「ある時イエスは、ある村に来てマルタという女の家に招かれました。彼女のほかにマリアという妹がいました。マリアは救い主の足もとに腰をおろして、彼のことばを一心に聞いていました。マルタはそれとは反対に、お客のもてなしのためにあれこれと忙しくしていました。マリアが何もしていないでいるのをマルタは怒り、イエスに、マリアも家事を手伝うように言ってくださいとお願いしました。しかしイエスはマルタに甘いことはおっしゃらずに、「あなたはたくさんのことに気を遣っている。だが必要なことは少ししかないのだよ。マリアはよいほうを選んだのだ」と言いました。(『聖書物語』絵F.ホフマン/文P.エーリスマン 日本基督教団出版局)
一希がどういうわけか、“神さま”に興味をもちはじめた。東京MXテレビで再放送していた『鉄腕アトム』で、ウランちゃんが「神さまってなあに?」と追い求める物語があって、それに影響をされたのかもと思うのだが、それだけではないらしい。そういう年頃、ということかもあるのだろうが、しつこくきくのが、なんで「十字架に貼り付けにされたの?」ということだから、そのキリストのイメージに、なにか強烈な印象を持ったらしい。ウルトラマンでも、ウルトラの兄弟たちが貼り付けにされるシーンが引用されるが、子供が見た順序はウルトラマンのほうが先なのに、それを「ほらこれも十字架」と、イエスの方が先でそれが後の借用であることが理解されるほどに、その人間が貼り付けにされる、ということが不思議でならないらしいのだ。
そこで図書館から、キリスト教関係の絵本と、日本の『古事記』の子供向けの物語を借りて、読んでやることにした。まずは創世記のアダムとイブの物語からはいるのだが、まずそこからにして、不可思議な世界、おそらくはウルトラマンのような架空の物語としてではなく、人間としてリアルであるが不可解なイメージに面食らうようだ。夜の寝床で読み聞かせるのだが、目の玉を大きく見開きはじめて、眠くて頭をかきむしりながらも眠れなくなるらしい。男と女が裸であることに恥ずかしくなって神から追い出されて、男は仕事に女は子供を産むのに苦しむようになる、と。さらに兄弟殺しのカインとアベル、その子孫繁栄したノアの箱舟時の人類絶滅や、アブラハムの子供を生贄にする話になると、なんでと聞くのでその各々の場合の殺した理由を説明してやるのだが、おそらく人がなんで人を憎くなるのかが腑に落ちないのだろう。一希も喧嘩をするだろうというと頷きはするのだが。そしてそこまでの人間の前提状態というか、背景を見せてから、やっと新約の物語にはいっていく。ここでは、キリストが死人を蘇らせる奇跡=信仰と、その背景状況下にあっての、どう人が選択すべきかのイエスのたとえ話が中心となってくる。「隣人」とは誰か、という問い……見知らぬけが人を見て通り過ぎた味方と手当てをしてやった敵ではどちらの態度がいいのか? 悪いことをした人となんで付き合うのかと権力者側から詰問されてイエスが述べる、九十九匹と一匹の迷える羊の話……パパやママからとことこ離れて行って勝手に遊んでいる悪い子をそのままおいてけぼりにして、いい子についてきた兄弟だけを連れて家に帰ってしまうパパとママはいいと思うかい? 神殿で泥棒をしないでいる自分であることに感謝する神父に比し、収税人がそこで「目を上へあげることはできない」でいるのはどうして?……貧しい人からお金を取り立てる仕事をしている人は自分が悪いことをしていると知っているから顔向けできないんじゃないの? だけどその人が集めたお金はみんな神父さんがもらうのに、その神父さんが平気でいるのはいいことなの? そして、冒頭で引用したマリアの話。「なんで神さまはお手伝いしないの?」と息子はきいてくる。そんな質問があるのだな、と私はびっくりする。台所でママの手伝いをするとほめられるのだから当然か。「神さまは、食べることよりも大切なことがあるという考えなんだよ。だから、その話をきいているだけでお手伝いしない妹のほうに神の子は悪口を言わないのさ。じゃあ、いっちゃんには、アイスクリームより大切なものってあるかい?」と私は聞いてみる。一希はちょっと考えてから「カブトムシ!」と声をあげる。これも意外だが当然な返答なので面食らいながら、「この神様の子供が言っているのは、目に見えないもののことを言っているんだよ。アイスもカブトも目に見えるだろ?」と付け足してみると、またちょっと考えてから、「ともだち!」と言ってくる。なるほど、それは正解か、と思いながらも、「そうだね。だけどこの神の子は、人間と友達になるよりも、神さまと友達になるほうがもっと大切なことなんだ、と教えているんだよ。」
