、ここでより根本的な意味を、つまり否定的なものを「経験する」だけではなく否定的なものに固執し続ける、という意味を獲得する。これが社会生活において意味しているのは、カントのいう世界平和ははかない望みであり、戦争は、有機的に組織された国家の<生>を全面的に破壊する脅威であり続ける、ということだ。そして、これが個人の主観的生活において意味しているのは、狂気という可能性としてつねに潜在しているということである。…(略)…人間が自然と和解するのは次のようなときなのだ。自然と自然過程に対する人間自身の敵対・疎外は「自然」であり、こうした敵対は高い潜在力を保ちつつ、自然それ自体を規定する敵対であり不均衡であり続けるということを、人間が認識するときである――ようするに、人間が自然と統一されるのはまさに、自然からの人間の疎外のようにみえるもの、自然の秩序を人間が乱しているようにみえるものにおいてなのである。(p468)

 

ヘーゲルのいう和解とは、正しくは、すべての緊張関係が止揚されるか調停されるかして平穏な状態になることではなく、否定性それ自体という解消不可能な過剰との和解のことなのである。(p472)

 

集合体(assemblage)を構成する各要素は相対的に自律しているので、それらを根本的に再文脈化することも可能である。…(略)…こうした理由から、何らかの統一をめざす既存の要素を結合したものとして集合体を考えるべきではない。それぞれの要素はすでに、普遍的な敵対/矛盾として各要素に亀裂を入れている普遍性によって貫かれており、これらの要素が一つにまとまって集合体を形成するように仕向けるのは、この敵対なのである。したがって、集合体への欲望は、普遍性の次元が集合体の各要素において、否定性というかたちで、各要素の自己同一性を頓挫させる障害として、すでに作動していることを証立てている。言い換えれば、諸要素は大きな<全体>の一部になるために集合体をめざすのではない。諸要素が集合体をめざすのは、それ自身になるため、それ自身の同一性を現実化するためである。…(略)…革命において、何かが「実際に変化する」必要はなかった――〔ルビッチ監督の〕『ニノチカ』の例にもどれば、一杯のコーヒーの場合、革命はミルクなしのコーヒーをクリームなしのコーヒーに変える。これと同様に、エロティシズムにおいて、性的快楽の新たな「潜勢的可能性」は、良き恋人があなたから引き出してくるもので、あなたはその潜勢的可能性に気づいていないが、恋人のほうはあなたの中にそれを見ている。その潜勢的可能性は、見いだされる前からすでに存在していた純粋な<それ自体>ではなく、他者(恋人)との関係を通じて生成される<それ自体>である。…(略)…他者たち〔他の諸対象〕との現実的な関係や相互作用を超えてそれ自体として存在する対象は、他者たちとの関係から独立して<それ自体>に内在しているのではなく、他者たちとの関係に依存しているのである。一杯のコーヒーは、ミルクのダイアグラムの一部、ミルクの「隣接した失敗」となるのだ。…(略)…隣接した失敗とは、「予測できる結果とはならなかった、対象の近くで起きた失敗」であり、「いつまでも続く反事実的思弁を促す「亡霊的」対象を生み出しもする。そしてこうした思弁のすべてが無価値というわけではない」。ある対象の同一性は、ある対象の<それ自体>は、対象のダイアグラムに、対象のさまざまな潜在性に存在し、この潜在性のうちのいくつかだけが現実化される。しかし、ここでさらなる区別が必要となる。さまざまな失敗(あるいは現実化されない潜在性)のなかで、現実化されないことが実際は偶発的な事実であるものと、それより興味深いもの、すなわち現実化されないことが偶発的にみえるが、実際は当の対象の同一性にとってそれが本質的に重要であるもの、この二つを区別する必要がある――〔後者においては〕何かが起こりえたかもしれないと思えるのだが、それが現実に生起すれば対象の同一性を破壊することになるだろう。したがって、…(略)…いくつかの変種が現実化され、ほかの変種は可能性にとどまる、というだけでは十分ではない。いくつかの変種は非現実化されることがその本質なのである。つまり、いくつかの変種は可能性として存在しているようにみえるけれども、たんなる可能性にとどまっていなければならないのだ――そうした変種が偶発的に現実化されてしまうと、ダイアグラムの構造全体が崩壊してしまうのである。それらは構造の不可能な―リアルなものを表す点であり、こうした点に同一化することが決定的に重要なのである。(p474~483)

 

