2009年5月1日金曜日

安全管理(保障)と全体主義


「東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。小さい、真白い三角が、地平線にちよこんと出てゐて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。 昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。」(太宰治 『富嶽百景』)

「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しと為す。人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴しと為す。 」(弘法大師)


「職長・安全衛生責任者教育」講習会というものに出席するはめになった。ゼネコン的にいくつもの業者が入る現場で必要になってくる資格(教育)なので、私のような下働きの者には関係ないのだが、元請けとの付き合い上参加するということなのだろう。その元請けと仕事をやっている親方の息子がハネムーンなので、私が2日間仕事を休んで顔をだしてくる。「安全のことなど頭から忘れてください。」「昔の職人のように品質と工程そして原価の管理が顧客と相対してできるのならば、安全管理なんて当然そこにはいってくるのです。」「ゼネコンは口を開けば安全第一とかいっている。それじゃ身動きできませんね。」と本末転倒した現状を批判することから始めた講師によると、しかしこの教育を受講しないと、新たに設けられた「基幹技能者」とやらになるための、これまた資格講習の資格自体がとれないことになるのだという。おそらく1級管理および監理技能士の資格者数が多くなってきたので、また別に作って人員を搾りはじめたのかもしれないが、実際にはお金を搾り取っていることにしかならないだろう。北海道で開かれた洞爺湖サミットの工事では、発注者(おそらく国家になるのだろうが……)は施工者には「基幹技能士」を採用するようにとの注文をつけてきたのだそうで、となると北海道にはまだそんな資格保持者はひとりもおらず、それでは本州からの会社に仕事をもっていかれてしまうからと、急遽講習会を開いて80人ほどの基幹技能者をそろえたのだそうだ。「テキスト読んでるだけじゃだめなんだよ」と、どうも現場あがりから国家官僚の公益法人的な組織に取り入れられた現状批判的な講師の話はもっともだけど、しかしそれゆえに言っていることとやっていることの論理があっていないので、話が腑に落ちてこず、説得力がない。安全と仕事とは関係がない、と言いながら、ゼネコンが安全第一にこだわるのは事故が起きたら入札に呼ばれなくなるからだ、と言うことは、関係がある、ということではないのか? 民間が形式ばることに走り、国家がその実質を正そうとしている、という講義の構図は通念とは逆の現象におもうが、なんでそんなねじれたことが起きているのか、その知りたくなる肝心な論理と筋道がみえてこない。おそらく精力的な講師の個人的理由なのかな、とも思うのだが…。

