2011年5月19日木曜日

自然(帝国)、をめぐるノート

「……地球の核やマントルで続けられている太陽圏的な活動の影響は、地殻の表層部につくられてきたささやかな生態圏には、めったに及んでこない。原子核が融合したり分裂する現象は、この生態圏の内部では起らないように、自然は組み立てられている。/しかし原子炉がそこにつくられると、状況は一変してしまう。…(略)…莫大なエネルギーといっしょに、生態圏的自然の内部には、まったく異質な「自然」が出現してしまうことになる。その「自然」は、太陽の内部や銀河宇宙にしか見出せないものであり、地球生命はその「自然」のなかでは、人工的な防護服なしでは生きていることができない。」(中沢新一著「日本の大転換 上」『すばる』2011.6月号)


「……本源的生産要素の商品化の限界は、単純な物理的限界ではなく、歴史性・地理性を帯びている。言い換えれば、労働の背後にある人間の定義、土地の背後にある自然の定義、貨幣の背後にある聖性の定義のいずれもが歴史的・社会的に構築されている社会――「大転換」において市場は、その網の目にともかくも接合されなければならないわけであるが――の底は抜けてしまうことがありうるということこそ、私たちは恐れるべきなのである。」「近代に入り近世帝国が解体するとともに、人間、自然、聖性の定義がゆらぎ始め、その流動化は現在、臨界点に達しつつある。それが世界の<帝国>化の条件を構成しているということだ。」(山下範久著『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』 日本放送出版会)


「一神教の成立する以前には、流動的知性にそなわった「流動性」というものに、きわめて大きな意味があたえられていた。この流動性が活発に働いているおかげで、言語というものが、いまあるような構造に進化をとげることができたのであるし、固定化された意味領域の隔壁を越えていく、流動的知性の強度に注目するところから、象徴思考やその表現である多神教の神々が生み出されてきたからである。/横断性をそなえた流動的知性は、日常生活で大きな働きをしている諸領域に特化された知性よりも、はるかに強度をそなえている。そのために、その横断的運動をイメージ化した、動物や植物の領域に向ってメタモルフォーシスをとげていく神々は、人間の持つ力をはるかに凌駕した「超越性」をそなえることになる。大帝国の王たちは、こうした神々を崇拝し、それと一体となることによって、国家の権力にそなわった「超越性」を誇示しようとした。一神教を生みだすことになる民たちは、このような想像界で働く「超越性」を、根底から否定しさろうと試みたのである。」(中沢新一著『緑の資本論』 集英社)


「では、「<他者の他者>への固着」とはどういう意味か。やはり、食の安全の話を例にとれば、メディアに報じられる偽装や汚染は、間抜けでささいな、ほんの氷山の一角で、実はグローバルな食品ビジネス資本と諸政府とのあいだには知られざる密約があって、地球規模の過剰な人口を整理するとか、反抗的な労働者を化学的に去勢するとかいった邪悪な目的のために、汚染/調整された食品がグローバルに供給される体制ができあがっているのだといった陰謀説にとりつかれるようなとき、そこには<他者の他者>の作用、すなわち現実界に潜む不可知の存在の力にたいするオブセッションがあるということだ。/これは荒唐無稽なパラノイアだと一蹴できるものではない。たとえば、右の陰謀説も「食の安全の背後にあるのは、グローバルな食品ビジネスやアグリビジネスの利益追求にともなう暴力なのだ」と言い換えれば、それを単なるパラノイアだと断ずる人の割合はぐっと下がるだろう。さらに言えば、スーパーでものを買うときにいちいち産地を調べ、「中国産」とあれば棚に戻し、「遺伝子組み換え不使用」や「有機栽培」といった表示にこだわったりするときにも、私たちは<他者の他者>への固着を示してしる。/小さな<大文字の他者>は局所的には実質的な秩序をもたらしうるが、それが有効であればあるほど、本来の<大文字の他者>への信憑は回復不可能になる(食の安全について政治家や官僚を本気で頼りにする人はますます減る)。そしてその分だけ<他者の他者>への固着の度合いは増していく。そうしなければ、象徴的秩序の崩壊――それは主体にとって「世界の終わり」として現前する――が食い止められないからだ。」(山下範久著『現代帝国論』)


