2011年5月14日土曜日

やまとごころ、をめぐって――佐藤優氏への疑問



「東日本大震災は思想問題でもある。」(佐藤優著『3.11クライシス!』 マガジンハウス)







大地震、原発事故、という緊迫した現在状況のさなかで、私はジャーナリズム世界の思想的一役を担っていたかにみえた佐藤優氏が、どのように発言をしていたのかを詳らかにしなかった。書籍としてその発言がまとめられた上の出版物を読んで、いかにもなるほどな、とおもった。状況を覗わせるような情報収集的な態度や機械的な状況批判ではなく、リアルタイムにそれを分析整理認識し、自己の立場を思想的に対応させていかせるには、その想定外的な非常事態以前に、それに即応できるような思想体制が構築準備されていなくてはならない。佐藤氏はそんなまれな思想家であって、ジャーナリストの枠におさまるような人ではない。ネット上では、「東電からいくらもらったか!」などといういわゆる左翼活動家まがいの駄弁も見受けられたが、氏への批判は、その思想的立場と正面から向き合わなくては話しにならない。


佐藤氏の思想的立場を支える根本的認識は次のようなものにみえる。


<「しきしまの 大和心の をゝしさは ことある時ぞ あらわれにける」


 という明治天皇の御製に、現下の危機をわれわれが克服する鍵がある。/日本人は普段、国家や民族について深く考えず、私生活やビジネスに埋没しているように見える。しかし、日本民族と日本国家の存亡の危機が生じると、日本人一人ひとりの内側から「をゝしさ」すなわちほんものの勇気が湧いてくるのである。今上天皇陛下は、3月16日のビデオメッセージにおいて、「そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています」とおっしゃられた。この「雄々しさ」がまさに明治天皇が御製で詠まれた「大和心のをゝしさ」なのである。>



しかし私の認識では、「やまとごころ」は、「雄々しさ」に結びつくものではない。むしろそれは、「女々しさ」に結びつくのが本意ではないだろうか。単純に広辞苑で調べれば、二番目の意味として勇猛という語感が含意されてくるが、まず一番は、漢才(学)に対する実生活上の知恵・才能のことである。これが古語辞典での説明となれば、なおさらその語感に近づく。本居宣長は、「しきしまのやまとごころを人問はば朝日に匂う山桜花」と詠んだが、その「やまとごころ」の表記とは、漢字(男文字)ではなく、やはりひらがな(女文字)だったのではないだろうか?(ネットでちょっと確認しようとしたがよくわからない…)――大川周明は、関東大震災後に、日本の復興を託し、「日本精神研究」をはじめたそうだが、大川の『日本二千六百年史』を読むと、その歴史が、いわば古事記以後の書かれた歴史の範囲内への想像であることがわかる。しかし、「やまとごころ」の系譜とは、文字として書かれなかった、先史時代からのものなのではないだろうか? つまり古事記の記述を援用していうならば、あくまで天皇(大和朝廷)による伊勢神宮ではなく、より土着の出雲大社の方からである。私の推定では、縄文とされる時代の狩猟・採集民的な倫理感が、弥生とされる大陸渡来的な律令(官僚)大儀に屈服されていくときに滲み出て来る情感が「やまとこごろ」」なのである。ゆえにそれは、個人の名誉に生きた狩猟・採集民の独立・自尊の気概が、敗者という諦念の感情に織り込まれていく屈折した心なのである。そしてここに、黙って従いながらも実は服従をよしとしない根強い精神が涵養され、それが大和朝廷には支配しきれなかった東北地方により明確に残存し、のちの東武士の精神を惹起させてくるのだ。比較文化的には、よくローマの政治的支配に対する、敗北したギリシアの文化的支配、という歴史解釈と類比的だ。また、日本の庭、という概念には、朝廷(庭)という大陸系の概念とともに、にわ(日和)という、土着的な意味が潜在的に受け継がれてきている、というところからも類推されてくる。いま、震災後の困難を耐えていかせているのは、そのような敗戦にも黙って処した土着民の東(あずま)精神である。それは、勇猛果敢という「雄々しさ」よりは、何か諦めたように日々の実務に黙々と取り組む屈折した「女々しさ」なのである。その心境の複雑さが、「やまとごころ」なのだ。


そういう認識からすると、佐藤氏が例としてもちあげる近代文学作品、三浦綾子氏の『塩狩峠』のクライマックスが、あまりに文学ロマン的な創作だということに気付かされる。


<……たったいまのこの速度なら、自分の体でこの車両をとめることができると、信夫はとっさに判断した。一瞬、ふじ子、菊、待子の顔が大きく目に浮かんだ。それをふり払うように、信夫は目をつむった。と、次の瞬間、信夫の手はハンドブレーキから離れ、その体は線路を目がけて飛びおりていた。/客車は無気味にきしんで、信夫の上に乗り上げ、遂に完全に停止した。>


