2014年2月26日水曜日

サッカー<プレイヤーズ・ファースト>の自由

「ゲームで勝つことは簡単ではありません。集団の凝集性はチームの結果と循環すると考えられています。勝つとチームがまとまり、まとまるとチームの成績が上がるといった好循環を生みます。集団での練習が多いサッカーではチームの成績が、個々のやる気にも大きな影響を与えます。育成の指導者は「育てること」と「勝つこと」に真摯に向き合っていくしかありません。」 (中山雅雄著 「JFA news No.350」 2013.6月号)

「子供たちが決めたことですから」と、息子の一希にとって四年生最後の大会になる最後の試合で、あるコーチがいう。先発メンバーとその布陣のことだ。とりあえずは、暗黙の了解である3・4年担当のヘッドコーチである私は、前日の土曜日は仕事で試合はみることができなかった。11対0での勝利だったのだが、そうなることはやる前からわかっていた。だから、もう予選リーグでの突破はなくなり、次は勝利というよりチーム全体の底上げや、もう少しで動きがわかってきそうな子をどう起用するかといった育成中心の采配をしよう。強豪に勝っていくには、できる子ではなく、まだわかっていない子の水準をあげていくしかない。そして私が不在でもチーム力が維持されるように、ここは試合をみるのを休んで仕事にで、他のコーチにまかせようと考えたのだった。ところが、様子が変だ。大差で勝った試合でも、一希は喜んでいない。自身でも2点決めたという。話をきいていると、自分以外の4年生はみなディフェンスで、試合が決まった後半においてもそのままの選手起用だったという。3年生は本年度の3年大会で準優勝の経験もあり、図抜けた選手が4人いる。
<プレイヤーズ・ファースト>とかいうことが少年サッカーではうたわれることなので、そう3年担当のパパコーチからいわれると、いったんは黙らざるをえなくなる。しかし、様子をみていて、むしろ状況が正反対だということがわかりだした。そのコーチは、3年生の番長格の選手を利用して、自分のやりたいことをしているのである。おとなしい4年生はそのまま押し黙って、一希だけが「ちがう!」といって反抗していたのである。実際、サイドバックを任された4年生は私にこっそりといってきた。「俺はトップをやったことがないからやってみたい。」
そこで私は介入し、「子供たちの案」ではなく、前もって用意していたコーチの案を述べ立てた。「相手は3年生チームです。だから、まず3年生を全員前にだします。一希はキーパーをして他4年の中心選手がバックをする。布陣は、3年の〇〇君の役割の難易度を高くしてワンボランチにはいってもらい、4-1-3-2とします。トップ下は、まだ△君が未経験なのでそこにはいり、昨日トップをやった◇君はサイドハーフ、点取り屋の役目なのに昨日とっていない××君にはトップ、ハナコちゃんもトップにはいって点をとりにいくよ。」3年担当のコーチは面食らう。一希が前線にいないと、負ける可能性を心配しているのだ。しかし3年大会もみてきて今日やる相手とのやっとこさ勝ちの原因もわかっている私は、こう言ってやる。「前半で片が付きます。今日顔をだした4年の%君にはセンターバックを任せられるようにしたいので、前後半そのままでいきます。」……結果は、前半を6対0での勝ち差で折り返してくる。
が、問題はそれだけではないのだった。試合前アップの時から、子どもたちがやけにハイテンションで、騒ぎモードなのだ。昨日大差で勝ったことで、浮かれているのか? 私はベンチに入る前に、その心の準備のことを指摘し、静かに沈思する時間を作らせる。が、ゲームがはじまっても、どこかおかしい、まるで学級崩壊のようだ。点差が開いてくるから、なおさらだ。「きのうも、こんな感じだったのですか?」「そうです」と3年担当コーチがいい、「この状態で、強いチームを相手に戦いたかったのですけどね。」と2年担当コーチがいう。私は唖然としてしまった。彼らよりベンチ経験が1・2年多い私は、子どもが浮かれた状態でゲームにはいればどうなるかが目に見えていたし、そのことは、先輩コーチとも確認してきたことだった。しかし、この<池上方式>を信望する2年担当コーチは、一見古風なおっかなコーチを演じている私を暗黙に批判しているのである。私は、区連盟の理事をもしているチーム全体の監督が、その実践の可笑しさを感ずいていることに気付いていた。しかし、「子供優先」といわれると、この変な感じをどう訴えればいいのか、困ってしまう。日本のサッカー連盟自体が、理論的に<プレイヤーズ・ファースト>なるものを捉えられていないのである。

