瀬戸内晴美(寂聴)は、高群逸枝がアナーキストとして論陣をはっているころの、夫以外の男性との関係を追求した「日月ふたり」という作品を、昭和48年頃から『文芸展望』という雑誌に書いていた。瀬戸内の話によれば、高群亡きあとにあたる夫橋本憲三を取材するにあたって、その男の対応に嫌気がさしてきて書くのを中断した、ということになる。
が、高群に関するものを読んでいくにつれ、要は瀬戸内の発想が低俗すぎるので、取材を受けるほうが嫌になったのだろうな、と私には推測されてきた。それは、瀬戸内の他の小説や読書感想などを目にしていけばより知れてくる。瀬戸内は、人を心理的にしかみようとしていない、というか、見れていない。だから、心理的な揚げ足取りに終始しているようなものになる。高群本人からならば、世間がもっと「低級」でないことをのぞむ、と拒否されるような態度になるだろう。
たとえば、『源氏物語』の読解をみてみればいい。瀬戸内は、そこに女性心理のパターンを読み、いまの女性にもあてはめて類型化していこうとする。それを面白く世間知として参考にしていく人もいるのだろうが、真実的には疑わしい。本当に考えていく作家であるなら、まず自分のそんな発想を疑うだろう。
津島佑子は、『女という経験』を書くにあたり、自分が心理ではなくむしろ神話を参照にしていくことなどに、次のような断り書きを「はじめに」として付記する必要を感じた。
<人間の肉体としては、女も男も昔からほとんどなにも変わってはいないのだろうが、それぞれの性に与えられてきた社会的な意識は、その時代によっていくらでも変化している部分があるにちがいない。
だとすれば、当然、それぞれの人間たちが抱えていた悩みもちがってくる。時代が変わってしまえば、そのちがいを具体的に正確に知ることはほとんど絶望的に不可能なことなのかもしれない。そんなことも思う。
古典というものを読むとき、今の時代に共通した要素を、私たちは読み取ることができる。でもこわいのは、そうして理解できる要素だけを取りあげて、満足してしまう結果になってはいないかということで、とくに、「性」と宗教については私は臆病にならずにいられない。
女と男が出会い、惹かれ合い、交わる。男は射精し、女は妊娠する。この成り行きだけはいつの時代も同じだったとしても、そのとき、男と女がどのように惹かれ合い、性欲を感じ、それぞれの射精と妊娠にどんな意味を感じ取っていたのか、それがよくわからない。
現代は、コンドームやピルなどの手段で、妊娠を自分たちで調整できるようになっている。まちがいがまま起こるとしても、基本的にはバース・コントロールが私たちの常識になっている時代なのだ。これは性の常識をすっかり塗り替えた、人間という種にとって大きすぎるほど大きな変化だったろう。>
高群は、『源氏物語』から、個人心理ではなく、招婿婚という婚姻形態の痕跡を洞察した。津島も、自分を含めた現在の女性心理から、「女系意識の強かった社会」の系譜を洞察していく。
<そんな世の中が開国でどのように変わったのか。古き良き、巫女の力に支えられる日本の神々の世界が呼び起こされるのかも、という庶民の期待を裏切って、日本社会はキリスト教文化を背景に持つ男女の社会的役割分担を積極的に受け入れるようになる。
現在の私たちはこれを「封建制度からの女の解放」という文脈のなかで教えられてきたのだが、庶民層にとっては、むしろ「男は強きもの、女は弱きもの」という、理解しがたい思想が津波のように襲ってきたようなものだったのかもしれない。
「女」の解放どころか、実際は、キリスト教に根ざした男性の圧倒的優位の概念のもとに、「女」は家庭の天使になれ、慈しみ深い母になれ、「男」のために尽くす存在となれ、とそれがあたかも「福音」であるかのように、新しい「道徳」として女たちに押しつけられた。
それは庶民層の女たちにとっては、屈辱的な「男」への隷属を意味していたと考えられる。それまでは武士階級の女ですら、自立した自分の地位を約束されていたのではなかったか。
当時の宣教師や思想家などが説いていたことはべつにして、その時代、空気として社会に流れはじめた概念の変化は庶民の男たちを、女に対して一方的に尊大な、優越感を持つ存在に塗り替えてしまった。>
津島は、平塚雷鳥の『青鞜』の言葉も、人権化という近代意識へ向けてではなく、その反対として読み込む。それは自分を含めたいまの女性意識からそう読めるからだ。そこから見れば、つまり強い女性観点からみるならば、男たちはこうつる。
<それにしても、男とはもしかしたら、その本性として、女の食い物になりたがっている生きものなのだろうか。それで男の母親たちは、自分の息子を必死になって「女」から守ろうとして、「女」のこわさについて教訓をくり返し語り聞かせるのだろうか。…(略)…