「……私のような想像力をもった人間には、科学者や技術者たちが、まるで一神教的技術の生み出したモンスターに放水を繰り返すことによって、その怒りを鎮めようとしている、自然宗教の神官たちのようにさえ見えた。/ことによると、日本の科学者の思考には、一神教の本質の理解がセットされていないのかもしれない。原子力発電は生態圏内部の自然ではないのだから、それをあたまかも自然の事物のように扱うことは許されない。いわんやそれが「ぜったいに安全である」ことなど、ありえようがないのである。生態圏の自然と太陽圏の「自然」を混同することほど、危険なことはない。」(中沢新一著「日本の大転換 上」)


「選挙で議員が選ばれる。その議員が議会で原発なりダムなりの建設を決める。決定に即して官僚的手続きにしたがって専門家たちがその原発なりダムなりを設計する。もちろん、安全基準などについても、正当な手続きで決められたものを踏まえて設計される。しかし、事故は起こる。専門家は、たとえば「震度6の地震に耐えるためには、これくらいの強度が必要です」といったことには一致した合理的結論を出すことができるが、「この地域に原発なりダムなりを作るにあたって、想定すべき地震は震度6までです」といった判断で一致することは難しいし、そもそもその資格もない。震度6以上の地震が来ることによるリスクを背負うのは彼らではないし、震度6以上の地震に耐える強度にするための追加的コストを払うのも彼らではないからだ。だが他方、その地域を震度7の地震が襲ったならば、その「正当な手続き」に実質的に参加する方法を持たない多くの「一般の」ひとびとが壊滅的な打撃を被ることになるのである。/こういった矛盾は、すでに私たちにとってうんざりするほどありふれた光景になっている。ドイツの社会学者ウリッヒ・ベックは、この状況を「リスク社会」と呼んだが、<帝国>の観点から重要なことは、この「リスク社会」における当事者の多様性が、<帝国>においては活性化させられていることだ。したがって<帝国>においては、高度な技術的判断をともなう統治行為にかかわる問題であればあるほど、意思決定は単一の議会においてではなく、無数の会議において行なわれざるをえなくなり、それに応じてその執行も脱官僚化されざるをえないということである。」(山下範久著『現代帝国論』)


「しかしそれならば、イスラームの人々は別として、資本主義が人類に普遍的な経済システムとしての本質をそなえていると考える人たちが、今日圧倒的なのはどうしたことだ。資本主義のグローバル化は、多神教的なアジアやアフリカの世界をも巻き込んで、地球的な規模で進行しつつある。この資本主義のグローバル化の現象は、資本主義の本質を決定しているそのキリスト教的構造と、矛盾するのではないか。/ここで、キリスト教が一神教の冒険魂に突き刺さった棘をはらんでいる、という事実を思いおこす必要がある。キリスト教が自らの本質を表明した「三位一体」の構造を、「至高の一神教」としてのイスラームは、激しい意志をこめて拒絶した。その概念が、唯一である神の単一性を汚染することを、イスラームはおそれたのである。「三位一体」的思考は、一神教の神の内部構造に、生命的なプロセスをセットするすばらしい効果を持つが、イスラームにとってそれは、一神教の発生の人類的意義を危うくするものであった。/資本主義の普遍性と今日言われていることは、キリスト教のおこなった(イスラーム的なタウヒードの観点からすると)一神教の純正なドグマからの逸脱から発生した経済的現実なのである。その証拠は、「聖霊」の働きにかかわる記号論的思考が、新石器時代以来の「人類的」伝統に根ざしていることのうちにある。」(中沢新一著『緑の資本論』)


