2009年5月9日土曜日

デモとアパートと神


「うん。外国にはバルコニーのないマンションがたくさんあるが、日本にはバルコニーのないマンションはまずない、といっていい。じっさいかんがえてもみたまえ。バルコニーがなく、したがって床まであくガラス戸もなく、部屋には壁と高い窓しかないとしたら、日本人は部屋のなかを狭く暗く感じて、そんな家にはとうていすめないだろう。ガラス戸があり、バルコニーがあり、さらに戸外という自然がありみんなつながっている、という感触があってこそ日本のすまいなのだ」
「なるほど戸外の自然か。それが<神さま>か。その<神さま>がバルコニーからガラス戸をとおって家のなかにやってくる、というわけか?」(上田篤著『庭と日本人』新潮新書)


アメリカでは、豚インフルエンザに乗じたメキシコ移民への排斥圧力が増長することを牽制する、移民自身によるデモンストレーションが起きているという。日本では、現在国会で1947年以来の外国人登録制度という在留管理制度が全面的に改変される審議がなされていて、それに抗議するデモが近々おこなわれる予定である。暴行や拷問が歴然としてあるようなところからきている外国人たちは、日本のやさしいおまわりさんなど馬鹿にしているけれど、日常的についてまわる日本人の監視の目の厳しさへの怯え=誤解から、今回の人権グループや支援団体が組織するデモに、当事者自身らが大勢参加するとは思えないけれど、だからといって、彼らが日本で抗議の声をあげることはない、ということにはならないだろう。というか、声のあげ方が変わってきてしまうのではないか? メーデーに参加することになったイラン人は、デモをするというのならば「ピストルはどこにあるんだ?」と聞いてきたというし、逆に南米からの労働者はデモにでようといわれると、反政府活動者は拉致されて消されてしまうという歴史があるからか、泣いて嫌がるのだそうだ。日本でもバブルがはじけた頃、就職差別に抗議する女子大生たちのデモが自発的に組織されたし、最近では後期高齢者医療制度に反対する老人たちのデモというのもあった。もちろん、アイヌ人たちや中国残留孤児たちの権利や生活の充実を求めるデモもあった。しかし人権というのが多くの日本人には勉強しないとよくわからないように、デモというのも勉強しないと知りえない。これは、おかしなことなのだろうか? 民主的なデモでなくとも、たとえば、新宿の歌舞伎町界隈では、ブラジル人の少年たちが何色だかのチームを作って何色だかの日本の不良少年たちと小競り合いをしたこともあったし、暴走族で一番恐れられていたのは残留孤児たちの子供たちのドラゴンとかいうグループだった、というのもある。そしてこうした声のあげ方は、国境を越えた世界資本主義の趨勢として派生してきもするから、研究者が指摘するような一般的な事象でもあるだろう。

<つまり、こうした団地で暮らす日本人は、すでに何らかの経済的・社会的困難を抱えている、あるいは抱えていないにしろ、そのリスクを抱えた人たち――「住環境の悪化」にもかかわらず、「転出できない」層――が多い。そう考えると、外国人が集中する居住空間における問題は、日本人住民と外国人住民のあいだの「文化的差異」としてだけでなく、「社会的至近性」にも目を配って考える必要がある。>(森千香子著「郊外団地と「不可能なコミュニティー」」『現代思想』2007.6月号)

<スミスは、フランス郊外やアメリカ・ゲットーで脱工業化の進んだ一九七○年代以降に、地域コミュニティーの解体がさらに地域を荒廃させたことに注目し、「意味と感情の詰まった安定した共同体としての『場』から、脱出すべき『空間』への変化と捉えた。ここで言われる「場」を人間同士のつながりによって形成されるエリアスの「相互依存の編み合わせ」と考えるなら、場から空間への移行は、人間が自己統制を失い、暴力化する「脱文明化」の過程につながる。貧困層や福祉対象者の集中を加速させる公営団地での「場」の維持とは、このような問題を孕んでいる。>(森千香子著「「施設化」する公営団地」『現代思想』2006.12月号」)

