2011年9月10日土曜日

自由(=自治・主体)へ向くまえに(=ために)

「ワールドカップの優勝国には、共通点があるのを知ってますか?」「歴代優勝国は、すべて自国の監督が率いているんですよ」「南アフリカでの岡田監督は、土壇場の決断力でチームをベスト16まで持っていってくれた。自国の監督というのは、ワールドカップの結果に関わらず、大会が終っても自分の国に住むわけですよね。代表監督の仕事ぶりによって、自分の価値が上がることもあれば、ひどく傷ついてしまうことだってある。背負うものが、ものすごく重いんです。一生を賭けていると言ってもいいぐらいで。その一方で、外国監督はどうか。そこまでのリスクはないわけです。契約満了となれば、自分の国へ帰っていく。街を歩いていても、指をさされるようなことはないですよね」「ワールドカップという舞台のパラグアイ戦のようなゲームが、最後の最後の土壇場になってくると、メンタルが戦いの成否を分ける。本当の意味でチームがまとまって、心がひとつになっているか。最後の一滴までエネルギーを絞り出せるか、というところにかかってくる。覚悟を持って戦うチームが勝つと思うんです。その覚悟はどこから生まれるのかと言えば、自分が育ってきた国や生まれ故郷への誇り、自分が育ったチームの監督、自分の家族に対する責任、応援してくれる人たちへの感謝といったものです。ワールドカップの優勝国がすべて自国の監督に率いられているのは、自分たちのDNAに訴えかけるような一体感があるからだと、僕は思うんです」(山本昌邦・戸塚啓著『世界基準サッカーの戦術と技術』 新星出版社)

前回ブログを引き継いで言えば、マッカーサーをマレ人とみる民俗学的見方がかつてあったかもしれないとしても、われわれがそんな素直に来客を神としてあがめられる意識を維持しているわけでもなく、むしろ、外人頼みではあまりに情けない、という世俗現実主義なズレの意識をいまや抱え込んでしまうのが、とくには敗戦からの高度成長を成し遂げた日本人の感性として普通であるだろう。しかし、ということはやはり、そのズレには、つけ込まれる弱さがある、ということも確かだ、ということだ。この主体性(決断力)ということに関し、次のような分析整理を引用しておこう。

<ただし、菅首相は、一度だけ、一瞬だけ、レーニンのように振る舞ったときがある。浜岡原発の稼動停止を要請したとき――というより事実上命令したとき、である。このとき、首相は、自分より上位の審級に、停止の許可を求めようとはしなかった。純粋に自分自身で決断し、自分自身によって自分の命令を権威付けたのである。浜岡原発への停止要請によって、国民の脱原発への支持率が一挙に上昇した原因は、この点にある。その瞬間だけ、国民は、新しい第三者の審級が出現し、脱原発へと向けた実効的な行動を許可しているのではないか、と感じたのだ。>……(この箇所への註として)<菅首相が浜岡原発の停止を要請したのは、アメリカ政府からの圧力があったからだ、と述べている者もいる。私には、真相はわからない。いずれにせよ、「総理の中部電力への要請=命令がアメリカの指令に基づいているように感じられた」という事実は、ここでの私の主張を裏付けるものである。確かに、もしほんとうにアメリカ政府の圧力が理由で、首相の要請が発せられたのだとすれば、「首相は上位の審級の意向を顧慮しなかった」という認定は事実に反するものとなろう。この場合、第三者の審級は、言うまでもなく、アメリカである。しかし、仮にそういうことがあったとしても、そのことは一般の国民にはわからないことだ。むしろ、多くの国民は、菅首相が中部電力への要請を表明したとき、首相のところに第三者の審級が降臨しているのを直観したのだ。その上で、その第三者の審級と菅首相とを重ね合わせることがどうしてもできなかった一部の国民は、首相のさらに背後に本当の第三者の審級を――アメリカという形態で――見出そうとしたのである。「アメリカ云々」の噂がかなりの人に説得力があるように感じられたという事実こそ、むしろあの瞬間(だけ)菅首相の身体の場所に第三者の審級が現前しているのを多くの国民が感じていたことの証拠である。>(大澤真幸著「可能なる革命」第3回 『atプラス09』太田出版)