最近発表された、アメリカのピューリッツァー賞は、ラスベガスの建築現場での労働災害事情(死亡率の増加)を追求した記事に与えられたようだ。ネットで検索して読んでみると、「職長」さんが死亡している。この記事を受けて当選前のオバマ氏やクリントン氏が議会で問題にして、建築会社のほうが安全対策をとったら、死亡者がゼロになったというのだから、ハード(設備)レベルでの対策が相当手抜きされていたのだろう。会社側の調査分析は事故増加の原因は不明なのだそうだが、現場の労働者はスピードが要求され同時にいくつもの現場が重なっていることをあげているようだ。日本では一応、高度成長期の後半期に安全衛生法とかなんとかが、国際労働機関の催促もあって制定され、ハードレベルでの対策を厳格にするようになったからか、一定の水準までさがって平衡状態になっている。といっても、その事故の内でも死亡の割合自体は以前とそう変わらないのだそうだ。つまり、それでも常に事故るときは死、と危険なのである。だからちょっと設備に手を抜けば、いいかえれば政治的な監視の目がゆるまると、ラスベガスの現場でのように歴然と死亡率があがってくるのだろう。もともと恐さ知らずというか、やせ我慢をひけらかす男気の世界の現場では、「えい、やっちまえ」という技術的確信ではなく見切りでやってしまう人たちのほうが多いだろう。いま私がやっている高所作業車を使っている松の手入れには、キャタピラ式のものを導入しているので運転専門のオペレーターをつけてもらっているのだが、「そんな人いらないですよ。金がもったいないですよ」とペアを組んで作業している職人は元請けの社長に言う。俺が運転できるから、と。私は唖然としてしまう。週に数日は二日酔いできて管を巻いているジジイの言うことを間に受ける社長がいるのか? しかも、車両式の操作簡単なゴンドラを枝の間に挟んで身動き不能にし、危険ランプと危険信号を鳴り響かせもしたのに。私は木に飛び移って脱出しようかと思ったくらいだったのだが、本人はもう仕出かしたことを忘れているのだ。そればかりか、最初に来たオペレーターは新人で、いまやってもらっている人がベテランだというのは一目瞭然なのだが、上手いのは若い方のだ、と頓珍漢なことを平気で言ってのける。一緒にゴンドラに乗ってみれば、経験のあるものはすぐにわかるのだ。若い奴は不安で迷っていた、最初に念頭に入れておくべき初期値(想定ごと、危険予知)が少なすぎるのだ、だからどこかぼけっとしている、緊張感と落ち着きが足りない、がベテランと乗ると、すぐに波長があってくる、だからこちらも無駄なことを考えずに剪定に専心できるのだ。が若造には、小手先でハンドルをくるくるさばいている運転を上手なものと思い込んで調子付くように、そう阿呆な判断しかできないのだろ。バカにつける薬はない。それ程危険でない仕事しかやっていないのにすでに入院通院の事故をおこしているのだが、それを単なる偶然不可避の事として未だに他人事のように認識している。酔いがまわると、「俺に掃除ばかりさせて木を切らせないからまだできないんだ。誰でもできる仕事なんだから俺にもやらせろ」と、実はやらせようとすると尻込みして逃げるくせに、本当にやらせたら8割の確率で死ぬか障害者になるだろう。その時は、現場の「職長・安全衛生責任者」として、私が会社経営者と同様に刑事責任を負うことになるのだろうか? そして、日本の「安全衛生教育」がやろうとしていることは、実はこうしたバカにどうにかして事故を起こさせないようにし事故率をより低くしていこう、というソフトレベルでの話しなのである、というか、はずなのである。それはもちろん、2日のテキスト講習で始末がつく問題ではない。競争率のある仕事なら、バカは単に淘汰されていくのだろうが、行くところのないものが来るような現場では、そうにはならない。私としては、徒弟的な教育をもう一度、とも思うのだが、しかしそれでもああなままなのだから、死んでも仕方がないか、確率(割合)だからな、と考えてしまうのである。しかし私は、そんなバカと一緒に死んだり、そのバカのおかげで刑務所に入るのが本望なのだろうか?

ソマリア沖の海賊対策として、自衛隊員が遠方の海域へと送られた。国際的なというか、世界的なヘゲモニー争いの社会での協調姿勢を示すことが、日本の経済生活の現状を保守維持させることはもちろん、対外的な安全保障への布石として位置づけられるがゆえの政治的選択なのだろう。これまで憲法9条的な原理性で行動してきたのならともかく、そうではないのだから、拒否することは困難だろう。が、問題なのは、その参加がゆえになんら原理的戦略性に裏付けられていない潮流への迎合(対応、後手策)にしかならないことだ。あくまで原理原則は9条で、それを守るために世界へ働きかける政治的な意思のとりあえずの戦略的妥協、と意識すらされることもないだろう。そしてそのなんだかはっきりしない対応のなかで、自衛隊員はより体を張った、命をかけさせられる任務を引き受けることになる。チョムスキーはベトナム戦争時よりも、生活上やむえず志願に追い込まれてイラクへと派遣される兵士のほうが気の毒だと言ったが、職業選択の自由としてその仕事に就いた自衛隊員も同じように気の毒だと私は思う。自由に選んだ自己責任ゆえに、身内以外の第三者の誰もその死に関心(責任)を感じないだろう。見殺しにされようとしているのだ。自ら民間の殺人組織に入って戦場へと行く人ならまだしも、その地域で行き場(就職先)のなかったような若者たちが入隊しているのではないだろうか? あのイラク戦争時、「自衛隊員を見殺しにするな!」と竹竿に旗を立ててデモ行進したことが私にはあったけれど、その情勢はより現実味を増しているように思える。しかし、行きどころもなく自衛隊に就いた人たちは現場に吹きだまってくる男らと同じくバカ者なんだろうか? あるいは派遣労働者としてさまよいはじめた若者たちとはどこか違うのだろうか? 「日本にはデモがない、そんなのは民主主義ではない、これでは世界からとりのこされてしまう」というような意見をいまだ日本のインテリたちは抱いているようだが、それはソマリアへ自衛隊を派遣しなくてはおいてけぼりにされる、と怯え憂える政治家・官僚の態度とパラレルだと私には思える。ないもの(理念)からあるもの(現状)を批判(否定)して反応する後手の態度。しかし実践的とは、あるもの(現状)からないもの(理念)へ向うにはどうすべきか、と考えることではないのだろうか? 古物商の長嶋氏が言ったように、それはある、共通するものは後退してもなくならない前提だ、その肯定の姿勢からはじめるべきではないのだろうか? ならばしかし、……やはり私はバカたちとともにやりはじめるというのが本筋なのだろうか?

