2019年12月2日月曜日

”フェイク”と”フォニイ”

「最後にもう一度、“フォニイ”という言葉の意味を確認しておきたい。私はどの場合にも、ヴァン・ルーの文例の、
≪内に燃えさかる真の火を持たぬまま文を書き詩を作る人間は、……つねにフォニイであろう≫
という意味において、“フォニイ”といったのである。」(江藤淳著『リアリズムの源流』河出書房新社)

今年の流行語大賞の候補にはなってはいないようだが、トランプが大統領になって、ポスト・トゥールース時代とか呼ばれはじめ、“フェイク”、という言葉が接頭語のように使用されるようになった。その言葉で問題とされているのは、その反対語の“ファクト”、ということなのだろうが、宮台真司氏によると、それはあまりに個人化された時代になって、事実の共有という前提自体が崩れてしまったから、という事になる。ということは、事実(ファクト)といえど、それは共同的な幻想、集団的な解釈だ、というニーチェを系譜に持つような教養が前提とされている、ということだ。私もその教養を共有している。だから、たとえば殺人(戦争)と歯磨き(日常)という事態があっても、前者は「事実」として記憶化されていくが、後者は取るに足りないものとして、記憶から、歴史から問題とされない。が、何を事実とするかもが個人化されていくとは、歯磨きもがその人にとっては「事実」として、歴史として認定されていくということであって、つまりは、殺人と歯磨きが同等な出来事になる、ということだ。この事態は、歯磨きという日常的になったものの歴史性を問うというような、ニーチェの系譜学を受けたフーコーのような分析在り方の普及版、ともいえる。そんな時代の中では、自分の隣にミサイルが落ちても、他人事のようにスマホをとりだして、なま映像としてYouTubeなどに流していられるような分裂した態度をうむ。分裂、というのは、より広い状態の中では身体実際としてそんなことはあり得ず(本物のスキゾは別になるか…)、ゆえにそのあり得ないことを当人もが意識せざるを得ず、ゆえにまた、炎が身近にせまってきたら撮影など不可能になって逃げるだろうし、あるいはそのまま、本当に焼け死んでしまった人もでてくる、ということだ。実際、3.11の津波現場で、そうやって逃げ遅れてしまった人を想定してもおかしくないだろう。撮影という個人的な日常行為と、戦争という集団的な行動との価値ヒエラルキーが同列に意識されるようになっているので、どちらをとるか、どんな何を他人と共有したい「事実」と認定したいのか、その価値判断が人それぞれに任せられているような事態=時代になっている、ということだ。

しかし、平成元年に出版された江藤淳の『リアリズムの源流』(河出書房新社)を読むと、少なくとも当時は、なおそんな意識はなかった、あるいは希薄だった、というように見える。江藤の時代にあって、流行語としてあったのは、“フェイク”、ではなく、“フォニイ”だったらしいからだ。

<形容詞“フォニイ”の語釈を見ると、“marked by empty pretention: FALSE, SPURIOUS”とある。すなわち、”空っぽでみせかけだけの。インチキの、もっともらしい“である。
 つづいて名詞“フォニイ”の項を見ると、“one that is fraudulent or spurious: FAKE, SHAM”と記されている。”いかさまでもっともらしい人あるいはもの。ごまかし、にせもの“という意味としてよかろう。因みにこの項には、次のような文例があげられている。
〈he who writes or composes without the true inner fire……will always be a phony.――H・W. Van Loon…(略)…
形容詞、名詞、動詞を通じて、“phony”の同義語は、ウェブスターでは“counterfeit”とされている。反義語は、少なくとも形容詞“フォニイ”についていえば、“リアル”である。この文例はウェブスターには出ていないが、本年一月二十一日号の「タイム」に、
〈ENERGY CRUNCH: REAL OR PHONY ?(エネルギー騒ぎ、リアルかフォニイか?)〉
という表紙刷込みの特集見出しが出ていたのが、恰好のものといえよう。>(「“フォニイ”考」)