そこまで子供に読み聞かせながら、自分でもわけがわからなくなってくる。次ぎの絵は、マリアがひざまずき、香油を使って自らの髪の毛でイエスの足を洗ってやっているシーンだ。その一見してのイメージの不可解な強烈さに、眩暈がしてくる。「何しているとおもう?」と一希にきいても、わからない、と言う。「まわりの生徒たちは、この女の人に、そんな高い油を買うお金があるなら、その金を貧乏な人に配ってあげればいい、と言って女を責めるんだけど、いっちゃんはそれがいいとおもうかい?」と文を読んであげたあとできいてみる。そうおもう、と一希は答える。「だけど神さまの子はね、もうすぐ自分が殺されてしまうことを知っているんだ。もうみんなとバイバイしちゃうんだよ。だから、女の人が足を洗ってくれることを喜んで、みんなにこれでいいんだ、と言っているんだ。自分はもうすぐ死ぬんだよって。」……今年にはいって、草野球仲間の一人が自殺した。不動産屋の社長だ。まだ40代後半だ。二十歳ぐらいの長男を先頭に、最近板前見習いとかと結婚して九州のほうへ嫁いでいった長女、そしてなお幼い子供がいる。借金があったそうだ。心筋梗塞の病気を持っていたとはいえ、周りの人には突然の死とうつった。死ぬ前に、家族でラスベガスにいっている。社員への給料未払いの件もあったから、800万どこかから借り、支払い残りで賭けにでたのだろうと。それは、その人らしい決断だ。2・3年前から、高額の生命保険にはいっていたので、計画的だろう、と言われている。奥さんや子供たちは、そのことを知っていたのだろうか? 特に奥さんはどうだろう? 冗談だと思うのではなかろうか? 死を前提(計画)に生きていられることを。遺書はなかったと聞いているし、文を書くより直接行動で、つまり話してきかすほうの人だ。四十九日の法要にあたってお返しの手紙が奥さんから送付されてくる。……「故人の遺志により、賜りましたご供物料の一部を地域の精神障害者の支援施設である地域活動支援センター○に社会福祉基金として寄付させていただきました。」
誰とでも仲良くしようとする一希をみていて、親としては心配になってしまうことがある。公園や地域の集まりで他の子と遊んでいるとき、いや遊ぼうとするとき、よその子からピンタされたりするのだが、反抗するでもなく、またニコニコと懲りもせずに遊ぼうと誘い続けるのだ。私はそのとき、右の頬をぶたれたなら左の頬をさしだせ、というイエスの選択を思い出した。そして、自分と似ている、と。私は幼稚園の頃はガキ大将ではないけれど、いじめていた方だし、一希も多分にそうで、そこを親類からは活発なきかん子、と指摘されて、いい子にしてないと世の中わたっていけないぞ、みたいなことを言われているのだが、私の見方は正反対だ。引っ込み思案で、晩生(おくて)だ。昨日も、小学生の子供と交じってのサッカー教室での様子を、仕事の昼休みに弁当を食べながら見ていたけれど、その遠慮気味な動きが気がかりになる。私はある意味、自分の性格(子供らしさ)を、思春期の葛藤を通して、大人になってからもう一度選びなおした、あるいは獲得しようと努力している、ということを倫理・思想的な態度としている、と言えるかもしれない。それはそれでいいとしても、その私は、世の中を渡っているのかどうか、心もとないからだ。息子には、たくましく育って欲しい、とおもうのが親心である。クレーン車は危ない、と前回のブログで書くと、自分がここ数週間、高所作業車に乗っての手入れ仕事に借り出され、となるやすぐ新宿でクレーン車がひっくり返ってみせる。私には死を想像することは恐怖で、とても計画的になど生きられそうもないし、この書くことと事実(事件)との符号的な連鎖を運命的に意義づけようとする、「意味という病」に犯されたいともおもわない。しかし、親と子の類似、連続、伝承されていくもの、その無意識的な選択が自分たちを動かしている、いや取り付いているのではないか、つまり神はいるのか、と、人の親として気がかりになってくるのだ。「神はいるとおもうかい?」と一希にきくと、ちょっと考えてから、「いるとおもう」と答えてくる。