通常の実在論者のアプローチでは、世界が、世界を観察する主体であるわれわれとは無関係にそこに実在しているとみなして、世界を、実在を記述することをめざす。しかし、主体であるわれわれ自身が世界の一部である以上、これを踏まえた実在論は、われわれが記述している実在のなかにわれわれを含むことになる。その結果、実在論者のアプローチでは、「外部から」、われわれ自身とは無関係に、あたかもわれわれが非人間の目を通してわれわれ自身を観察しているかのように、実在を記述するわれわれを実在のなかに含むことになる。このようにしてわれわれ自身を実在に含むことがもたらすのは、素朴実在論ではなく、それよりはるかに不気味なもの、主体の構えにおける根本的な変化であり、この変化を通じて、われわれはわれわれ自身にとってもよそよそしい存在になるのである。

 客観的な集合体としての現実〔実在〕を「非人間の目」をとおして見ることと、世界に関与する倫理的立場から根本的に主観化された目で見ること、この両者の関連を理解することが決定的に重要である。アウシュヴィッツの例にもどれば、アウシュヴィッツをニュートラルな集合体として、つまり、そこで人間は、ガス室、うじ虫、等々のアクタンのなかの一つにすぎない、そういう集合体としてアウシュヴィッツを捉えることは、道徳をめぐるスキャンダルを引き起こさざるをえないような、おぞましい見方である。(よく言われるように、このような恐怖に直面していたら現実は崩壊していただろうし、太陽は陰っていただろう)。しかし、そのような「非人間の視点」がもたらす倫理的不可能性という衝撃的な経験だけが、本当に倫理的な態度を生み出すのである。(p487)

 

真の歴史性は、非歴史的なトラウマという核(敵対、対立)と、この核を歴史的に限定された配置(つまり、対立を解消しようとする数多くの試み)との緊張関係をつねにはらんでいる。…(略)…真の歴史性において、歴史を超越する普遍性そのものが現れる配置はつねに一つだけである。<コギト>そのものが現れるのは近代においてのみなのだ(そしてデカルトにおいてすら、<コギト>は考える物(res cogitans)として実体化され、ただちに曖昧化されてしまう)。…(略)…コギトが「真理になるのは実践において」、資本主義が支配する近代においてのみであり、個人が自分自身を、具体的で実質的ないかなる形式にも縛られない「抽象的」個人として経験する近代においてのみなのである。しかしこれは、市場による抽象化を最終的に克服すると「空虚な」主体も消失し、主体性が再び具体的な諸関係の網に囚われたものとして知覚され経験される、ということを意味しているのではないだろうか。この結論は、まさに以下に述べる理由から間違っているといえる。資本主義が支配する近代社会は特異な社会秩序である。それは(ほかの生産様式が支配的な社会に対して)例外的な社会なのだ。つまり、それは構造的な不均衡をともない、危機を繰り返し乗り切ることによって生き残ろうとする唯一の社会秩序なのである――ほかの生産様式にとっては臨界点であり衰退を招く脅威であるものが、資本主義にとっては常態なのだ。しかしながら、まさにそうした例外として、資本主義はほかのすべての生産様式に隠されている普遍的な真実を明らかにするので、その効果を消し去ることはできない。あらゆる種類の原理主義が前近代の実体的な秩序を回復しようとどんなに努力しても、資本主義のあとにそうした秩序にもどることは不可能である。資本主義のあとに来るものは、資本主義とはまったく異なる何か、根本的に新しい始まりでしかありえない。(p490~493)

 

真の自由とは、ストロベリーケーキかチョコレートケーキのどちらかを選ぶというような、安全な場所からなされる選択の自由ではない。真の自由は必然性と重なり合うのであり、ひとが真に自由な選択を行うのは、その選択が自分の実存を危うくするようなときである――たんに「そうせざるをえない」のでそうする、ということだ。自分の国が他国の占領下にあり、占領者に対する戦いに参加するようにレジスタンスの指導者から求められたとき、参加を求める理由は、「参加するしないは自由に選べるから」ということではなく、「自分の尊厳を保ちたいならば参加するしかないということが明白だから」ということになる。こうした理由から、根本的に自由な行為は、予定説という条件の下でのみ可能となる。…(略)――自分がこれからすることがすでに運命づけられていることはわかっているが、それでも危険を冒して、あらかじめ運命づけられていることを主体的に選択しなければならないのである。(p528)

 