けれども、何度も今まで書いてきたように、才能もなく、美貌にも富にも縁がないごくふつうの女たちは、男たちの作った社会ハンディだけを一方的に背負わされることになり、それはかなりつらい状態なのにちがいない。そして、多くの女たちがこの立場に甘んじているのが、現実というものなのではないだろうか。
また、たまたま才能や美貌に恵まれた女が出現したとして、その女たちは「悪女」か「魔女」か、と男たちから敬遠されることになる。もちろん、そんな障害を突き抜けてしまえば、例外的な「女」として心からの敬意を表されるのだろうが、そこまでにいたる道にはかなりの孤独がともない、人並みではない努力も求められるだろう。
男の対処法をしっかりわきまえているたぐいの女たちは男たちを安心させつつ、手玉に取ることもでき、そうした女たちこそが本当はいちばん男たちにとっては危険なのかもしれないのに、女の側から見ると、やすやすと男たちがだまされつづけている。>
しかし以上の認識は、だからこそ、とまた反転する。女性の強さを「霊力」(出口なお等)や「処女」(ジャンヌ・ダルク等)や「母性」として神話的に称揚し利用する「男社会」を警戒しなくてはならなくなる。それは性交を神秘化して女を内的に所有していこうとする男の通俗感への告発にもなる。
<現代の多くの女性たちは、「処女」のままでいようが、男と性交しようが、妊娠さえしなければ、なにも自分の人生も精神生活も変わらないことを経験的に知っている。女は最初に性交した男性を忘れられないものだ、という「神話」もあるが、これも私がまわりの知り合いの女たちに聞いてみたかぎりでは真赤なウソで、性交そのものはすぐに忘れてしまうもの、だから救われているんじゃないかしら、と述べる人もいた。私自身もそのように思っている。ふつうの人間の女たちにとって、「処女」にしても、男との性交にしても、その体に流れる時間の外に浮かぶ蜃気楼のようなものなのかもしれない。>
男社会による女性の「神話」化、その衝迫性はなお有効になっている。そしてその「低級」な通俗性を、そのまま受け入れて自己保存してしまう女性たちも多くいる、ということは、現在の女性総理の「暴走」からはじまった選挙状況を鑑みても、当てはまる事態なのだろう。
<女というものは感情的なので、いったん暴走しはじめると、並みの犯罪者よりも恐ろしい殺戮者になる、などという一方的な言い分を、もちろん、ここで引き寄せるつもりはない。
現実の出来事でどのような結果は報告されるにせよ、私がここで(引用者註―中国文化革命や日本連合赤軍などの事例)感じるのは、「女」なるものに「革命」の預言者になって欲しい、なるべきなのだという、一般の期待の強さなのだ。
なにかが起ころうとするとき、ひとびとは「女」の預言者性、巫女性を思い出し、そこにすがりついて、自分たちの行動を正当化しようとするものらしい。そうした「女」をめぐる運動が「革命」のとき、自動的に引き起こされる場合が多いのではないか。
あのフランスの愛国者ジャンヌ・ダルクにしても、同類の事情が働いていたのかもしれない。だからこそ、ことが収まったのちは、火あぶりにされる運命にあった。>
※ 瀬戸内が指摘した、高群の男性経験等に関しては、私は夫の橋本憲三の想いの方をとる。彼の晩年、このもちあがった件で、苦悶のうちに亡くなっていったという堀場清子の指摘(『わが高群逸枝』朝日新聞社)がある。また、高群の全集刊行を世田谷の「森の家」で住み込み(同棲)で手伝っていた石牟礼道子と橋本との関係も疑われている。(藤原書店の高群逸枝特集での山下悦子、そして神戸大の中山修一の読み込みでは、石牟礼は憲三の妹公認の「後妻」になったのだと推察している。『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』-中山修一著作集18)しかしそこに「男女関係」なる通俗をみようとすること自体がおかしな話になってくるのだ、と私は帰納する。高群の男女恋愛の「一体化」の思想と直観は、このブログでも引用したシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』においても、心理事象の向こうに洞察される。(石牟礼の作品『最後の人:高群逸枝』における「最後の人」とは、高群ではなく、橋本憲三のことだ、というのが中山の指摘でもあるが、このブログでもすでに言及したように、作品の大半は橋本をめぐる考察なのだ。奇妙な話だが、それを奇妙だと受け止めること自体が、読む側の俗情との結託を証してしまうのである。彼ら彼女たちがやった、提出した仕事を前にしたら、そう自省されてくる。)

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