2015年11月2日月曜日

代表戦をめぐって

「……世界では数え切れないほどの戦争が繰り返し起きている。それをいま、私たちはテレビやインターネットを通してどこにいても見ることができる時代に生きているわけだが、こと「日本の戦争」に関しては言えば、70年前にさかのぼることになる。そのため、私たち日本人が「戦争」というテーマで何かしら議論しようとするときには、つい「モノクロ写真の戦争イメージ」をもとに考えてはいないだろうか。…(略)…残念ながら、私たちの生活を豊かにしている最先端技術の活用によって、軍事兵器は想像をはるかに超えるスピードで進化を遂げている。ロボットや無人機など新型兵器の登場により、既存の「戦争のルール」も急速につくり変えられているのである。ニューズウィーク日本版(2013年4月9日号)では、「未来の戦争」と題してその脅威を特集した。主なトピックは、「無人機」と「サイバー攻撃」である。…(略)…私たちが「戦争」のことを語るときも、そのイメージを常に最新版に「アップデート」しておかなくてはならない。」(伊藤剛著『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか ピースコミュニケーションという試み』 光文社新書)

あす、都大会がはじまる。一希の所属する新宿の代表チームも、なんとか第七ブロックで4位にはいって、その出場を果たした。1位、2位は、どちらも地元を超えたクラブチーム。3位は、小中高と一貫のサッカーでは名門の私立小学校のクラブだ。こちらも確かにいくつかの地元クラブから優秀な選手が集まっているとはいえ、時代の流れのなかでは、分が悪いどころか、存在意義さえが危うくなっている。おそらく、日本でも最後の代表形式をもつ少年クラブなのではないか? Jリーグができて、サッカーのレベルの底上げが、小学校単位のクラブから地元をこえた専門スクール系のクラブを中心になされるようになってからは、そこへ代表をおくるクラブチーム数自体が減少してきたのだ。かつては、運動能力の高い子がゴールめがけてドリブルをしかけ、駄目ならパス、その偶然の数珠つなぎのようなやり方でも勝てたものが、いまは能力がそれほどではなくても、低学年より一貫した方針と体系でサッカーを学んだきた者の集団のほうが強くなり、ゆえに運動・身体能力の高い子どもたちがよりいっそうそうしたチームに集まってきて、成績上位はそんなチームが独占することになる。私立小学校のチームが強いのも、もともとが専門クラブと類型的だったからだろう。きくところによると、成績が校内50番以内でないと、サッカーをさしてもらえないそうだ。運動力任せではなく、賢くやるサッカーが日本でも普及してきて、ゆえに、親やコーチの話をよく聞ける優等生チームのほうが成績も上位になっていく。

日本代表でもそうだが、代表チームとは即席的な寄せ集めだ。そこに子供を送るチームは、パパコーチやその出自のチームがほとんどで、おそらく、練習メニュー自体が古い。単純に、ボールタッチ、ボールコントロールを低学年時に習得させるノウハウを確立・保持していない。だからむしろ、運動能力任せの古風な選手たちが集まってくる、といえるかもしれない。そして体系的に教わってきてないとは、思考や態度もエスタブリッシュメント、体制的になっていない、やんちゃなまま選ばれてくる。代表コーチは、そんな6年時にあつまってくる子供たちを短期的にまとめあげていかねばならないのだから大変だ。ボールコントロールの基礎的な練習から、道具の整理整頓などメンタル的なことまで、一から練り上げていくようなものだ。チームとしてのサッカーなど、なかなか機能しない。それでもここまでこれたのは、代表という枠が暗黙に強いてくる結束力のようなもののおかげかもしれない。ゆえに、重圧がすごい。都大会出場を決める決勝リーグ戦など、足がガチガチ、震えていただろう。最低限のノルマが都大会出場と、かつてだったならばまだ通用していたといえる前提を背負わされたまま、挑戦者とわりきってやってきたチームの猛攻を、なんとか0点におさえて引き分け、獲得した出場権だった。予選リーグでは、私が率いたチームが、はじめて新宿代表と0対0のまま後半に突入したチームだったが、そのときも、同じ新宿区のチームに負けるわけにはいかないと、1点をとるまでは相当追いつめられていた。このままあと何分かいけば、あの子たちは折れてしまうのではないか、と対戦コーチの私が心配しはじめた。息子の一希はその日、頭が痛いと、風邪で欠席。朝グランドで、代表コーチにそのことを告げた際のコーチの顔の表情から、「ああ切られたな」とおもった。予選リーグで、相手は代表に4選手を送り込んでいる格下のチームとはいえ、どちらも無敗できて激突する、リーグ優勝をかけた大事な試合だ。そこに、いない、しかも、自分の所属しているチームが相手なのに。一つだけ駒として不足しているとみえる左サイドバックを、それまでは3人で補っているような感じだった。まずは守備のしっかりしている選手からはいり、後半、様子をみながら、ドリブルで駆け上がれる一希か、ミドルパスが持ち味のもう一人か、と見極めながら、選手起用をしていたきらいがあったけど、一希欠場となってからは、その3人一組の線が消えて、フォワードから2人をもってきて、対処するようになった。

