「五年間日本に駐屯していた米軍は、戦闘部隊としての士気を失っていた。頼みになるのは制空権だが、韓国軍の遁走はとどまるところを知らない。一九五〇年の夏、戦争は重大な局面にはいる。国連軍は釜山の周辺地域に追い込まれ、あわやダンケルクの二の舞になりそうにみえた。マッカーサーは、米韓両軍に釜山を死守するように命令した。
この時である。米国側がある噂を流布しはじめた。この噂は朝鮮で苦戦していた米軍の兵士の間でまことしやかに伝えられていた。これはダレスと国務省の観測気球が火元だったのであろう。
その噂とは日本陸軍の精鋭部隊が応援に駆けつけて、北朝鮮の軍隊をやっつける、というのである。日本国会でも質疑応答があり、韓国大統領李承晩も、これをとりあげた。もし日本軍が投入されたら、韓国軍は北朝鮮と一緒になって、日本軍に抵抗するというのである。」(片岡鉄哉著『さらば吉田茂』 文芸春秋)
ゴールデンウィーク、予定どおりの帰省の前夜に、実家に電話しても誰もでない。まだ夜の8時だが、認知症の父も、統合失調症の兄も、すでに薬を飲んで寝ているのが習慣だ。母が起きているはずだが、でない。「腰痛になったというから、寝込んでるかい? とにかく朝早く帰るからね」と留守電をいれておく。そうしたら案の定、奥の納戸と化したような日本間の、家具の隙間に倒れていたのだった。いったん起きておかゆを作って食べたが、みんなもどしてしまったという。腰よりも、胃が気持ち悪いという。父と兄は、腹が減っていたのか、私の女房が作ってもたせたサバの味噌煮やイクラの煮込みなどのオカズをむしゃむしゃと食べ始める。私は、こんなにも衰弱した母をみるのは初めてだった。乏しくなった長髪をまばらに乱して、苦痛に顔をゆがめてお岩さんのような幽霊表情だったが、哀れという感情に襲われた。小さきものへの労りを、母と感じ捉えることとは、こういう体験なのか、と私は合点したような気になった。日常的に出会わしている兄には、もうそんな感性はないのか? 夫としての父は、もっと複雑になるのかもしれないが、両者とも、もうアパシーという風だった。母はまた寝入ったので、とりあえず午前中は様子をみることにしたと、弟にメールを送る。「祭日の当番医が新聞の地元欄に書いてあるはずだから調べておいて」と返信がくる。老人ホームの夜勤中だそうだが、ほどなくして、家に弟は現れた。「明日からは早番で病院には連れていけなくなるから、今から行くから。脱水症状なったら大事だから、点滴打ってもらうだけでもちがうよ。」と、気の進まない母を起こして、車に乗せた。「お父さんが徘徊するかもしれないから、留守番たのむよ」と私に。「疲労からくるウィールス性の胃腸炎」と昼過ぎにメールが届いた。私が庭の植木を手入れしている間、父は畑に水をやってくると、家の前の道路を50メートルほどいったところにある家庭菜園の所へと、ペットボトルを両手にして出ていっていた。刈り込んだ枝葉の掃除を終えてふと、まだ父が戻っていないと気付いて畑までみにいくと、いない。国道まで出向いて、セブンイレブンで何か買い食いでもしているかと、迎えにいってみると、ちょうどレジで菓子パンを買っている爺さんがいたので、「お父さん!」と声をかけると、ちらとこちらを一瞥しただけで反応が鈍いので変だと思って後追いしてすぐに、人違いだと気づいた。よろよろして顔つきも似ているのだが、あんなにしっかり歩けないなと。家に電話で確認すると、まだ戻っていないと兄は言う。今度は国道とは反対側の、土手沿いの散歩コースを捜してみることにした。こういうふうに、親を捜してあるく家の人たちが、いまいっぱいいるのだな、と、丈の高くなった雑草の濃いグリーンを揺らしてゆくそよ風を気持ちよく眺めながら、私は確認していた。これはやはり、深刻だな、と、あの母の姿を目にしたときにぞっとした認識を、眩しい日の光の中で再確認しながら、そして、自殺を思い詰めていた青春時、よくこの土手から川沿いの林の中をさまよった当時の自分をも思い起こしながら、私自身が認知症の父になってさまよっている気がしてくるのだった。河川敷に設けた菜園まで行ってみようか、まだ父も健康で、幼い息子の一希と一緒に犬の散歩によく行った場所。父がもう行けなくなったから、どうなっているだろう、あの犬のお墓は、まだ草むらに見えるだろうか……「戻って来た」と兄から携帯が入り、私は途中で土手を降りた。……「おまえの旦那は、歩ってるじゃないか」と、地区の班長負担は後回しにしてくれと頼むと、そう言ってくる人もいるんだよ、と少し気分が回復した母は言う。「いまに覚えてろよ」とも。菜園が荒らされたときもある。夜に、庭に保管してあった肥料が盗まれたりした。すでに近所の家庭では、どこもかしこも、認知症の両親を抱えたり、独り身になっていたり、子どもはよりつかなかったり、親が施設に入ったきりだったりしている。それでも、誰もが助け合いみたいにはならないらしい。生活レベルが似ているので、あるいは似ているように見えるレベルなので、疑心暗鬼になるのだろう。落差が見え過ぎるくらいだったら、足の引っ張り合いはしようもないのではないか。
そうしたで下世話な世間から世界をみると、世界情勢もそれに似ている、ことに気づく。その卑俗な世界での現実主義、政治的リアルとは、次のような意識によっているのであろう。
<ましてアメリカは、冷戦時代は戦略的に重要な日本を手放すわけにはいかないから、多少、日本のすることに不満でも大事の前の小事として目をつむっていてくれたが、これからはもう少し気をつける必要があろう。イギリスもスペインの脅威がある間は、オランダが滅びれば次は英国が同じ運命と思って庇ってくれたが、スペインの脅威が去った途端に、過去の同盟義務不履行までむし返してオランダを叩いている。…(略)…「あいつはどうせつき合わないのだから誘わないでおこう」と思われた時こそ、同盟の黄信号灯った時である。それを、「やっとアメリカは日本の平和主義を理解してくれた」とほっとなどしていることこそ、日米同盟の基礎を揺るがし、ひいては現在の平和主義体制自体の墓穴を掘り、軍国主義への道を開いているのである。>(岡崎久彦著『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』 土曜出版)
スペインやアメリカといった落差を感じさせる支配者が失墜して、誰もが揚げ足をとれるようになった。
で、そんな田舎世界で、平和を志向するとは、それをこの著者の元外務官僚にも説得提示できる論理とは、どんなものでありうるのだろう?
0 件のコメント:
コメントを投稿