2015年3月21日土曜日

イスラム国の人質(5)――『相棒』最終回を読む、その構造と偏差

「相棒」撮影中……私もエキス
トラになっていた、木の上で。
 とはいえ、民芸的なものによる世界の安定というモリス的なビジョンもあまり信じられません。それは「ゼロ年代批評」の言葉にも置き換えれば、アニメやマンガがあれば鬱屈も溜まらない、テロは起きないというような話に聞こえます。実際にそういうことを言っているひともいる。…(略)…自分で作品を作って自分で消費して小さく楽しむ。それはそれでいいんだけど、それだけでは満足できない人間は絶対に出てくる。
 中沢 それはこの三人ともそうですよ。浅田さんもウィリアム・モリスといっているけど、あの生活が周りを覆ったらいやになるでしょう。
 浅田 実際は確かにその通りなんだけど、とりあえず今日の話の路線にこだわっておけば、「死の欲動」や「死に至る悦」の激発を避け、欲望をいかに迂回させ多様化させ長引かせるかという倒錯的な快の技法があるわけですよ。たとえばフーコーは、ラカンの言う「サドとカント」(絶対的な悪と絶対的な善の背中合わせ)のような「死の欲動」と「崇高」に近いところから出発しながら、古代ギリシアとアメリカ西海岸のゲイ・カルチャーを経由することで、そういう別種の「快」と「美」の、また別種の社会関係の発明に向かおうとしたんだと思いますよ。
  サディズムとマゾヒズムの問題はまさに美と崇高の問題ですね。最後に別の補助線を引くとすれば、やはりフロイトの「不気味なもの」に触れるべきだと思います。「不気味なもの」は美にも崇高にも近いものでありながら、そのどちらでもない。>(『新潮』2015.4 特別鼎談「浅田彰 中沢新一 東浩紀 現代思想の使命」)

テレビ朝日の『相棒』最終回というのを、息子の録画で昨夜みた。正義感気取りの傷害事件犯人「ダーク・ナイト」が、相棒の刑事だった、というストーリー。前半はいかにもなストーリーで、これまでの作品とは違い緊張感なくつまらんな、とおもっていたが、模倣犯の男が「俺が本物だ」と主張しはじめるその仕方が繰り返されるうちに、私は面白く感じ始めた。「張り子のトラもトラ」とかいう毛沢東の言葉や、ボードリヤールのシミュラークルとかいう概念が脳裏によぎりはじめる。そして、これはイスラム国のテロリズムを意識して書き換えられて出来上がっていったものなのではないかな、という気がした。

湯川氏や後藤氏に手を下した覆面男「聖戦士ジョン」は、モハメド・エムワジというイギリス人の男であるといわれている。田中宇氏のニュース解析によれば、もともとはテロとは無縁な人だったが、そう疑われてたびたび拘束されることに心境が硬化し、イスラム国へのメンバーに本当になってしまったようだと。しかも、イギリス当局等はその渡航を承知し、わざとテロリストに仕立てあげているのだと。彼(ら)がテロに関与し、計画し、その実行を防ぐも、敢えてやらせるのも、その時の都合次第なのだと。世界の支配体制側は、そうでもやって、自らに都合のいい状況を作ろうとしているのだと。……そうだとして、そうやって体制側にテロに仕立てられた(模倣させられた)モハメド・エムワジは、本当に、オリジナルな、真実の、「聖戦士ジョン」なのだろうか? 権力側が、自らの体制側の者を、杉下右京という正義・原理主義者の「相棒」にすることによって、彼を「ダーク・ナイト」に仕立て、その犯罪が行き過ぎたときに逮捕し、そのことによって、つまり右京の管理者責任を問うことによって、もはやお役目ごめんと警視庁から追い出す、そうしたカラクリのなかで、「ダーク・ナイト」は、「聖戦士ジョン」は、自発性というオリジンを抱え込んでいるといえるのか? 本当のテロリストといえるのか? しかし、偽物ともいえるのか? これは、核爆弾をもっていなくとも「持っている」と言い続ければ、「持っている」と同じ効果があるのだと考えた毛沢東の思想戦略ではないし、ボードリヤールの記号論的解釈にも余りあるだろう。本当は持っていない(偽物な)のだが、自らは知らないあいだに何ものかに(?)「持たされて」、本当に持ってしまった、テロリストになってしまった……というのが実情だとしたら、彼らの内面は、そう強固なものではなく、虚ろであろう。もちろん、これは個人の問題というだけではなく、たとえば、「持ってない」のに「持っている」とされて攻撃された旧イラクのフセイン体制や、そうなってはいかんと、いつのまにか「持って」しまっているだろう北朝鮮のような国家にも当てはまる事情かもしれない。そしてイスラム国は、アルカイダの後釜として、なお利用価値ありとテロを許されている、ということなのかもしれないのである。もちろん最後的に、体制側の意図した通りに結末するのかは怪しいが。――ともかく、個人の話にもどれば、「何ものか」によって「持たされた」と私が言う時、その何ものか、とは、大きくは権力や体制的な世の中、であるといっても、直接的には、たとえば「ダーク・ナイト」なら友人の死ということ、「聖戦士ジョン」なら移民であることによる日常的な軋轢等が色々あったかもしれない、その動機は、複雑でその人の謎、ということになるだろう。

