2018年8月10日金曜日

サッカー界だけがわかっていること(4)

「ある東京五輪の関連番組に出演していた瀬古利彦さん(日本陸連マラソン強化プロジェクトリーダー)は、「日本人は外国人ランナーより暑さに強いから、メダルのチャンスがある」と、嬉しそうに語っていたが、その結果、日本人が東京五輪で晴れてメダルを獲得しても、こちらとしては大喜びする気にはなれない。このメダルへの期待感は「これは命に関わる危険な暑さ。運動は避けて下さい」に大きく逆行しているのだ。炎天下でも頑張るのが日本人の姿だと言わんばかりである。どっちに従えばいいのか。…(略)
 天気予報士が深刻そうに伝える天気予報が終わり、画面が甲子園に切り替わるや、一転、炎天下での運動は危険だと言い出しにくいムードに包まれる。「災害級の猛暑」という触れ込みは、記念大会の盛況に水を差しかねない迷惑な要素となっている。嘘臭い世界とはこのことだ。」(杉山茂樹のBLOGマガジン

サッカー評論家の杉山氏は、とくにはサッカー経験者の間では、評判がよくないようだ。システムを論じることから批評活動が注目されたように見受けられるが、ゆえに布陣ではないと、経験者から言われるらしい。私も、ブラジルまでサッカーにトライしたコーチから揶揄されたことがある。しかしそれは、私からいわせれば、形、ということ、その唯物論的な現実の切迫性が、日本では理解されていないからだ。数学的な論理の現実性が、日本人にはなんのことかわかっていない、と言ってもいい。

たとえば、私たちは、カネ、貨幣がなかったら生きられないような社会に住んでいる。近代以前は、別にカネなど持ってなくとも、生きていける社会は厳然としてあった、ということに思いはせれば、むしろ現代の在り方の方が特異なのでは、と疑問になることには誰もが了解いただけるだろう。この当然な疑問を追求したのが、マルクスの『資本論』である。その冒頭章は、「価値形態論」と題されている。私たちがなぜにこんなにもカネに振り回されなくてはならないのか、その社会の形を、微分的に解析してみせたのである。

形式論理と人間、社会との現実性を理解されたい方は、柄谷行人氏の『内省と遡行』や、小室直樹氏の『数学嫌いな人のための数学』などの著作を読むと、抽象的な形と具体的な社会現場との関わりの切実性が了解されてくるかもしれない。なお、若手の森田真生氏の『数学する身体』(新潮社)や、氏が時折文芸誌『新潮』で連載している『「『普遍』の探究」なども、面白い。小学生を教えている私自身は、「サッカーIQテスト」としてまとめ、子供にも配布したことがあるけれど。

とにかくも、冒頭引用の杉山氏の感想は、まっとうなものではないだろうか? 甲子園、協会(組織)自体がやっているから問題視されないが、もし個人(監督・コーチ)が実践していたら、今の基準では「パワハラ」になるだろう。

杉山氏のサッカー界での立ち位置は、まだ文壇がかろうじて生きていた時代の、村上龍氏の立場に似ている、と私は感じる。内輪で自己満足的なお偉い人たちに対する、外からの視点、相対化させる批評行為である。だからそんな村上氏は、中田英寿選手と意気投合した対談をしていた。
杉山氏はゆえに、ロシア・ワールドカップ以降の日本サッカー界の現状を、私のこのブログの言葉で言えば「鎖国」的になっているのではないかと憂慮している。私としてはさらに、西野監督の「スピリッツ」発言から推察し、「神風」に頼り始めている、「オカルト化」しているのでは、と言いたくなるのだが。

<世界的に見て、これほど不自然なスポーツイベントはないはずだ。きわめて日本的な、古典的な匂いさえするこのスポーツ文化と、サッカーは別の道を歩まなければならないが、ジャパンウェイとか、オールジャパンとか、日本人らしいとか、日本人をリスペクトしてくれる云々とか、会長が自己を肯定する台詞を連発する最近の日本サッカー界は、気質がこれに似てきている気がしてならない。>(同上)

そう、「サッカー界だけがわかっていること」があるはずだ。新代表監督の森保氏は、たしかに、「日本人らしさ」を連発した。が、その発言は、どもって、いた。私の推理では、口数少ない森保氏は、言うことがすぐに思い浮かばなかったので、協会の空気を「忖度」し、口パク、したのだ。そうだとしたら、そうやってしまうこと自体が代表監督のメンタリティーとしては致命的だろうが、サッカーのことをわかっているがゆえに、自身の発言をためらい、どもってしまったのだ、と私はおもう。
だから、なおさら、杉山氏の締めの文章を追記せざるをえない。

<外国的のよいところを積極的に取り入れる気質こそが、サッカーのよさなのではないか。旧態依然とした夏の甲子園を見て、改めてそう感じる次第だ。>

サッカー界、頑張れ!

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