雨の日、妻の三回忌がやってきた。
庭では、玉すだれの白い花が、一輪、咲いている。亡くなる前の妻が、庭の片隅に生えてきたものを、居間で読書する私から見える場所へと移植したもので、四十九日にあたる12月に咲いたのだったが、翌年は、一輪も咲かなかった。今年の春先に、芝地から掘り越して、プランターに植え替えたのだった。9月に一輪咲いて、また四輪の花芽が出てきていた。もしかして、ちょうど命日に咲くのかな、と見ていたのだが、ここのところ急に寒くなり雨模様が続いたからか、一輪だけが咲いた。
数日前には、中学時代の友人から手紙が届いていた。デコポンを送ってくれた熊本の女性で、妻が亡くなる2年前に出そうとして出せなかった年賀状、もう何年もそんな行事を実行できないでいて、思い立ったように踊る女性を自作版画したものに、遺品として出てきた日記に一緒に映画『追憶』をみたと書いてありましたよ、「いく子に似ている」「わたしもそうおもう」というやりとりがあったのですね、と書きつけて送っていたのだった。
一昨年に父が亡くなったので、お年賀への返信は控えていました、と妻の友人は書き起こしていた。そして1月になってから母が亡くなったのですが、その母と年末、映画の『追憶』をみたわよね、一緒に見た友達は誰だったかねえ、と話していました。そうしたら、年賀状に『追憶』のことが書いてある。ふしぎなことがあるものですねえ……。
世間では、日本初の女性総理が誕生した。おもいっきり作り笑いをして話すところに、女性の現実が反映されているのだろう。それだけ、男性原理な社会、政治のなかにいるということだ。いまも、戦争に女性参加を高揚させるアジ文を書いていた初の女性史家でもある高群逸枝に関する論考などを読んでいる。彼女の研究を支えたのは夫の献身であるが、その献身性にある男性的なエゴにも焦点があり、そこを最初に衝いてみたのは出家前の瀬戸内晴美なのかもしれない。
「性の場合も階級の場合も、差異を内在的に止揚すること(たとえば、敵対性なき多様なセクシュアリティや調和的な階級関係といった理想がこれである)はできない。差異を克服するには、セクシュアリティそのもの、あるいは階級そのものを廃棄するしかない。」(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
一次大戦まえには、なんでだか、霊現象が増加していた。
深淵に呑み込まれないで、その淵に踏ん張ることはできないだろうか。呑み込まれてしまえば、ポーの「メールシュトリームの底」でのように、船から渦の最中へと飛び込みより軽いものへとしがみついて浮上にあがく、しか、できなくなるのだろうか?

0 件のコメント:
コメントを投稿