一希がどういうわけか、“神さま”に興味をもちはじめた。東京MXテレビで再放送していた『鉄腕アトム』で、ウランちゃんが「神さまってなあに?」と追い求める物語があって、それに影響をされたのかもと思うのだが、それだけではないらしい。そういう年頃、ということかもあるのだろうが、しつこくきくのが、なんで「十字架に貼り付けにされたの?」ということだから、そのキリストのイメージに、なにか強烈な印象を持ったらしい。ウルトラマンでも、ウルトラの兄弟たちが貼り付けにされるシーンが引用されるが、子供が見た順序はウルトラマンのほうが先なのに、それを「ほらこれも十字架」と、イエスの方が先でそれが後の借用であることが理解されるほどに、その人間が貼り付けにされる、ということが不思議でならないらしいのだ。
そこで図書館から、キリスト教関係の絵本と、日本の『古事記』の子供向けの物語を借りて、読んでやることにした。まずは創世記のアダムとイブの物語からはいるのだが、まずそこからにして、不可思議な世界、おそらくはウルトラマンのような架空の物語としてではなく、人間としてリアルであるが不可解なイメージに面食らうようだ。夜の寝床で読み聞かせるのだが、目の玉を大きく見開きはじめて、眠くて頭をかきむしりながらも眠れなくなるらしい。男と女が裸であることに恥ずかしくなって神から追い出されて、男は仕事に女は子供を産むのに苦しむようになる、と。さらに兄弟殺しのカインとアベル、その子孫繁栄したノアの箱舟時の人類絶滅や、アブラハムの子供を生贄にする話になると、なんでと聞くのでその各々の場合の殺した理由を説明してやるのだが、おそらく人がなんで人を憎くなるのかが腑に落ちないのだろう。一希も喧嘩をするだろうというと頷きはするのだが。そしてそこまでの人間の前提状態というか、背景を見せてから、やっと新約の物語にはいっていく。ここでは、キリストが死人を蘇らせる奇跡=信仰と、その背景状況下にあっての、どう人が選択すべきかのイエスのたとえ話が中心となってくる。「隣人」とは誰か、という問い……見知らぬけが人を見て通り過ぎた味方と手当てをしてやった敵ではどちらの態度がいいのか? 悪いことをした人となんで付き合うのかと権力者側から詰問されてイエスが述べる、九十九匹と一匹の迷える羊の話……パパやママからとことこ離れて行って勝手に遊んでいる悪い子をそのままおいてけぼりにして、いい子についてきた兄弟だけを連れて家に帰ってしまうパパとママはいいと思うかい? 神殿で泥棒をしないでいる自分であることに感謝する神父に比し、収税人がそこで「目を上へあげることはできない」でいるのはどうして?……貧しい人からお金を取り立てる仕事をしている人は自分が悪いことをしていると知っているから顔向けできないんじゃないの? だけどその人が集めたお金はみんな神父さんがもらうのに、その神父さんが平気でいるのはいいことなの? そして、冒頭で引用したマリアの話。「なんで神さまはお手伝いしないの?」と息子はきいてくる。そんな質問があるのだな、と私はびっくりする。台所でママの手伝いをするとほめられるのだから当然か。「神さまは、食べることよりも大切なことがあるという考えなんだよ。だから、その話をきいているだけでお手伝いしない妹のほうに神の子は悪口を言わないのさ。じゃあ、いっちゃんには、アイスクリームより大切なものってあるかい?」と私は聞いてみる。一希はちょっと考えてから「カブトムシ!」と声をあげる。これも意外だが当然な返答なので面食らいながら、「この神様の子供が言っているのは、目に見えないもののことを言っているんだよ。アイスもカブトも目に見えるだろ?」と付け足してみると、またちょっと考えてから、「ともだち!」と言ってくる。なるほど、それは正解か、と思いながらも、「そうだね。だけどこの神の子は、人間と友達になるよりも、神さまと友達になるほうがもっと大切なことなんだ、と教えているんだよ。」