そしてまた逆に、デモという他人との関心の共有など発生するわけもないくらい、個人主義的なアトム化が進行してしまっている、ということもあるだろう。

<要約するに、日本近代から現代にいたるアパートの発展過程は、初期のアパートにあっては個室の外部にあり共用で使われていた玄関や下駄箱、トイレ、台所、洗面室、浴室などが、少しずつ各個室内に取り込まれていった過程そのものである。現代のマンションの端緒である《理念性》のアパートを代表し、東洋一と謳われた『同潤会江戸川アパート』においてさえ、浴室、トイレ、炊事場などは各個室の外部に設置された共用設備であった。しかしアパートやマンションはその後の発展過程において、これらの諸機能をひとつずつ個々の住戸内に収容していったのである。現在のマンションでは、生活に必要な機能や設備のほとんどすべてが各住戸に納められる。マンション全体ではなく、その部屋に住む家族の構成員のみが使う専用設備である。同じようにワンルーム・マンションやアパートにあっては、住人ただ一人だけが使う専用設備となった。もちろんそれらは生活環境改善の流れであり、空間性の質を追求してきた結果である。トイレひとつとっても、共用と専用では雲泥の差があることは言うまでもない。だがすでに見たように、戦後の木造賃貸アパートはその空間設備的な居住性の絶対的な貧しさにより外部へと開かざるを得ず、それゆえ懐かしい《家郷性》を孕むに至ったのではなかったか。しかしコイン・ランドリーなどを僅かな例外として必要な設備のほとんどを内部に納めるようになったワンルーム・マンションやアパートは、ある意味徹底的に自己完結的な空間であり、《家郷性》が孕まれる余地など寸分も見当たらないように見える。共同住宅とも呼ばれるアパートやマンションであるが、ワンルームはまさに、非・共同住宅とでも呼びたくなるような存在ではないか。>(近藤祐著『物語としのアパート』彩流社)

しかしそれでも、冒頭引用した上田篤氏の示唆するように、そのもはや長押もないようなワンルームのガラス戸は、床をなで神に開かれて、あるいは招き入れてしまっているのではないだろうか? それを、芥川龍之介のように、「神々の笑み」としてイロニカルに嫌悪=批判することもできるけれど、実践的には敗北ということではないのか? ボードレールの屋根裏は、交感の現場だった。日本の作家たちのウサギ小屋も、実は「因幡の白兎」を助けたオオクニヌシに通じていたのかもしれない。憑いてまわるストーカーを警察に訴えるのは民主的なことかもしれないが、警察(公)にちくることを村八分的に許容しない民の共同心性こそデモンストレーションではないのだろうか? そして渡来民(外国移民)こそがまた、国家にちくることをしないものではないのだろうか? 入国管理局は、メールでのちくり制度を設けてとりしまっているけれど、それは卑怯なことではないのか?

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

 先日お宅に伺ったとき、私は部屋におもちゃが溢れていることをしきりに口にしていましたが、後で、ちょっと庭みたいだったな、とも実は思いました。荒木経惟が妻の死後に撮った、ヴェランダに爬虫類のフィギュアが置いてある写真を、ウルトラマンの怪獣人形から何となく連想したりもしたのです。
 その荒木を浅田彰が以下のとおり批判しているわけですが、
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/techo05.html
私も荒木は大嫌いです。しかし、荒木の「庭」のセンチメンタリズムと違って、菅原家のおもちゃの「庭」は実践的に必要なものでは、と感じました。親(大人)の立場から、というよりは、自分が団地に育った子どもで、しかも一人っ子だったら、と考えれば、です。「庭」がどこかに無いと、確実に親との関係は耐えられなかったと思います。渋谷区のマンションで兄が妹をバラバラにした事件などを見ても、とりわけ世代的なプレッシャーが掛かりがちな金持ちの親は、都心から離れてでも庭つきの一戸建てを買う方がいいのではないか、と思ったものでした。