われわれは主観であり、主観性という地平に拘束されている以上、主観性とは無縁の世界を思い描くのではなく、主観性という事実が宇宙とその構造について何を含意しているのかということに焦点を合わせるべきである。その含意とは、主観という出来事は世界のバランスを乱し、世界の関節をはずすのだが、そうした乱れこそ世界の普遍的な真理なのだ、ということである。これはまた以下のことも含意している。すなわち、「現実それ自体」へアクセスするために、われわれは自分が「世界の一部でしかないこと」を克服する必要はなく、個別的な闘争を超えた中立的な視点に立つ必要もない、ということである――われわれは、まったく局所的に世界に関わることにおいてのみ「普遍的存在」なのである。この普遍と個別とのコントラストは、愛という事例においてはっきりと見えてくる。すべて〔一切衆生〕を愛するという仏教の慈悲に抗して、あるいは宇宙との調和という考え方に抗して、特異な<一>に対する根本的に排他的な愛、われわれの生活の円滑な流れを乱す愛を肯定すべきなのである。(p531)

2025年8月13日水曜日

映画『骨なし灯篭』を観る

 


天草の本渡も、その翌朝から、線状降水帯と呼ばれる大雨に見舞われた。山鹿で暮らす監督ご夫婦は、無事ご住まいに帰ることができたのだろうか。本土へと渡す五つの天草の橋のうち、二つが交通不通になったので、海路からしか抜けられない、と、漁船を改装したのだろう海上タクシーで乗り合わせた若奥さんは言った。幼子二人を連れて、生まれの御所浦島から帰る途中だという。私自身は、冠水したホテルに一泊余分に缶詰になったが、翌朝には、たてた予定どおり、御所浦島への定期船、そこから予約制海上タクシーを乗り継いで水俣へとたどり着いた。

 

本渡ハイヤ祭りの日と重なったからか、上映初日の夜の観客数は、五名だった。街人総出のような盆踊り行列の様子は、この島になお昔ながらの共同体的な絆が残っていることを感じさせた。熊本は山鹿の灯篭祭りを背景に据えた木庭撫子も、名古屋という都会育ちの私が、プロデューサーでもある夫の生地の山鹿で暮らしはじめてまず驚いたのは、学校へ向かう子供たちが、知らない私にも元気よく挨拶をしてくれることだったという。映画でも、小学校の掲示の「早ね、あいさつ、朝ごはん!」が写され、妻の骨壺をもってさ迷う主人公の男も、思わず死の世界へと手を差し伸べるように、走ってきた車に吸い寄せられていったとき、背後を通過して学校へと向かう子供たちの大きな挨拶の声によって呼びもどされるのだ。

 

監督は、この『骨なし灯篭』のテーマは「共生」であり、「他者との会話」「環境との共存」を問う映画なのだと、パンフに書いている。

 

私はその監督に、上映後の、ひとりひとりに当てられた質疑のなかで、こう質問した。「男性を主人公にしたのには、何か必然性というようなものを感じていたからなのか?」 監督はそれに、同じ富良野塾(脚本家倉本聰が開いた北海道の養成塾)の後輩だった俳優の舞台演技から受けたイメージに従ったというような返答をした。「だけどこの映画でも、女性の方が強いですよね?」主人公が女性だったら、このストーリーは成立しないのでは、と思ったからだった。その積み重ねられた質問に、監督は困ったような表情をして、舞台端に立っていた夫に意見を求めた。「神戸での上映でのときも、震災にあった人たちが見てくれて、親しい人が亡くなって、立ち直るのは大変なことです。」とのように言葉を継いだ。

おそらく、監督は、男性と女性を分けて捉えようとする私の質問に、違和感を持ったのではないかと、私は思った。もう一つの質問、この熊本で撮った映画が熊本で再上映されて受容されていることに、肥後というか、県民性のようなものがあると思いますか、というものだったが、時間が押し迫っているということでそれはできず、次の人の質問に移っていった。

 

私が用意していた二つの質問には、繋がりがあった。ただ実際に映画をみて、シックスセンス張りの展開だったことに驚いて、観賞直後には感想整理ができなくなっていたのだが、そのまま発言してみたのだった。

 

熊本の作家・石牟礼にしろ、高群逸枝にしろ、この地域から出てくる女性は強いというか、しぶとい。高群の言う「火の国の女」だ。そしてそれは、この地域に残存した封建的な精神性と、男でなら熊本男児、とかいう呼称と裏腹に結びついている気がしてならない。簡単安易に、新しいものへと適応していかない頑固さがあるようにみえる。小学生の挨拶も、そうした古い共同性の存続と繋がっているのではないだろうか。が、この女性監督は、その発見を、文化制度的な意識レベルの上部構造への認識に落ち着かせておわるのではなく、より生物学的なシステム、生態的な現実で捕えようとしているように見える。男の妻の形見の浴衣には、魚の群れの絵が描かれていた。人も一人で生きているのではない、群れなんだ、千人踊りのように、という会話のやりとりがそこでなされる。そのシーンの中でだったかは正確ではないが、途中、カマキリがセミを捕食しているシーンが挟まれる。そしてもう一度、壁を這うカマキリがでてくる。また蜜を吸うチョウ、葉を食べるカタツムリ、などの昆虫のシーンが適宜挿入される。この昆虫と魚へのイメージ連鎖に、映画中で描かれる女性の強さとが重なるのだ。