「だが実際には、まさにグローバリゼーションにともなう変化として、私たちは人間、自然、聖性に関する定義のゆらぎを経験している。たとえば近年、感情労働の問題が前景化しているのは、感情が人間の本質の一部であって市場の論理になじまないと考えるか、感情も商品化可能な人間の外的属性であると考えるかのあいだの緊張関係の高まりの反映である。遺伝子組み換え作物の問題は、単なる安全性の問題であるだけではなく、むしろ遺伝子が自然の本質(生命の神秘)の一部であって、市場の論理によってそれを操作することをある種の冒瀆であると考えるか、遺伝子も商品化可能な天然資源であると考えるかのあいだの緊張関係であろう。また最近拡大の著しいイスラーム金融においても、「利子」を禁ずるクルアーン(コーラン)に抵触する金融商品の範囲は、個々のイスラーム銀行が擁するシャリーア(イスラム宗教法)評議会でも判断が分かれる。そこにあるのは、超越的な秩序――聖性――の定義をめぐっての見解の分岐である。/さらに言えば、これらの変化とも絡んで、そもそも本源的生産要素の商品化の限界をめぐる物理的限界と倫理的限界との区別も、かならずしも明瞭ではなくなってくる。というのも、いま例示したような倫理的限界をめぐるゆらぎの背景には、近年の情報技術および生命技術の発達が介在しており、たとえば(情報機器によって生を補完された人間としての)サイボーグ化の問題や、クローン技術や遺伝子組み換え技術などを通じてモノ化した――設計の対象となった――生命の問題などは、単に社会的な決めごとの水準での倫理の問題というよりも、そもそも人間とはなんなのか、自然とはなんなのかについての物理的な定義自体のゆらぎをもたらすものだからである。」(山下範久著『現代帝国論』)


「イスラームは長い歴史をかけて、人間の住む世界のすみずみにまで、一貫した原理を浸透させようとしてきたが、そのことがもっとも印象的にあらわれているのが、伝統的なスークに今もおこなわれようとしている商業のあり方なのである。イスラームは一神教の原理に忠実に、貨幣や商品のうちにセットされたシニフィアンの部分を「魔術的」に操作して、そこから不当な利潤を獲得することを、厳に禁じてきた。とりわけそれは、「ニ〇ヤールのリンネル=一着の上着」という、商品交換のもっとも原初的な場面において何気なく作動をはじめ、商品としての貨幣を生み出すばかりか、その貨幣が貨幣を生むようにして、価値増殖の過程がはじまってしまうという、深淵微妙な経済学的分析を深く理解していたかのように、この原初的な場面においてまず、資本主義への道を固く閉ざそうとしてきたのである。…(略)…そこには、人間の自然的知性がつくりだしてしまう世界に対する、一つの透徹した批判システムの作動をみることができる。イスラームとは、その存在自体が、一つの「経済学批判」なのだ。原理としてのイスラームは、巨大な一冊の生きた「緑の資本論」である。」(中沢新一著『緑の資本論』)


「たとえば地震で原発が損傷したというとき、その責任は政治家にあるのか、官僚にあるのか、技師たちにあるのか、それとも住民全員が甘受すべき天災なのか。たとえば国際金融システムの危機にあたって、ある投資銀行は救済されず、別の保険会社は救済されるというとき、その判断はどこまでが市場の論理によるもので、どこから統治の論理によるものなのか。近代社会は、これらの問いに取り憑かれている。/だが、結論から言えば、どの問題をとっても、そのような腑分けは不可能である。仮にむりやり腑分けしたとしても、腑分けされたそれぞれの部分における局所的な対応は、問題全体の解決にかならずしも結びつかない。むしろ大規模で深刻な問題であればあるほど、それは逆効果になりやすい。それにもかかわらず、腑分けが推進されるのは、近代的な社会科学の知が、純粋に分離された自然の秩序と社会の秩序を説明とし、そのパラダイムのなかで、実際の社会組織とその責任系統もまた自然と社会の分離を前提して編成されてしまっているからである。…(略)…ポランニー的不安を再帰的近代化の帰結としてのみ捉えるネガティブな普遍主義には、この自然と社会のふたつの極の解体が世界の終わりに見える。それは極端に言えば、政府が見出した法則は法則である以上、それに対する違反はそもそも存在しないと言い張り、自然と社会のハイブリッドのなかで起きた事故を社会の論理で裁くようなカオス的世界である。たとえば法律に反して事故を起こした原子炉を罰するようなものだ。もっと過去には、法則たるべき王の命に背いた咎で、牛馬に刑罰の鞭が与えられたり、不味いワインの元となるという咎で、特定の品種のブドウの樹が引き抜きを宣告されたりした。ひるがえって人間に刑罰が執行される場合、それは、犯罪者の矯正や更正のためではなく、一時的に乱された自然の秩序の回復を演出するために行なわれた。そういった「前近代的」体制は、理想的な社会などではもちろんない。しかし、人類にとって未曾有のカオス的破滅というわけでもない。」(山下範久著『現代帝国論』)