しかし私が、今回の『相棒』を見てこのブログを書きとめておきたくなったのは、そんなストーリ転回から読み取れることではなく、11歳の息子がそのテレビを見たあとでいったこんな言葉に衝撃にも似ている違和感を覚えたからだ。「ママは人ぶんなぐったことある?」……おそらく、「ダーク・ナイト」の殴る蹴るの暴行(それは相手が死ぬまではやらないプロ的なやり口なのだが)、被害者の血まみれの顔、崩れ倒れた身体、そうしたものを見たからだろう。私も、これまでの『相棒』にはなかった、ずいぶんどぎつい映像の反復であり、カットであるな、と差異を感じていた。この差異の感得が、なおさらイスラム国での人質事件からの影響を連想させたのだが。……、つまり、テレビのストーリの中だけでなく、この本当の世界にも、子供にも、こうやって、まさに紛れもなく今の内側の構造が外へと折り広げられて、子供は、そのとき、テレビを超えた、外を感じ取る……子供の自分にはまだよくわからないが、なにか本当のものがあるらしいな、と。現代思想的にいえば、息子は、このテレビドラマから、「リアルなもの」に触れたのだ。もちろん、もし息子が、川崎国での18歳のテロ模倣や、人を殺すまえに学校で飼育していた山羊の首をカッターで切ってみたという少年たちのように、そんな事件を仕出かしたなら、それは構造的には模倣反復したにすぎない。テレビとうメディアの悪影響という話にしかならない。イスラム国のテロ映像自体が、ハリウッドの模倣、影響であり、後藤さんの映像も、テレビや映画の撮影のように、何度も撮り直しカットし、いい画像のものだけで編集したものだとは、そこからの脱走者が発言している。が、そこには、まずこれまでとの差異があるのだ。この最終回の『相棒』は、これまでとは違うのである。イスラム国の衝撃も、どこか違うところがあるからなのだ。その影響を受けて犯した動機のうちには、感性には、構造として制度・習慣化されてはいない、彼らがリアルなものに触れたときに発生しただろう「偏差」が孕まれてしまっているのだ。つまりその偽物(模倣)の内側には、つまりは内(テレビ)から拡張された外(偽物)となって現象した内(面)には、まだ我々には理解できない本当の「外」が懐胎されているのではないか、と。子供の発言の無邪気な抑揚は、不気味ですらある。もし、すでに寝床に入っていた私がそう質問されたなら、「あるよ、ママ」と、女房しかなぐったことがないと答えただろうか? 女房は、子供の質問に答えようもなくおどおどとはぐらかしていたが。