もともと一希は、なお一線級の相手チームで通用するような運動能力や脳みそ・メンタルの成長をしていない。私が監督でも、怖くて使えないだろう。だからといって、チーム戦力にはいっていない、ということではないから、いつでも準備しておけよ、とアドバイスしている。「おまえの出番は、2対0で負けていて、残り5分のとき。それを逆転しようとするときだぞ」と。ベンチでは、交代選手に水筒をもっていって声をかけるなど、いい働きをしている。皆からも、ムードメーカーとして信頼された、中心選手の一人なのだ。サッカーの技術的・戦術的な理解力の成長は、続けていけば解決されていくだろう。言われたことを疑問を抱かないまま素直に実行するよりも、自分の頭の力で理解してから進んでゆく、「遅れた者が先にゆく、ようになるんだよ」とも言っている。が、女房がそうはさせないのだった。「能力がないのだから、サッカーなんか選んでいるのがおかしい。立ってるだけなのは、あんたがフォワードやらしてまえに立ってろと言ってたときのクセが抜けないからだ。だからディフェンスができないんだ。あなたのためにサッカーをやっている!」……女房だけではないのだが、おそらく、母親は、自分の腹を痛めて産んできたからだろう、だから我が子に過保護になるのは仕方がない。しかしそのなんでもかんでもな過干渉、癒着を断ち切る文化・制度が機能しなくなっている。フェミニズム的観点を日本に普及させた上野千鶴子氏は、そこにある問題を、江藤淳、あるいは江藤氏が参照引用した小島信夫などで女を排除した「<母ー子>問題として論じてみせたけど、私には、そうした社会学的枠組みよりも、より人間と自然との根源的な関係性が問われているような気がしてならない。もう一度、文化の発生現場にもどって、それがなんで人間に必要であるのか、理解しなおす状況にあると。参照対象として想起するならば、ヘミングウェイ、あるいは、三島由紀夫かもしれない。もちろん、マッチョな志向ではないのだが…。