「ほんとにくだらないよNPOなんて。」と、去年までは耐震偽造をチェックするNPOの理事長をやっていて、福田総理から内閣総理大臣賞をも授与されたそうな「職長・安全衛生責任者教育」講習会の講師は言う。この俺が言うんだから本当さ。その9割はくだらない、というか、圧力団体だよ、寄生虫みたいなさ。そして引きこもりを支援する団体批判から派遣村への批判へと飛ぶ。「ぜんぜん深刻そうにみえないね。」当人は茨城から下駄はいて東京にでてきたのだそうだ。「あれはパフォーマンスでしょ」とも。たしかに私が驚いたのは、支援されるほうよりも、支援するボランティアの人たちのほうがより多く集まった、ということだった。おそらく、既成の運動団体に所属するでもなくやってきた人は、自らもが半失業的な派遣者的立場の人だったのではあるまいか、だけれども、生活が貧窮しているというわけでもないので、支援される側ではなく支援する方の側から参加することで、なにかしらのメンタリティー的な支えを得ようとしたのではないだろうか? そういう意味ではやはり被支援者なのだが、自らが生活必要的にデモンストレーションしたのではない、それは言い換えれば、当事者になる勇気がない、バカになることができない、ということではないだろうか? 戦前から日本の社会運動に関して指摘されていることに、それが指導者の運動で、肝心な当事者がいない、というのが大半だ、ということである。私が現在参加している移民ネットワークでも、時折そういう現状認識が提示されたりする。分析的に換言すれば、他人に親切になりたいという思いによって、自分自身を受け入れることをしない、それを回避するための優等生的な自己回避になっているのではないだろうか? それはむろん、ないもの(他人)によってあるもの(自分)を批判(否認)しようとする日本のインテリゲンチャの思考と同型である。いつからこんなことになったのだろう? 私はつまびらかでないが、デモがないのならそのないことがあることから、それを対他(対外)的なコミュニケーション(安全保障)上しないのがバカだというのなら、バカの現状と現場からどうするかを考えるのが、ソフトレベル段階での「職長・安全衛生責任者」(インテリ指導層)の実践ということではないのか? またそれが、国家に対抗しえる現勢体(中間団体・仲間)の実質(当事者)を首肯している、ということではないのか? ……となると、私はやはりまわりのバカたちと一緒にやるということなのだろうか?

しかし私は想像するのだ、いわゆるファシズム体制が現前化してくるのならば、佐藤優氏のように方便的にか国家あるいは共同体を擁護する姿勢(思想)は具体的な局面・現場において空虚になってくるのではないか、と。いわゆる顔をみるのが嫌になるほどのバカたちが権力を握って、人々の目前で強気なバカをほざき、自分と対面してくるようになるのではないだろうか? そのときは、形式的にも国家を保持するなどとは言う気がなくなるだろう。ボナパルティズム下のランボー、そして戦時中の無頼派のように、思想的な後退になるとしても個人の高貴さに引きこもって沸々と春を準備する、植物の休眠や熊の冬眠という能動的なニヒリズムを生きることが貴重で基調な姿勢にならざるをえなくなってくるのではないだろうか? そう思い込む時期は早々だとしても、政権交代ひとつとして先手を打てなかった日本の安全管理(保障)上の世界環境(情勢)を見渡すと、雲行きがあやしいように見えるのである。

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