トランプは、人為的な地球環境破壊の話は“フェイク”だとしているのだろうが、平成元年当時では、“フォニイ”という言葉が使用されていた。
しかし江藤は、この言葉を、当時の文学界に向けて、まずは言葉を扱う作家や研究者に対して言ったのである。

<…断っておくが、『リアリズムの源流』という論文で私が跡づけようとしたのは、日本の近代リアリズム小説の過程で果した写生文の役割についてである。「子規と虚子の方法と主張」とは、当然リアリズムの「方法と主張」である。…(略)…子規のいわゆる「新機軸」「新趣向」は、いうまでもなくリアリズムの機軸、趣向である。それはものに直接推参しようとしたことにおいて新鮮だったのであり、単に新しさのための新しさを求めたために新鮮に感じられたのではない。この「新機軸」「新趣向」から生れた写生文のリアリズムが、幾多の「新奇」のみを追い求めた言文一致運動のなかで生きのこり、定着し得たのは、とりもなおさずこのものへの推参の意欲のためである。いいかえれば、“フォニイ”でなかったからこそ、虚子・碧梧の「新機軸」は「無学」な批判に抗して発展し得たのである。…(略)…私の“フォニイ”批判は、“フォニイ”に対する「感覚的・自覚的(無自覚ではなく)な嫌悪の表現である。「感覚的・自覚的」に嫌悪を表現するとき、批評家は論理を用いる。こんなことは批評のイロハであって、このことに対する「非難は寧ろ自己の無学より起る」のである。文学研究家や外国文学者が、論理と感覚を分離して論じようとするのは、彼らの感受性の欠陥を露呈している。そして、批評家が「感覚的・自覚的」に嫌悪を表現しようとするとき、彼は「安定」を志向するどころか、つねにもっとも“critical”な位置に身を投じている。逆にいえば、そういう人間だけが批評を書くに値し、そういう人間の批評にだけ「真の火」があるのである。>

上のような物言いは、私にはラカンを思わせる。

<この「fictious」という用語は錯覚的(illusoire)という意味ではありませんし、またそれ自体では騙すという意味もありません。この用語を、フランス語の「虚構のfictif」という用語に置き換えることはけっしてできません。…(略)…それは、以前申し上げたように、あらゆる真理はフィクションの構造を持っている、という意味においてです。…(略)…そして、まさしくフィクションと現実とのこの対置のなかに、フロイトの経験のシーソー運動が置かれることになります。>(ジャック・ラカン著『精神分析の倫理 上』小出浩ほか訳 岩波書店)

江藤が目指しているのは、「事実」ではなく、「真実」だといえる。個人や人を本当に動かしている内的な構造であり、それに従わざるを得ないながらもその核となるその人固有の秘められた出来事、その衝迫性である。
河中郁男氏はその中上論で、そんな「真実」にはとどまらない作家の「事実」への居直りを、評価したのだった。「真実」を問わず「事実」のみを受け入れるとは、「事実」を相手にしない、ということだが、つまり、殺人も日常的な大した事ではないと過ごしていく、過ごしていくようになる資本主義の現実を肯定するところからやり直しはじめた、それが中上だ、ということだ。
私には、この評価はまだ出来ていない。先週あがったVideonewscomでの宮台氏の時代評と映画評を鑑みれば、中上の秋幸が「ジョーカー」のような存在になった、ということになろうか。
私は、「真実」の側、江藤が見据えた現実、リアルを手放したくないと考えている。が、それもがもはや、共有的な教養でも事実でもなく、私たちは、本当に、個人個人のバラバラな集合、何かの折には何らかの他の集合と重なって、共有項が発生する場合もあります、というような時代に、埋没させられていくだけなのだろうか? 

今日は雨で仕事中止になったので、これから、女房と映画「ジョーカー」を見に行く予定。

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