「嘉永四年七月には、大蜘蛛百鬼夜行絵の番付けである「化物評判記」が、神田鍛冶町二丁目の太田屋伝吉の板元で発売されたが、手入れ取り上げとなった。…(略)…この化物は以下のようなはんじ物であった。
「実と見へる虚の化物 忠と見せる不忠の化物 善と見へる悪の化もの 倹約と見へる驕奢の化物 金持ちと見へる乏人の化物 貧客と見せる金持ちの化物 利口と見せる馬鹿の化物 としまと見せる娘の化もの 新造と見せる年増の化物 医者と見へる坊主の化物 女房と見せる妾の化もの 革と見せる紙煙草入の化物、親父と見せる息子の化物、米と見せるさつま芋の化物、若く見せる親父の化もの おしゃうと見せる摺子木の化物 冬瓜と見せる白瓜の化物 鉄瓶と見せて土瓶の化物 取と見せて年玉の化物 山谷と見せる色男の化物 ふとんと見せるふんどしの化物 大蛇と見せる麦わらの化物 鴨と見せるあひるの化物 鮒と見せるこんぶ巻きの化物 鰻と見せるあなごの化物 武士と見せる神道者(の)化物 物識と見せる生聞の化物 銀と見へる鉛の化物 血汐と見せる赤綿の化物 佐兵衛と見せる猿の化物 お為ごかしに見せる蕨の化物 不思議に見せる道化の化もの」
この化物の群れは、まさに実と虚とが不明確ないし逆転している幕末の世相をしめしたものであろう。封建社会の倫理・道徳などが音をたてて崩れおちていく状況を活写したものと言うことができる。(『江戸の情報屋 幕末庶民史の側面』吉原健一郎著 日本放送出版協会)
「原子爆弾のきのこ雲みたいだね。」と高1の息子が言い、「おっ、それいいね。」と私が反応すると、「どうせそれをイメージしているんでしょ。」と付け足してくる。ずいぶん覚めているんだなあ、と思ったが口にださず、私はNHKで深夜に放映されているアニメ『進撃の巨人』の録画を見続けながら、息子の指摘から考えた。あの超巨大巨人が爆風とともに出現するとき、前期の描写では、そんなイメージは引用されていなかったはずだ、このイメージには意図がないのか? それとも製作者側に変化があったのか? 後期続編が放映されはじめて、王国の偽物の王様だの真のお姫様だの、という話になってきて興ざめていたところに、原爆というリアルな表象が提示されてきたので、再び注目しはじめる感じになる。そして次回では、死を覚悟・前提した作戦で巨人の群れに騎馬隊が突撃していく。野球のピッチャー・モーションで岩を投げつけてその隊列を残滅させる獣の巨人は、「特攻か、あいかわらずそんな発想しているからおまえらダメなんだ!」と、とどめの一撃を投げつける。となれば、あきらかにこの構図は、アメリカ(原爆=巨人兵器)と「海」をあこがれる「壁」の中の人類の一部(島国日本)の日本現代史をなぞっている。「特攻に意味などない。しかし戦死者に意味をもたせるのは、今生きている俺たちの行動だ」と新米兵士たちを鼓舞する隊長は、しかし、特攻の裏で勝てる秘策を冷徹に敢行していたという現実政策があった、というところに、昭和史とこのアニメ場面での相違が新しさとしてある、提示されている、と言える。しかしならば、それは「エヴァンゲリオン」の作者が「シンゴジラ」で提示した方向性と類比的になる。ロボット系列から巨人生体操作という「エヴァンゲリオン」へのアニメ系譜と、オタク系の弱い意志の男の子と強気な女の子、という設定の踏襲(引用)だけでなく、オタクたちがリアル・ポリティクスな活躍をみせるというシンゴジラでの活劇的転換の思想性をも共有していることになる、これまでのところは。
ところで、そうやってNHKを見ている私たち一家は、受信料を払っていない。私が結婚する30歳半ばまでテレビをもっていなかった延長、ということもあるが、女房もNHK側が催促に来ても「帰ってください」の一点張りか居留守を使って拒否している。私も一度戸を開けて対応したが、その際は相手の話をきいてから、「考え中なんです」と返答したら、「ああそうですか、わかりました。」と引き下がっていった。
しかし、「進撃の巨人」の展開が気になる。
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