2025年10月2日木曜日

渡邊英里著『到来する女たち』(書肆侃々房)を読む

 


「もしわたしが彼から、日本にうろちょろしている女はみな石ころだが君だけが女なり、なんぞといわれたとするなら、火に投げ入れられた金魚みたいにとびあがるでしょう。そしてマリリン・モンローを思いだして死にたくなるでしょう。彼女だって女なんです。ただ秘められた力を誰一人ひきだしえなかった。だから死んじゃったじゃありませんか、あんな見事な肉体をもって。冗談じゃないです。わたしは一片の干柿。涙にくれる助平根性の洗濯女じゃありませんか。女はまだ生まれてやしない。」(森崎和江著『第三の性』 三一書房)

 

以前のブログで、渡邊英里中上健次論感想を述べた。

どこかの文芸誌でだったか、彼女のエセーのようなものを目にし、熊本生まれで鹿児島育ちなのを知り、やはりもしかして、という推論がでてきた。そうしたところで、近所の千葉駅の駅ビルに入っているくまざわ書店で、彼女の選書フェアをやっているのにでくわした。そこで、この著書と、まだ読んだことのない中村きい子の『女と刀』を買ってきた。

 

渡邊は、後書きをこう書き始めている。

 

<かつて日本列島で女のことを指すのに使われた「おなご」という言葉は、九州の精神風土のうえでは、いまも現役である。また南九州では、女をおごじょと呼ぶ習わしもある。薩摩おごじょと言えば、頑固で剛健な薩摩隼人と呼ばれる男性に対し、優しく、芯のある女性のことをいう。「よかおごじょ」とは、よいお嬢さん、素敵な女の人のこと。よかは良い、おごじょは古語の御御(おごう)が転訛したかたちとも言われる。おごじょという言葉。その一語のなかには、一歩も二歩もさがって男たちを支えつづけてきた従順な女性像と、社会が女性に押しつける役割に否を突きつけ、声をあげ、行動してきたお転婆娘たち、お侠(きゃん)な女性たち、その両極の姿がせめぎあっている。無論、声をあげなかった女たちが不満や批判をもっていなかったわけではあるまい。かの女たちは、家父長制的な社会のなかで、ただ、口をつぐまされてきただけである。おごじょという言葉は、具体的な日付と場所を携えた土地の女たちの矛盾と葛藤を含み込んだ詩語として、わたしに響く。>

 

私が、熊本は水俣生まれの妻・いく子のあとを探るに、その地域・地方性が根底で大きな作用をしているのではないか、と推論しだしたのは、彼女が、水俣第一小学校を卒業し、水俣中学ではなく、熊本市にある私立の真和中学へとゆくにあたって、同級生たちが贈ってよこした寄せ書きを読むことによってだった。そのなかで、とくには女の子たちが、やけにませているのだ。性的な関心が濃厚なのである。あっちいってもこっちみたいに、男の子たちをいじめてやってね! いく子は、生育が抜きんでていて、ひとり首一つ以上背が高かった。中学生で成長が止まってしまったようで、結局は平均より少し小さくなったが、真和高校から千葉に引っ越すさいには、おまえがお転婆でなかったらもっと男にもてるのに、と書いてよこす男子生徒の手紙も残っている。社会人学生として東京に出てからの初めての男も同じ高校のだいぶ年上の相手だったが、地元熊本でお見合いがあるとさっそく帰国し、いく子は発熱しながらその飛行機を空に見送ったのだ。

 

九州で生きた女性作家三人(石牟礼・中村・森崎)を「思想文学」として論じるこの著作では言及されてはいないが、水俣に墓のある高群逸枝の言葉で言えば、「火の国の女」である。息子の小学生の運動会で、来賓席に来ようとする区会議員を阻止しようと、ひとり校門前でビラを配り、〇〇は校庭に入れるな! と大きく書いた画用紙を胸に掲げて声を張り上げた。なんでなのか理由を聞いても、要は自分が気に入らない、ということにしかならない。だが直観には正義があることは知れた。国会議員の長妻昭にスカウトされてすぐに当選した若い区議員は、新宿歌舞伎町の案内所の小屋でバイトをしていた遊び人だということを、私はその同級生と植木仕事をしていたので知っていた。口がうまいから、政治にスカウトされたのだろう。その要領いい癖が、市民運動の場で会うごとにいかがわしくうつり、気に食わない、となってくれば、徹底抗戦的に突っ走るのだ。両親はともに東北・仙台の出身なのだが、私には、幼少期に育った風土の影響が大きいのではないか、と推定されてきたのだ。

 

その性向――性、というよりも、「向」という意味を付け加えたくなる。そして向いた背後に、群れを意識し感じている。要は、わたしについて来い、という騎手的な性向。ジャンヌ・ダルクや自由の女神の絵画も連想されてくるが、いく子はモダン・ダンス界で一世を風靡した一時、自らの芸名を「やまたいこく」と名づけた。山田いく子のアナグラムなのだが、もちろん、邪馬台国の卑弥呼を暗喩したのだ(邪馬台国が九州にあったという説も残っているわけだが)。当時自分にひっついてきた男たちを、いく子は「子分」たちと書きつけている。

 

私は亡き妻の思考=思想の核をさぐっていると、石牟礼道子から高群逸枝、そして森崎和江へとたどりついてきた。おそらく、いく子は、これらの女性たちの作品を読んではいないであろう。が彼女の性の在り方には、これら女性たちに伺えてくる向きが重なるのだ。

 

この性向を、分析的に記述してみせたのが、森崎和江である。冒頭引用した、『第三の性』が、その著作だ。個と群れ、単独と普遍、この関係を性的現象として追及してみせた、驚くべき内省である。渡邊の著作には、この作品への読解はない。(そのうちこのブログで解析メモを私は書く。)

 

ないけれども、渡邊自身が、群れを意識し想像してゆく女性であるようだ。ということを、『中上健次論』で私は示唆した。著作の枠組み自体は、「再開発」という切り口やジェンダー的な主題性とか、やはりリベラルな思想の範疇にからめとられている、が、群れへの連想作用において、特異なものがあるのではないか、と私は言ったのだ。それがどうも、彼女自身が、九州の女だからなのか、と私の推定が重なってきたのである。

 

今回のこの著作は、リベラルというより、ヒューマニズムな枠に囲いこまれてしまう論調だと感じる。が、論を動かす詩的な想像力の推移に、やはり学者の枠におさまらない性向を感じるのだ。