 

たしか他の、男(夫)に先立たれた妻(女)を据えたいくつかの映画では、妻(女)は、男の骨をぼりぼりと食べたものがあったのを、私は思い出した。

 

上映前に広告される予告映画の中に、『小学校 それは小さな社会』というものがあった。高倉健主演の映画ポスターで壁面を埋められた本渡第一映劇で、9月から上映予定なようである。この作品の副タイトルには、たしか英語で、どうやってJapaneseになるのか、とあった。世田谷区の学校などがモデル対象としてとりあげられているようだった。集団登校、挨拶、給食、放課後の一斉清掃、など、当たり前とされていることがいかに外からは素晴らしく見えるかが、焦点化されているらしい。が当然の一般教養として、それが、世界を相手に戦争をした日本のファシズム体制と繋がっているのではないか、という自己懐疑を持たされる。丸山眞男は、封建制的な忠義と、近代官僚的な従属とは系譜が違うのだ、と歴史・思想的に区別した(そして柄谷行人は『世界史の構造』でその封建制から民主主義が生まれたと理論付けた)。が、この区別を、社会生活のなかで、実践的にできるのだろうか?(事象認識的には指をさすように区別しうる。) 天草や山鹿の子供たちといえども、学校という近代的なシステムの中にいるのである。

 

むしろ、そうした戦後思想的な懐疑を、より詰めていくイメージ強度として、この映画は提出されている。妻を亡くしておろおろする男に対し、そんなんじゃだめよ、と女たちは励ましてくる。まだ妻が亡くなって二年にも経たない私も、近所のおばあさん、妻の友達、夫に先立たれた女性たち何人からも、励まされている。なれるまでに何年もかかるのよ。娘も夫に先立たれて三年も経つのにまだ立ち直れてないわ。男は仕事があるからいいのよ。……たぶん、女たちは、普段の日常から、似たようなつらさを味合わされて生きてきているから、他人を励ますことができるのだ。男には、それが強さに見える。

 

双子の妹の演技をしていた妻の霊は本当に訪れていたのか、男は和尚が指さした、帰省から生活の場にもどっていく女性を問い詰める。あなたの妻に対する解釈には間違っていたものがある、妻は美術教師をしていたあなたの残業を自身の自由時間が持てるからと喜んでいたのではない、あなたの作品が早くみたかったからだ、と。立ち直ってきた男は散骨していた川の向うに、妻の姿をみた。「あなたの時間を生きて」、妻は、生前にあった二人の秘密の手話で、伝えてきたのだ。

 

しかしそうした男女関係のあり様も、文化制度思想水準ではなく、もっと一般的に、この地球環境の生態の中で問い詰めて、理解していかなくてはならない、ということなのだ。その問い詰めは、どうやったら立ち直れるのか、立ち直るとはどういうことなのか、それ自体を問うてくる。霊の原理は、幽霊自身にもわからないのだ、と映画中の、若くして亡くなりあの世で齢をとった老人の霊は述懐する。魚や昆虫の群れ生態と霊的世界との関連も、この映画イメージは連想させてくるのだ。パンフでは、富良野塾での木庭の先輩にあたる作家がアドバイスしている。死者はあるのか、掘り下げてほしい、人には、この宇宙の秘密を解き明かしたいという熱意があるのだ、と。

 

御所浦島からのタクシーで一緒になった若奥さんの幼子ひとりは、下の四歳くらいの男の子の方が、いわゆる発達障害というか、多動性障害と診断されるお子さんだったのだろう。いきなり、肩車でもしてもらおうとおもったのか、私の肩や頭にのっかってきた。辛いピザ味のポテトチップスを食えとよこしてきたり、蹴とばして来たり、膝の上にのって座って来たり、と忙しい。揺れる船のなかで、ハンカチの投げ合いもはじまる。お母さんは、大変だろう。叱る時は厳しいのだが、それでも、男の子は元気をやめない。おそらく、この子の小学校での挨拶は、大きすぎる声か、しなかったりだろう。


映画館を出るとき、旦那さんからぜひ山鹿に、と声をかけられた。この映画を観て、もちろん行きたくなった。いく子はまたひとつ、私に宿題を課した。


※旅行まえ、妻の妹さんが、中学に山鹿出身の同級生がいた、と教えてくれた。旦那さんは、1958年といく子と同年生まれだから、ひとつ年下のその同級生とも知り合いなのでは、とはありうることなのでは、と思う。