以上の文章の中で、私が気にさわるのは、一瞬、家族の姿が浮かんだ、という挿入だ。ヘミングウェイの『誰がために鐘はなる』や、数年前の、スマップの草薙氏主演の映画『日本沈没』でも、日本人を救うことになる主人公はそんな一瞬に立ち返る。が、そんなことはありえない。私はこのことを、仕事上、なんども経験し、確認している。一服のときや、木に登るまえでなら、そんなときがあるかもしれない。しかし、その日の仕事が命がけになる、とわかっている日の朝などは、作業着を着替えれば、変わってしまうのだ。作業中は、目の前の処理、まわりの状況情報の取得、そんなことで精一杯だ。一つの危機を始末して、幹もとでほっと一息つける瞬間になら、富士山でもみながら息子のことをおもうかもしれない。しかし、作業中に家族のことを思ってしまう人は、危険作業をやる職人、技術者としては不適格だろう。しかも、祭り的に、ある時かぎりだけ、やるのではない。親方などは時々やってきて、「雄々しく」もお手本をみせるようにやっていくとしても、毎日やっている常連職人は、そんな祭り(危機)的なよいしょ態度では、やっていくことができないのである。だから、諦める、死を受け入れる、もう死んだものとして、ただたんたんと、黙々と、実務処理的にこなしていくようになるのである。30メートルの木の上の作業も、部屋掃除する主婦の日常と同じである。それは決して「勇猛」なものでなく、むしろ「女々しい」ものであろう。私はそのように、いま原発事故の最前線で作業をしている男たちのことをおもう。本をみるかぎり、佐藤氏が興味を抱くのは、あくまで前線作業員に指示をだす監督者、専門家エリートのようである。原発現場では88%を占めるという日雇い(日給計算)として雇用される庶民大衆たちのことは考慮にないかのようだ。しかし私からしてみれば、そんなエリート連中のところに、「やまとごころ」があるわけないだろ、とおもうのである。


<少なくとも今後10~15年の中期的展望において、日本が原子力発電から離脱するという想定は非現実的である。それより先の長期的展望においても、原発に依存しないというシナリオを日本がとることはできないと筆者は考える。それならば、将来のために今回の福島第一原発の事故に関しては、ヒューマンファクターを含めた真相究明が国益のための最重要課題だ。/人間は誰でも過ちを犯す。その過ちから学ぶことが重要である。読者の反発を覚悟してあえて言うが、東電と関連会社の社員に刑事免責を与えた上で、真相を語る仕組みを政治主導でつくってほしい。本件は、国民の不満を解消し、時代のけじめをつけるための国策捜査の対象になりやすい。しかし、国策捜査になると関係者が真実を語らない。それでは国益が毀損される。>


たしかに、検察が勝手な仮説的物語を前提に、責任者をつるし上げるのでは、真実は明るみでてこないだろう。しかし私は氏が説くような温情(前提)が、エリートから本当のことをひきだす戦術になるとはおもわない。すでに屈辱的な立場を経験した会社人間は、まずぜったいに口を割ろうとしないだろう。現場の人間は別だ(おそらく現場所長クラスも含む)。彼らは、どんなフレッシャーの下でも、自己で判断をくだす訓練を仕事としている。時間(ゆとり)をあたえれば、自分で整理してくるだろう。が、経営管理側の人間は、意地でも会社を守ろうとするだろう。その意固地だけが、自らを支え、もちこたえさせているだろうからである。こいつらにどのように口を割らせるのか、その手腕は、これまでどおり、同じエリートの検察がよく知っているはずだ。つまりこれまでどおり、あの手この手で逃げ口を封じて吊るし上げればいいのである。ただ勝手な仮説を作るのはやめてほしい。しかし、この捜査は、単に国策的な、国内的な問題として片付けていいものなのだろうか? 佐藤氏は、9.11も「米国人にとって」のカイロス、3.11も「日本人にとって」の特異な事件、と表記する。脱原発社会、というよりは、脱原発(核)世界(9条敗北理念=やまとごころ)をめざすべきと考える私には、福島の事故を国内的に納めておいたほうが国際的な道筋をとれるようになるのか、正面から国際的に問題化したほうがいいのか、その戦術の具体効果のことはわからない。(国際的に問題化すると、すぐにつぶされる、ということも考えられる、ので。)しかし、思想的な問題として、この日本で起きた原発事故が、「日本人にとって」だけの歴史的分水嶺だとは考えない。たしかに、チェルノブイリですでに大惨事が起きている。しかし今回のそれは、自然の驚異的な出来事から発しているのである。単なる人災ではない。まして、「誰でも過ちを犯す」というような話ではない。人間の手に負えない自然が、人間の手に負えない自然まがいの人為の脅威を見せつけたのだ。それは、遺伝子組み換えからクローンといった、今の世界の先端をゆく他の人為技術までの存在基盤の是非を根底から問い直してくるのではないだろうか? われわれは、9.11や3.11といった事件によって、ある種の人たちのやっていることが疑わしいことに気付きはじめている。それは、自然への対処技術を装った、国際的な権力利権構造と一体となった作為である。この自然へ向けた境域における人為の暴圧が、どこまで進むのかを黙って処して見ていることだけしかわれわれにはできない、わけではない、だろう。そしてその処理手続きは、祭り(特異時間)に興奮した猛々しい「雄々しさ」ではなく、「女々しい」台所での包丁さばきに似た、日常的な手際による腑分け(事業仕分け)作業に似るだろう。その実務手際の理想とする、「やまとごころ」をもった社会とは、いま東北の被災者たちがみせている、相互扶助的な連帯、「災害ユートピア」的な、ある意味敗者諦念の情感に支えられているものなのかもしれない。だとしてもそれは、日本国家という境界をこえた、普遍的に開かれた世界受苦的な共感としてあるものなのである、と私はおもう。





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