「夢をあきらめないでください。誰でも、僕のようになれます。」とは、イチローや本田選手とう、プロになった選手がいうことだ。村上龍、北野武など、はこうしたきれいごとは子供に迷惑がかかるだけと批判し、もっと現実をみつめたアドバイスを、と説くが、私は、イチローや本田選手のほうが、科学的事実にもとづいた信念だとおもっている。人間にとって、能力差など、大した差ではないのだ。「自分は、バロテリやカカといった選手の運動・身体能力を超えることはできませんよ、それは絶対的な差ですよ、でも同じ人間なんで、大差ない、自分の他の能力や持ち味で対抗してレギュラーを奪うことはできるんです。」というような発言は、ホッブズが説いた、「人間は狼である」・「万人による万人の闘争」といった、代表選出で政治体制を築けるといった民主主義の基調にある原理認識と同等だ。人間には、羊と狼がいるのではなく、みなが狼なんだ、だから、弱い狼でも、2・3匹でよってたかって強いやつを退治することは可能だ、そんな程度の差だ、だからまた、一匹一匹が他の一匹を妬むことができるような差でもあり、他人との競争が発生するんだ、お互いが疑心暗鬼になって闘争が常に潜在している、それが自然状態であり、ゆえに人間にとって自然は戦争状態なのだ。これを回避するには、自分が自然として持っている妬み闘争する能力を自然権(自由)として捉え返して、多数意見的に合議された体制にその各人の能力=自然権(自由)を譲りわたしたほうがよい……。私がイチローや本田選手のようなプロ選手になれる能力を持つのは事実だが、そこまでその一事をやっていくほど好きではない、闘争をつづけることには疲れてしまう、平和が欲しい、ゆえに、私はその自分の能力をプロ選手として集められた代表制度にあずけて観戦に身を引くので、もうイチローや本田選手を妬むことはない。むしろ、その一事を、闘争を続行している人間として、彼らを尊敬するだろう。

子離れができず、なお我が子と一心同体と勘違いして、子供の競争がそのまま親同士の闘争となって、妬みうずまく自然状態。自意識=他人意識が未熟な子供たちは、実はレギュラーからはずれても、あんまり気にしていず、チームと一体となっている感覚、遊び感覚のほうを楽しんでいたりする。子離れ=親離れ、つまり自立とは、発達した自分の妬み競争能力を、超越的な主体、制度に譲り渡すこと、自身の内部においては、自分をコントロールしえる超越論的な主体、自我をもつことであるだろう。が、もうその必要性が、母親にして感じられない。あるいはその主体が、これまでの目に見えない文化制度、慣習だったものが、ブランド幼稚園から大学まで、就職先までと、目に見える世俗の表象にすがりつくようになっているのだ。その世俗にもまれている父親たちは、そのブランドの体たらくを知っているし、もうどうしょもないともわかっているが、それに代わりうる価値ある文化、制度を知っているわけではない。だから、女房に強い文句もいえず、影で、おやじの会などの飲み会で、ぶつぶつぼやいているだけだ。親子(母子)の癒着が断ち切れないことからくる犯罪が、このところ多くみえるのも、気がかりだ。かといって、代表戦(国家間戦争)も、時代錯誤になって、機能していない。だから、その機能不全の論理構造がそのまま延命して、以下のような、新しい戦争の表象に更新されるのだろうか?

<「自衛隊無人偵察機、南シナ海沖で国籍不明の無人機と交戦」
 ああ、またかと思う。最近では、毎月のように自衛隊と海外軍隊の交戦が報じられる。さすがに数年前、自衛隊が創設以来初の交戦をしたというニュースが流れた時は、日本中が大騒ぎになった。ついに「戦争」が始まった、と。…(略)…だけど、その戦争は人々が恐れた「戦争」とはまるで違うものであることがわかった。はるか南シナ海で、数機の戦闘機が交戦するだけ。結局、宣戦布告も終結宣言もなく、数日で「戦争」は終わった。
 当初、交戦による犠牲者は自衛隊員だと発表されていたが、それは自衛隊が委託した民間軍事会社の社員であることがわかった。彼もまた日本人だったが、自衛隊員ではない民間人を靖国神社に合祀するのかといった議論が一部では盛り上がった。
 それから、時々こういった「交戦」のニュースを聞くようになった。だけどもう誰も「戦争」とは呼ばない。特に最近は無人機の配備が増えて、各国の兵士たちが命を落としたというニュースも聞かない。「交戦」はすっかり、自然現象の一つのようになっていた。…(略)…しかし、僕たちの毎日の生活の何かが変わったわけではない。>(古市憲寿著『誰も戦争を教えられない』 講談社+α文庫)

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