2017年4月6日木曜日

「戦闘」をめぐって(3)――『シン・コジラ』を観る

「こうした大本教が思想的な軸としたミロク信仰については、従来いくつかの研究成果があるが、ミロクが下生する時に、その世界はユートピアとなる。しかし、破壊と混乱の中で救世主を迎えるという期待が民衆の間に薄いのであり、つきつめた「終わりの日」という認識が少ないのである。これは一つに東洋の時間認識によるところが大きい。日本人にとっての時間は、あくまで現在=今が中心であり、現在に向かって未来のイメージがつくられるといった表象でとらえられるのである。キリスト教的終末論に対比される東洋的神学としてのミロク信仰の特徴が、アジアに共有の時間認識から生じたのだとすると、何故そのような認識論が優位を占めるようになったのかを問うて行く必要があるだろう。
 このことと対比して、たとえば現代アメリカの終末論を検討した荒木美智雄は、日本からは想像もできないような、激しい終末的緊張が、アメリカの社会・文化にみなぎっていることを指摘している。」(宮田登著『終末観の民俗学』 弘文堂)

今週末で、ようやく子どもより長い春休みが終わる。やっと休みに慣れてきてこれからだ、という時なので、名残惜しい気もするが、これ以上の休みは、休みというより失業に近いだろう、という気もするのだが、ちょっと昔は、みな職人さんはそうだったはずだ。ただ、それでも意義深く生きていけた共同体がもはや見える形ではあるわけではないので、やはり私にも不安はある。そういう不安が底流するなかで、暇なので、レンタル・ビデオがはじまったという映画『シン・ゴジラ』を借りて来て観た。

面白かったが、前向きな作品ではないな、とおもった。総監督を務めた庵野氏の「エヴァンゲリオン」も引用編集な作品だったというが、この作品も、既存作品・テキストの引用というだけでなく、実際世界の映像の引用、編集で満ちている。避難所での段ボールで仕切られた生活風景や、官邸での動きの有様なども、私たちは近過去を既視・追体験させられるようにできている。リアリズムであると同時にパロディーであり、希望的なスタンスを見せて終わるところで劇画的である。だから、いいのだろう。ゴジラの漢字表記「呉爾羅」をクローズアップさせたり、その退治作戦名で古事記を連想させるところなど(参照WEB「続 島の先々」)、おそらく、形式的には、日本人の民俗的学的な学説をなぞるように意識して文脈づけられているのだろう。が、本当に意識していたら、私はこうした一般受けする劇画調にはなりえないのでは、とおもった。私は、東京の高層ビル・文明都市社会が見事に破壊されていく様を唖然とした痛快さで追いながら、その破壊者ゴジラに新幹線や山手線などが特攻していったときは、なぜかおもわず笑い出し喝采したくなる自分を発見した。電車は無人運転であったとしても、そこに、私たちは自分の魂、神風で散った遠くない先祖を戦後の文明が無駄にしているわけではない日本人としての魂を乗せて、突っっ込んでいった気になってくる。弁解と鎮魂、そんな虚偽で複雑になった苦渋した感情が、ゴジラの足元で大破するのではなく竜のように空を駆け登っていったとき、一瞬、昇華されたような気にもなるのではないだろうか? 私はならなかったが、しかしそれは、その手前で、戦後の電車が竜になったとき、考えがやってきてしまったからである。

この映画を観る前日まで、前回ブログでも引用した、白井氏と内田氏の『日本戦後史論』を読んでいた。そのなかで、白井氏が佐藤建志氏の『震災ゴジラ』での意見、ゴジラの日本破壊は日本人がそれを待望し、破壊欲望をもっているから、というものを賛同紹介したのに内田氏が呼応し、<ゴジラは日本人の罪責感と自己処罰の欲動を形象化したものですね。><反近代・反中央・反都市・反文明というさまざまな「反」がゴジラという形象をまとって近代日本を破壊するために登場してくる。>(――となると、この『シン・ゴジラ』は、近代の日本という特殊的な傍流から生まれたオタク的延長からその近代を肯定してみせる論理をイメージ化してみせた、ということで「シン」、新しい、ということになる。というか、「ハン・ゴジラ」ということだ)――そしてどうも、内田氏は、そんなゴジラ観に内蔵させるように、現総理の「戦後レジームからの脱却」思想を捉えているようなのだ。