「このようにアニミズムや多神教のj神々は、どんなに超越的なふるまいをしてみせようと、それはいわば格好ばかりで、じっさいには生態圏の全体性の表現になっている。これらの神々のなかには、毒を出すものもいる。しかしその毒は、人間がうまく処方できれば薬に変えることができる。これらの神々は、生態圏のなかに、その秩序を脅かすような「外部」を引き込んだりしない。その意味では、一神教の神と本質的な違いがある。/一神教はその生態圏に、ほんらいはそこに所属しないはずの「外部」を持ち込んだのである。モーゼの前に現れた神は、無媒介に、生態圏に出現する。そんな神を前にしたら、生身の人間は心に防護服でも着装しないかぎりは、心の生態系の安定を壊されてしまうだろう。」(中沢新一著「日本の大転換 上」)


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*「緑の資本論」として、厳格に一神教であるはずのイスラーム圏(イラン)が、<核>をもとうとしていること、あるいはその素振りは、やはり「自然(人間・聖性)」の定義自体の底が抜ける次の「帝国」段階への流動化を意味してくると同時に、その抵抗とも伺える。アメリカがIAEA、原子力規制委員会、等を通して日本にかけてくる圧力は、パレスチナをめぐる、イスラエルとイランとの駆け引きに間接的に介入することで、ヨーロッパにおける分裂(ユダヤ資本とその反ユダヤ)を促進させるよう誘導していこうとしているのかもしれない。(そうみると、副島氏が今回のフクシマで起こされていることは、ヨーロッパのロスチャイルドとアメリカのロックフェラーの権力・利益争いだ、と分析してみせるのも、そう突飛でもないのかもしれない。がそんな程度の話ではすまない、というのが、上の引用でみてきたことである。)――つまり、世界の次なる帝国過程(根底的なものへの再定義)、への反動である。そしてこの反動自体が、より世界をカオス的にし、つまり、次なる帝国段階を深めている。


*私の自然(アニミズム)観は、原子炉的な自然災害の前では、まさに外部から排除されてしまう。それと折り合う、放射能とうまくつきあっていく、ということは、原理的には不可能である。実際には、可能である。(死ぬまで生きる、ということだから。)また日本人だからといって、一神教的な思考態度がもてない、というわけでもなく(それはどの人間にも可能だ、という前提=脳味噌構造、の原理でもあるわけだから)、単に、そういう強度を受肉化しえない人たちが出世して権力をもってしまう世の中だったから、ともいえる。そしてならば、原発をいっきに廃止することが不可能であり不適切になってしまうなら(つまり、世の中が混乱しすぎる、ということ)、過渡的であれ、一神教的体制を構築する必要がはっきりしてしまった、ということか? しかしそれは、過渡的、ということなのか? チュニジアをはじめとした民衆革命のように? イスラム的な厳格さは、過渡的だった、ということ? ということは、資本主義(三位一体的似非一神教)に抵抗していく「緑の資本」は消費されていく、ということ? ドイツの「緑の党」を中心とした反原発=自然エネルギーの運動自体が、権力者たちの暗黙なる世界利権争いを繰り広げて、次なる帝国段階への混迷を深めていく、ということか? 「自然」なるものの定義が、どのように深化していく、ということなのか?

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