さて、冒頭引用の鼎談は、後藤さんがなお人質中になされたものであるらしい。私は、最近の、というか、NAM以降の浅田氏の言動をほぼ知らないので、氏が何を言うのかな、と興味を持ち、図書館で借りて読んだのだった。相変わらず「イロニック」な、斜に構えたようなスタンスだな、と感じたが、それも、あの9.11のテロ以降、構造的反復性しかないような、縮小再生産的な事態が展開していたといえるのだから、当然かな、ともいえる。ニューアカやその上の年代の日本インテリたちは、ソ連の崩壊時に露呈してきて見えてしまったものは、すでに発言指摘していたのだから、それが衆目にもはっきりしてきたからといって、興ざめるだけだろう。「とりあえず今日の話の路線にこだわっておけば」、と幾度なく自身のスタンスを表明するのではなく限定してみせる浅田氏の態度は、理性的ともいえるし、ずるいともいえる。「とりあえず」オタク(ウィリアム・モリス)でいいというのなら、それは飛行機オタクの美的追求をいったんは明瞭に肯定してみせる宮崎駿氏の『風立ちぬ』の立場を「とりあえず」認める、ということになろう。むろん浅田氏は、それだけではすまない、と知っているのだが、文脈上、ではどうするのか、したいのかは言わないのである。が、そうした振り分けは、頭の中だけでできるのであって、いま私が生きている実践では、混然とする。そこに、暗中模索、真の思考があると私は思うのだが、その混然さを提供できない、ということは、本当はその人が考えていないか、表明するのが怖いのだろう。端から何言われるかもわからんし。私の思想的立場ではなく、考える立場は、東氏に近いものである。

整理すれば、3.11は、なお目覚めていなかった日本大衆には衝撃だったとしても、それは世界を変化させようとした出来事ではなかった。(と原発事故も含めたその災害当初に、私は言っていた。)9.11は、表向きの冷戦構造化で隠されていた、より下部的に動力的な構造――それ自体はソ連の崩壊によって露呈してきた――が在る、という感触を周知にさせるきっかけだった。そしてその後、それが本当だ、世界を、というよりも、資本主義世界を動かしている、表向きの政治以上の、得たいの知れない怪物的な経済的構造があって、それが世界政治や社会の細部までをも振り回してるようだ、と衆目させる構造因的事象が反復された。しかしこの誰もが認めたがらなくてもいつの間にか認めるよう仕立てられてしまう模造的反復の最中で、ささいな、本当に個人心因的かもしれない偏差が導入されてしまったのだ。しかも、あちこちの亀裂として。現在のイスラム国の精神的指導者とされる者も、アルカイダのビン・ラディンのような自発的な首謀者というよりは、イラク戦争時に無暗にひっとらえられて受けた屈辱から、本当のテロリズムに転向していった者たちだとされる。彼(ら)は、仲間(友人)を想う気持ちから、いつのまにかそうなってしまったのかもしれない。杉下右京は、そんな「相棒」に「バカ!」と怒鳴る、叱りつける。しかし構造(体制)を突き破るまでの暴力を育んでしまったのは、この正義の激情=劇場なのだ。右京が管理責任を問われたように、20世紀世界を支配したアメリカ帝国とその追随者たちは、アルカイダやイスラム国のテロリストたちを育てた管理責任を問われるだろうか?

*実際、アルカイダ(杉下右京)は、過激に走る前イスラム国(相棒)をたしなめたので、そこから内ゲバ的な分裂が発生したのだとも言われている。

杉下右京は、「とりあえず」、去った。ということは? つまり、帰ってくるとしたら、その原理主義者の原理性は、どのように帰ってくるのか? そのとき、我々の知性は、その過去の回帰を、構造的に読み解く素材と知恵を持っているだろうか? 私は先のブログで、この混沌を生む偏差を「古代史」とたとえたのかもしれない。その古代の謎を、読み解けるだろうか? 息子の無邪気な言葉を、不気味さを超えて理解する認識作法を、心得ているだろうか? それがない、まだ持てていない、認識力がない、とは、混沌の苦しみをそのままで味わい尽くさねばならない、ということである。マルクスは言っていたはずだ、知性にできることは、生みの苦しみをやわらげることだけである、と。

私は今、自分の息子が、本当にはどのように生まれてくるのか、おびえはじめている。

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