私の情勢認識は大澤氏のものとは違うが、その問題設定は共有することができる。当時のこのブログでも発言したことだが、私は、菅首相の決断は中途半端なものであり、「要請」という他人に下駄をあずけるような形式自体がいかにも日本的な曖昧さをなぞったもの。が、法的にそんな権限が総理にもないというのならば仕方がない、勇断だ、というものだった。(が後に、環境エネルギー政策研究所の飯田氏の指摘によれば、「要請」ではなく、端的に「命令」することも法的には可能だったそうである。)世論調査の脱原発支持率上昇ということにしても、それはそんな首相の決断とは関係なく、被災避難する福島県の人たちの惨状が、関西方面の人にもわかるようになってきたから、というものである。またアメリカの介在、ということに関しても、私は副島氏が、官邸の後にあるホテルから通じた秘密地下通路を行き来し、大統領からの全権委任を受けた〇〇という政治家が様々な支持をだしているのだ、という話も、明治以降の日本の歴史や、現今の他の第3世界や被植民地国の様を想像すれば、十分ありうることだと認識する。しかし、現実の問題とは、そうした事実にはない、あるいは、それではすまされないと認識するがゆえに、私は大澤氏のような問題設定を共有するのである。しかしまた、その現実設定が、事実(裏話)をいかがわしき噂として見向きせずともよい高尚なものだ、ということでは全然ない、と考える。なぜなら実践とは、単に下世話で世俗的な次元においてしかありえないからだ。人々がデモをするのは、政治家の行きすぎた賄賂といった腐敗、官僚や財界人の行きすぎた内輪びいき、自治を阻害する行きすぎた権力行使、こういったありきたりのものに対してだろう。こうした世俗の活動なくして、われわれの精神は健全さを保てない。つまりそこにこそ、逆に現実的なものへのアプローチが実践的につながっている、ということなのだ。
ラカン派の精神科医というべきなのか、斉藤環氏は、次のように発言している。

<しかし人災としての「フクシマ」はそうではない。それは予防可能な人災でありながら、いまだ測定不可能な被害をもたらした。この測定不可能こそが潜在性の領域であり、それゆえこの潜在性は、その意味も定位も定かではないまま「フクシマ」という表記のもとで象徴化される。これこそが潜在性の現実化にほかならない。/「フクシマ」の潜在性は、われわれの「日常というプログラム」を書き換える。この日常の多層性に”放射能というレイヤー”が強制的に挿入されたのである。さきに引用した浅田彰の言葉に戻るなら、この日常の多層性は「フクシマ」によって豊かにされた、と言うべきだろうか。/たとえば「分裂病」のような、完全には予防不可能な潜在性の問題については、そのように言いうるかもしれない。現実的には治療の対象でありながらも、その存在そのものは「肯定」するほかはないということ。逆説的な言い方になるが、こうした肯定のもとにおいて、分裂病の治療という「可能性」について、われわれは考えることができる。/しかし「原発事故」はそうではない。それは予防可能な潜在性の「現実」化にほかならず、まさにその予防可能性において「否定」されなければならないからだ。…(略)…ならば、はたして被災した時間は修復できるのだろうか。最大の処方箋は”政治”しかない。全面的な脱原発へと向けた現実的選択へ踏み切ること。それは科学ではなく思想の選択であり、論理性よりも象徴性を優先させる選択でもある。だとすればそれは、はっきりと政治の領分なのだから。/繰り返し強調してきたように、もはや原発との共存は、少なくともそれを選択することは、この列島においては、分断された時間と破壊された想像力を温存することしか意味しない。だとすれば、何の恥辱も感ずることなしに、そうした選択は不可能である。/ふたたび「未来」を回復するには、われわれにはまだ「時計の針を巻き戻せる」ことを示す以外に手段がない。そのための脱原発であり、かくして「フクシマ」の潜在性は、このうえなく強い否定のもとで象徴化されるべきなのである。>(「”フクシマ”、あるいは被災した時間」『新潮』2011.9月号)

あの宝島社のマッカーサーの広告をみて、もはやイロニーに陥らず、それがなんのことかわからない、その白痴的な健忘症を手に入れたとき、私たち日本人は健全になるだろう。つまり過去から自由になるためには、ひとつひとつの段階をクリアし、日常において自信を回復させていくしかない。被災避難したフクシマの農家が被曝した牛を連れて東京の街中をデモをする。それがまったく健全な道筋であることをわれわれは疑えない、そのように、もはや当事者としてのわれわれが、街中の闘争で勝ち、自信を反復させていけるかが、現実(潜在)的なものの領分(最後の審判=審級)をこの世界に降臨させるのである。

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