<安倍さんの「戦後レジームからの脱却」がある種の人々の暗い情念に点火するのは、その自己破壊衝動に共感している日本人が多いからでしょう。「こんな国、一度壊れてしまえばいいんだ」という自棄的な気分は右左を問わず、多くの日本人に共有されていると感じます。>

私には、この内田氏の発言はよくわからず、眉唾物なのではないかとおもっていたが、なぜか、この『シン・ゴジラ』を見ている自分の心の動きに出くわして、もしかしたら氏の洞察は当たっているのではないか、とわかってしまったのである。シン・ゴジラとは、アベクンだったのか! 私はそれを面白いと見た、そういうふうに、今の政治風景を見ようとしている、ということではないか? 破局を期待しながら……

しかしそれはまだ、「忖度の構造(天皇制の本質)」(白井氏)の内における破局観である。『シン・ゴジラ』でも、最後は、この破局の中から日本は再生してきたのだ、という歴史的教訓からくる希望(観測)に焦点化させるように結末させている。が、今回ブログの冒頭引用での民俗学からの指摘にもあるように、<つきつめた「終わりの日」という認識が少ない>のだ。それはアメリカでの<激しい終末的緊張>とは違う。彼らの政治的脅迫、政治のリアルが、この<終末>から来ているとしたらどうだろう? 破局と終局の違い。私たちは、破壊のあとに再生がありえるとおもいこんでいる、が、彼らは、終わりなのだ。そこには、楽観の入り込む余地はない。この『シン・ゴジラ』は、そうした他者性に直面して描かれたといえるだろうか? アメリカの政治的脅迫を、破局へ向けてのいちエピソードとして挿入・消化してみただけだろう。他者はイメージ化できない。そのできないことをしようとする努力を映画製作の中で試みようとしたら、まともな形式ではできなくなるだろう。もちろん、私はそれをこの映画に求めているということではなくて、この映画から考えさせられてしまった、ということである。

しかし私は、文化が内面化している時間意識の違い、みたいな比較をしているのではない。破局にしろ、終局にしろ、どっちにしても幻想である。アメリカの他者性は、そんなところにあるのではない。そして日本人の他者性、現実も、そんなところにあるのではない。「忖度の構造」が日本人の現実などではない。それは文化という幻想にすぎない。そうではなくて、たとえば、もし、本当に、アベクン(シン・ゴジラ)の破局が映画ではなく、本当に訪れたら、笑ってはいられない、ぞっとする一瞬がある、その一瞬にだけ、私たちは現実を見れるのであって、またすぐ見えなくなるだろう。が、その一瞬を理念的に握持していないかぎり、まともな現実政策など思考しえないのだ。終局に緊張したアメリカの恫喝も、当人にとっては幻想にすぎない。むしろ、私たち日本人のほうが、その現実表象を経験している。アメリカの歴史では、やっと9・11で、ということかもしれない。ビルいくつかの倒壊でヒステリーを起こしているのだから、彼らの政治的リアルに飲まれているほうがばかばかしい。こっちがしてきた経験知からしても、相手にならないだろう。私たちの破局幻想のほうが、ずっと腹がすわっているに違いないのだ。何を恐れるのだ? もうやられてるのだから、またやってみろ、核爆弾落としてみろ、とすでに挿入されている私たちの民俗学的事実をつきつけてみればいいだけの話ではないか?……とこう、すでに私の思考自体にニヒリズムが入っている。それでも、無意識の願望が本当に実現したとき、私はぞっとするだろう。そんな破局願望は、一瞬にして、吹き飛ぶだろう。

が、政治的リアル、というものを考えた時、私たちのニヒリズムは、現実的に有効なのではないか? それを使ってみるということが、真にリアルなものを踏まえた本当の現実政策に近づくのではないか?

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