サッカーにとって、「自由」とは何か? 3年生の子供に自由に決めさせて、園庭のような状態を作ることなのか? そんなサッカーなら、20年以上まえの日本サッカーがそうだったではないか。教えてくれるコーチもろくにいないのだから、ボールを持てばゴールめがけてドリブル……ブラジル帰りのカズは、そんな日本サッカーチームのなかで、サイドから攻撃することの重要性を理解させようとしたが、困難だったという。そして今でも、バルサやレアルなどの少年指導のコーチが日本にスカウティングにきて、「サッカーは賢くやるもんだよ」と教えていく。そして日本の小学生年代をみていうには、「足元のボールコントロールなどの技術はいい。しかし、戦術的理解がない」……<コーチの指示作戦を理解すること>と<プレイヤーズ・ファースト>とは矛盾ではないのか? もちろん、このことは、<個>と<集団>の矛盾と、よくプロ選手の迷いどころとして紹介されもすることだろう。しかし、なんで子ども相手でもそんなことが、そんな矛盾が問題となるのか? それは、サッカーにとって、「自由」とは「矛盾」のことだからである。それが原理だからだ。
ならばサッカーにとって、「矛盾」とは何か? それは、「スペース」のことだ。スペースを空けて攻撃しなくてはならない、しかし同時に、そのスペースを埋めて守らなければならない。スペースを空けなくてはならない、埋めなくてはならない、攻めなくてはならない、守らなくてはならない――この二律背反的な矛盾を解決する仕方が、コーチによって異なり、その解き方にこそ独自性や創造性、個性や発想の自由があるのである。それは、数学的問題をとくのに、その解き方にその人の個性や独特性がうかがえてくるのと同じなのである。哲学では、それを弁証法という。

「たとえばだよ、試合中、〇〇くんのスパイクの中に、石がはいっちゃったとしよう。もう痛くて走れない。さいわい、ボールは相手陣地深くにまでいって、バックをやっている自分にはなんとか靴をひっくり返す時間はありそうだ。しかし、またすぐにカウンターがくるかな。10秒以内には結びなおさないと。こんなとき、もし君が結べばいんだろ、と勝手な結び方でスパイクを履いていたらどうなる? すぐにほどけるかい? いや、ほどくことはできたけど、またすぐに結ばなくちゃならないとき、勝手な結び方で紐の長さの調整がすぐにできるかな? 君はあるタイムリミットのなかで、ほどかなくてはならない、結ばなくてはならない、この矛盾を解決する方法を考えださなくてはならなくなる。そう考えてみると、このリボン結びというものを発明した人は、すごくないかい。個人の発明を超えて、みんなに使われているのだからね。それは決して、勝手気ままな解決方法ではないよね。サッカーも、自由にやっていいよ、といわれるとき、それは決して勝手気ままにやっていいということではないんだよ。まず、矛盾がなんなのか、それを把握し、その矛盾に即した解決方法として、君の自由な発想を使わなくてはならない、ということなんだ。そしてそれは、社会においても同じだよ。日本人の方針を決めるおおもとのルールには、言論の自由、というものがある。しかしそれは、好き勝手なことを言っていい、という自由ではないよ。むしろ、その矛盾を解決するためには沈思黙考しなくてはならない、その沈黙の自由、生きていくに困難に直面する人間の条件が前提になっているんだよ。」

というわけで、日本のコーチ陣に、このサッカーの自由を理解させるのは、カズさん同様、困難なことであるだろう。それは結局、一神教的な、キリスト教的な原理性に関わる問題になってき、それを受容するかしないかには、政治的な問題もがかかわってくるのである。


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