そこまで子供に読み聞かせながら、自分でもわけがわからなくなってくる。次ぎの絵は、マリアがひざまずき、香油を使って自らの髪の毛でイエスの足を洗ってやっているシーンだ。その一見してのイメージの不可解な強烈さに、眩暈がしてくる。「何しているとおもう?」と一希にきいても、わからない、と言う。「まわりの生徒たちは、この女の人に、そんな高い油を買うお金があるなら、その金を貧乏な人に配ってあげればいい、と言って女を責めるんだけど、いっちゃんはそれがいいとおもうかい?」と文を読んであげたあとできいてみる。そうおもう、と一希は答える。「だけど神さまの子はね、もうすぐ自分が殺されてしまうことを知っているんだ。もうみんなとバイバイしちゃうんだよ。だから、女の人が足を洗ってくれることを喜んで、みんなにこれでいいんだ、と言っているんだ。自分はもうすぐ死ぬんだよって。」……今年にはいって、草野球仲間の一人が自殺した。不動産屋の社長だ。まだ40代後半だ。二十歳ぐらいの長男を先頭に、最近板前見習いとかと結婚して九州のほうへ嫁いでいった長女、そしてなお幼い子供がいる。借金があったそうだ。心筋梗塞の病気を持っていたとはいえ、周りの人には突然の死とうつった。死ぬ前に、家族でラスベガスにいっている。社員への給料未払いの件もあったから、800万どこかから借り、支払い残りで賭けにでたのだろうと。それは、その人らしい決断だ。2・3年前から、高額の生命保険にはいっていたので、計画的だろう、と言われている。奥さんや子供たちは、そのことを知っていたのだろうか? 特に奥さんはどうだろう? 冗談だと思うのではなかろうか? 死を前提(計画)に生きていられることを。遺書はなかったと聞いているし、文を書くより直接行動で、つまり話してきかすほうの人だ。四十九日の法要にあたってお返しの手紙が奥さんから送付されてくる。……「故人の遺志により、賜りましたご供物料の一部を地域の精神障害者の支援施設である地域活動支援センター○に社会福祉基金として寄付させていただきました。」
誰とでも仲良くしようとする一希をみていて、親としては心配になってしまうことがある。公園や地域の集まりで他の子と遊んでいるとき、いや遊ぼうとするとき、よその子からピンタされたりするのだが、反抗するでもなく、またニコニコと懲りもせずに遊ぼうと誘い続けるのだ。私はそのとき、右の頬をぶたれたなら左の頬をさしだせ、というイエスの選択を思い出した。そして、自分と似ている、と。私は幼稚園の頃はガキ大将ではないけれど、いじめていた方だし、一希も多分にそうで、そこを親類からは活発なきかん子、と指摘されて、いい子にしてないと世の中わたっていけないぞ、みたいなことを言われているのだが、私の見方は正反対だ。引っ込み思案で、晩生(おくて)だ。昨日も、小学生の子供と交じってのサッカー教室での様子を、仕事の昼休みに弁当を食べながら見ていたけれど、その遠慮気味な動きが気がかりになる。私はある意味、自分の性格(子供らしさ)を、思春期の葛藤を通して、大人になってからもう一度選びなおした、あるいは獲得しようと努力している、ということを倫理・思想的な態度としている、と言えるかもしれない。それはそれでいいとしても、その私は、世の中を渡っているのかどうか、心もとないからだ。息子には、たくましく育って欲しい、とおもうのが親心である。クレーン車は危ない、と前回のブログで書くと、自分がここ数週間、高所作業車に乗っての手入れ仕事に借り出され、となるやすぐ新宿でクレーン車がひっくり返ってみせる。私には死を想像することは恐怖で、とても計画的になど生きられそうもないし、この書くことと事実(事件)との符号的な連鎖を運命的に意義づけようとする、「意味という病」に犯されたいともおもわない。しかし、親と子の類似、連続、伝承されていくもの、その無意識的な選択が自分たちを動かしている、いや取り付いているのではないか、つまり神はいるのか、と、人の親として気がかりになってくるのだ。「神はいるとおもうかい?」と一希にきくと、ちょっと考えてから、「いるとおもう」と答えてくる。
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