2018年8月4日土曜日

サッカー界だけがわかっていること(3)――日大アメフト事件(3)

「同じ問題は、今も、福島第一原子力発電所を始めとする日本各地の原子力関連施設や在日米軍基地の周辺にある。原理的に問わねばならない。市民とは何か。
 我々は、労働力を売り、得た給料で様々な商品を買い、それを消費して生活している。それは市民にはあたりまえとしか見えない。しかし、我々は意識してはいないが、この市民生活そのものが「横暴や残虐性」として作用する<そこ>が必ずどこかに存在する。次回以降に詳述する予定だが、マルクスによれば、その暴力を「個々人の意識」から隠し、消し去るからくりは商品交換の内部にある。たしかに、商品は自明で平凡な物としか見えない。しかし、今日、膨大に集積して我々を取り巻いている商品は、大航海時代に血と火の暴力を背景に成立したきわめて奇怪な物象なのだ。今もその流通が維持されているのは、「横暴や残虐性」が<そこ>に展開しているからにほかならない。ブレヒト的に言えば、銀行設立は、それに比べたら銀行強盗さえちゃちなものでしかない巨大な暴力を前提としている。しかし、市民社会では、後者は違法で不当な犯罪、前者は合法的で正当な事業としか見えない。マルクスは、この無意識の中で、この無意識に規定されながら、この無意識が、なぜ、いかに、どのようにして生じるのかを解明した。この無意識ともみ合い、そこに働く暴力を断ち切るために、だ。」(山城むつみ著「連続する問題」第一回『すばる』2018.8月号)

こんどは、アマチュア・ボクシング界から騒ぎが起きている。
サッカー界では、Jリーグ立ち上げ後、清水市をサッカー王国にしていくのに貢献した堀田哲爾氏が失脚させられたりした経緯がある。草創期の混乱を切り開き統括していく押しの強い人格を持った者が、体制の安定化にともない、疎んじられていくパターンだ。
ところが、はや世界では戦後の安定体制など一時として崩れ、そのヘゲモニーを握っていたアメリカもが、三代目坊ちゃんまでいったエスタブリッシュメントな系譜に見切りをつけ、成りあがりの実力者を大統領に選んでいる。日本ではしかし、今なお、ブランド志向、長く見える者に巻かれろで、三代目坊ちゃんにしがみついている。それで、世界を渡っていけるのか? いや世界が、見えているのか? 世界の法、掟、ルールを作っていくものは、それを変え、壊していく者である。優等生的な坊ちゃんで、張り合い、泳いでいけるのだろうか?

さっそく森保氏を代表監督に据えた日本のサッカー協会も、混沌とし始めた世界を見るのが怖いかのように、日本人神話、先のブログの言葉で言えば、「神風」が吹いているとの錯覚にしがみつきはじめたように、私には受け止められた。「日本人らしさ」、と、念仏のように会見では唱えている。まずは、きちんと検証しよう、乾選手が言ったように、日本人は10人のコロンビア・チームにしか勝てなかったのだから。その分析能力がないのならば、それができる人を外ででも探し、呼んでき、盗んでから自分たちのものにすればいいのではないのか? 目を無理やりつむった鎖国、そんな気がしてならない。八百長疑惑で解任されたアギーレは、エジプト代表の監督に就いたという。わたしは悪くないの、と潔癖に閉じこもりたがっているような日本市民は、こうした世界の事態も、自らの頭の中で整理できないだろう。そしてその弱さに暗黙には気づいているがゆえに、ことさらブランドや「神風」にしがみつくのだ。藁にも縋るおもいで。

『砕かれたハリルホジッチ・プラン』という五百藏正容氏の新書(星海社)を読んだ。私にはその妥当性の是非を判断するサッカー領域の知見はないが、私の文学・哲学的な教養センスの文脈上、説得力をもった意見と判断している。
以下、目立ったところを引用する。

     *****     *****     *****

<ハリルホジッチが招聘された理由は、もとより「どこかのエリアだけ」に留まらない多彩なエリア戦略を採れるチームを作り上げること、日本サッカーにそのような戦略的・戦術的多様性と柔軟性をもたらすことでした。その計画を破棄し、「日本人のDNA」「日本人らしいサッカー」「選手たちに制限をかけないサッカー」へと舵が切られた今となっては詮無いことですが、このグループリーグ最終戦は、その意味ではハリルホジッチに率いられた日本代表にとって、またブラジルW杯の蹉跌を乗り越えようと強く意識してきた日本サッカーにとって、まさに現時点での集大成といえる試合となったに違いありません。>

<…「弱いところをあえて晒し、相手を引き付けて痛撃をくらわす」といえば、日本では大阪冬の陣における「真田丸」戦法が思い起こされます。
 最終予選ではUAE戦(アウェイ)、サウジアラビア戦、オーストラリア戦(ホーム)などで見られました。要するに「絶対に勝ちにいく試合」で相手に食いつかせ逆手をとれるよう、弱点をあえて放置していた可能性があるのです。
 CBによるスペース迎撃やその他の方法がW杯本線でも採用可能な程度の質に高められるかどうかがこの「3CHのチェーン切れ問題」を「真田丸」となせるかどうかの鍵だったでしょうが、その答えは永遠に封印され、後には「味方の動いたスペースをカバーできない」日本選手の問題が残りました。ハリルのやり方を踏襲するのか、別の解決策を提案するのか。本線で問われる以上に、今後の日本サッカーの展望にも関わる難題でしょう。>

<ですが、本書で明らかにした通り「日本人らしいサッカー」をやろうがやるまいが、現代サッカーの構造上デュエルは必然として生じますし、戦術的・戦略的な重要性は高まる一方です。1試合ごとに最低でも200のデュエルが発生しているとも言われます。それが現実である以上、「デュエルの必要性を問う」こと自体が、無意味な立論なのではないでしょうか? そういった認識がうまれるほどの議論、コミュニケーションすら存在しなかったことは、ハリルホジッチの仕事にとって致命傷のひとつだったように感ぜられます。>

<本章で検討してきたように、ハリルホジッチのチームをめぐって起きていた「コミュニケーションの問題」は、監督ー選手間に限らず多岐にわたる形、しかも深刻な形で抽出可能です。こういった状況下で、ハリルホジッチが積み上げてきた仕事は結果をもって検証されることもなく放棄されるに至りました。本書は、「日本サッカーにビジョンはあるか?」との副題を備えていますが、率直に言ってここで問われるべき「ビジョン」は「日本人らしいサッカーとは」「世界で勝つには」といった、気高い理想を仮託するようなものではないのではないか、そのような理想を問えるレベルに日本サッカー自体、まだないのではないか、もしくはより低い水準に後退してしまったのではないか、とすら思えます。>


0 件のコメント: