2021年7月4日日曜日

『NAM総括』(吉永剛志著 航思社)を読む(2)

 


「総括」という漢字をみると、どうしても内向的に過激化していった左翼組織の生々しい現実(内ゲバ、リンチ)を連想してしまう。私が、NAMに入会したとき、日大の体育会系を卒業している弟は、「それはアルカイダみたいなものかい?」と、聞いてきている。私たち1970年前後に生まれた世代では、もうそんな経験に触れることはないはずなのだが、世間的なイメージとして、ノンポリであることが当たり前になったような学生の間でも、なおネガティブな記憶の歴史が付きまとっていたのだろう。NAM内のメールで、これに参加したからといって公安ににらまれることなんかないのだと柄谷は発言していたとおもうが、田中さんは、公安スパイがすでに潜入してメールを監視しているのは当たり前だよ、とも言っていた。そうした現実権力との切迫性が、どれくらい実際にあったのかは知らないが、NAM解散後20年近くの人生がすぎて、もう左だからといって怖い、危ない、というイメージはなくなっているような変化があったと感じている。もしかしてなのだが、そこには、3.11の災害が引き続いているなか、ほとんどの普通の企業のテレビコマーシャルが自粛で中止を判断していったなかで、生活クラブの虹色のコマーシャルが目立って流布されていたことと関係しているのかもしれない。以後、左翼とはいわず、リベラルという、より範囲のひろい曖昧な中立用語に置き換えられて世俗化していっているように感じている。

 

しかし野球馬鹿であった私は、運動部活動の体験から、内ゲバやリンチに連なる人間関係の生態を理解していく素地を抱え込んでいた。早稲田の二文にいってつづいた夜の読書のなかで、柄谷のマクベス論を読んだときも、だからすぐに、この論考が、幼い頃テレビでなんの気もなくみていて雰囲気の暗い記憶として無意識に刻まれた浅間山荘事件へとつらなる、あるいはその後も海外でのテロ活動の新聞記事の見出しをみることもなくみて感受していくことになったであろう、いわゆる左翼組織での人間関係が引き起こした現実への解析なんだな、とすぐに理解がおよんだ。同時に、私の受容は、部活での暴力沙汰からの連想できているので、それは左翼と呼ばれる組織をこえた、人間一般の現実としても、理解された。ゆえに、他人事にはなりえない、切迫した認識を言語化してくれたものとして、その柄谷の文芸批評は衝撃だったのである。

 

この著作でも言及されているように、NAM批判を率先した鎌田哲哉は、「彼らが今回人殺しをしなかったこと自体、ただの偶然でしかない。」と発言している。そのようなことを言っているということは、私も伝聞的に知っていたが、そこまで行ってはいないだろう、そんなたまがいたのか、行き過ぎた見方だな、と思っていた。が、今回、吉永さんの著作を読み、蛭田さんから借りた『ゲンロン11』での特集などを読み、もしかしたら、それはありうる可能性だったのではないか、と思い返した。おそらく、鎌田が想定し、私が思い浮かべているNAM会員たちとは、私と同世代的な、当時若かった者たちのことである。私は柄谷の『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社)は、読む気がおきないので読んでいないが、記事でみかけた書評によると、結局は左翼運動にかかわっていた人たちが古い考えのままだったのが解散の一原因、と発言しているのをみかけた。いわば、旧ブント系の人たちの年寄り世代のことなのだろう。吉永さんの著作の中では、もう少し若い、全共闘世代での、中核派や革マル派に関わって、暴力関与の前歴のある人たちのことにも言及されている。私自身は、そんなことは全く知らず、感知せず人と接していた。解散後だいぶたって、高瀬さんも、そうした前歴があってあやしい人なんだときいている。私はそんな高瀬さんに、大前研一を引用してフィリピンのことを話したりしていたのである。蛭田さんもそうだ。Qをめぐる最後の会合で、おそらく自身が深く関与したQ擁護の発言をもらしたのであろう、すると柄谷から、「おまえはマルクスを侮辱する気なのか!」とののしられたそうで、以後、左翼の奴らは品がない、すぐに断言すると「切断」しはじめたが、今でも過激な性格のままである。が、私が思い返したのは、私たち若い世代、左翼組織での経験があったとしても、まだ大人しいとされるだろう者たちのことだ。しかし、最後は、金が関わってきた。もし、Qを続けていたら、それは円と連動しているので、具体的な借金として存在してくることになる。Q退会のとき、実際に、会員の多くは、赤字額を円建てで返却しもしたはずだ。私も、事なかれ主義で、数百円だか送金した覚えがある。金がかかわってくれば、人は追い込まれ、追い込んでいく関係に入りやすい。よくある世俗の現実が、私たち若い世代の間でも、発生してきておかしくはなかっただろう。私には、そう思えてきたのである。

 

東浩紀の『ゲンロン11』の特集に、浅間山荘事件につらなる連合赤軍のことを描いた漫画家との対談がある。その『レッド』の作者の山本直樹は、自身の部活動での感覚が描写に反映されていると前置きしているが、この革命組織での運動も、前半は、楽しかった、と回想され、後半、陰惨になる、と指摘している。NAMはある意味、前半の楽しいところがおわって、後半をむかえずにして解散にいたった、との見立ても可能なのかもしれないのだ。

 

が、私が『ゲンロン11』から導入したいのは、以上のような文脈ではなく、暴力へと収れんしていった組織を把握するのに、山本氏との対談への前段階として、座談会『革命から「ラムちゃん」へ』とタイトルされたものがあるように、女性性をめぐる、座談会の言葉では、「ジェンダー」をめぐる文脈が浮上してくる、ということである。

 

私は、先のブログ(1)で、ジャーナリズムを生きる著名人柄谷の被害妄想かと疑う伏線があった、と述べた。私が「スターリン主義者」として評議会で断罪されるまえ、ある一件で、たしか規約委員会上でか、裁判みたいなものがあった。それは、柄谷にかわる新代表を決めることに、強硬に反対意見を述べた、ある女性をめぐるものだった。吉永さんの著作の中でも言及されている飛騨さんの文章のなかで、NAM形成期に活躍した「七人」のうちの一人、「女性ダンサーのY」として出てくる女性である。解散まえは、地域系東京の新しい事務局の会計を担当することになっていた。いまは、私の女房である。彼女・山田は、とにかく柄谷が代表でいつづけるべきだ、と意見していた。その事態を柄谷がとりあげて、こういう私へのおっかけみたいのがいて私は困る、「こんな女には、徹底的に冷淡にすべきだ。」とメールやりとりされたのである。オブザーバーとしてメールを覗いていた私は、一連のその評議員の間でなされた魔女狩り裁判のようなさまをみて、気味が悪くなった。それなりに長いやりとりになっていて、王寺さんが、もうこういうのはやめようと、介入して打ち切ったのだ。私が柄谷のメールにすぐに陳謝して黙ったのは、危うきには近寄らず、という本能のようなものである。この件で、事務局で一緒にやっていた建築系の有銘さんと、「通るわけがない話なんだから無視していればいいのに、なんでわざわざとりあげるのかね」とうなずき合ったものだ。言葉にはでなかったとおもうが、病気なんではないか、と二人は認識していたとおもう。

 

しかしその件を私が考えさせられたのは、彼女と結婚してからである。そして、東らの座談会でまず引用されてくる大塚英志の『「彼女」たちの連合赤軍』を読んだのも解散後で、それが、この件を左翼組織文脈で解明させていく手引きになると理解したのだ。『テロリストになる代わりに』とタイトルをうたったダンスも創作する彼女は、「かわいい」となにかといい、「ラムちゃん」が好きだった。そしてとにかく、「うるせえやつ」だった。ダンスの講演前のグループ演習でも、「この女をだまらせろ!」と演出家がどなっているのを見たことがある。私は大塚の永田洋子の記述を読んで、私よりひとまわり年上の山田のことを考えた。「遅れてきた永田洋子」、という比喩が私には浮かんでいたが、リンチにいたる方とされる方が、同居している。たぶん彼女自身、それをなんとなく自己意識化している。組織というよりも、人間関係のなかで、男女関係のなかで、そして二人の間で生まれてきた息子との家族関係の中で、そのことが実際的・実践的にどう機能してき、どう論理構造的な帰結を予感させ、意味としてはなにが生成してくるのか、というようなことを考え、考えさせられてきた。大塚は「かわいい」という視差を抽出してきたにとどまって、結局は「女性をアイドルのように見ている」と『ゲンロン』では批判されているが、私には、柄谷にうかがえた左翼的なるものの感覚を、大塚の著作は考えさせてき、NAM解散後の家族関係が、観察思考させてきたのである(私自身が、夫婦喧嘩のさなか、なんど「こんな女には徹底的に冷淡にすべきだあ!」とわめいたことか)。そして今回『ゲンロン11』での特集にふれて、「ラムちゃん」がでてきて、なおさら合点がすすんだ。自分の言葉で要約できるまでには咀嚼されていないので、目だったところをピックアップする。

 

 永田は、ひらたく言えば「生き方が不器用なひと」です。それはさきほども述べたとおり、一周まわってかわいいと言えなくもない。けれど、それはポストモダンな消費社会を肯定するような大塚的な「かわいい」感性とは真逆のもので、むしろすごく生真面目で一生懸命なものです。>

 

 一九八二年の永田の一審判決では、その判決文に「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」という有名な文章があって、それにフェミニストから抗議が殺到するということがありました。そういうなかで『ビューティフル・ドリーマー』が作られた。

大井 ラムは、あくまで押井が解釈した永田洋子ということですね。

 そうです。そしてここで指摘しておきたいのは、その解釈が、まさに当時ミソジニーとして批判されていた判決をなぞるものになっているということです。それは押井さんの限界を示している。今日はむしろ批判してきましたが、大塚さんの『「彼女たち」の連合赤軍』は、まさにそのようなミソジニーをひっくり返すために書かれたものでもあった。

さわやか 押井が考えるラム=永田は、無意識で女性同志に嫉妬し粛清する人物でしかなかった。でもほんとうのラムはちがうわけでしょう。>

 

山本 だからただの鬼ババじゃないんですね。そもそも永田さんも、ほんとうは、どこの会社にもいるような、ふつうのちょっと困ったひとだったと思います。元連合赤軍で、途中で山岳ベースから脱走した前澤虎義さんが言っていましたが、永田洋子は保険の外交員とかやらせたらすごく成功したんじゃないかと。押しが強くてまじめ。けれど茶目っ気がある。そして何よりも説得に熱心。>

 

さわやか 永田は革命を楽しめなかった。性の不和を抱えていたから。

 けれどもその不和こそがいまふりかえるとアクチュアルです。『レッド』はその視点を入れたことで連合赤軍事件を現状のものとして蘇らせている。大塚は永田を「かわいい」少女として対象化した。それに対して、山本さんは永田を「#MeToo」の主体にように描いている。>

 

ちなみに、山田は、NAM解散にいたるドタバタのなかで、経理をしていたであろう会社をやめ失業し、保険のおばさんになろうとしたがだめだった。その能力というより、まずは資本主義がどうのこうのと営業には余分な知識があるので経営側と対立してしまうこと、そして通産官僚系の家族からも切れていたようなものだから、初手のツテがなくなっていたからだ、と言った方が当てはまるな、とおもう。その彼女が生活的に行き詰まり、不安定な状態の頃のことを、倉数さんらは見知っていたはずだ。当時東中野の長屋のような私のアパートで、会員の幾人かと雑魚寝して宿泊したことがあったと記憶する。京都から、やはり生活に行き詰まった渡部さんが私のところで居候していたのもその頃だ。渡部さんは、私と彼女が結婚することになったと知って、他のアパートに移ることになって、私と彼女が手伝ったのである。

 

しかし私は、ここで彼女だけの事柄をとりあげてみているのではない。そもそも、NAMには女性会員自体が少なかったわけだが、そうしたジェンダー的視点をいち早く指摘していたのが岡崎さんだった。「男ばかりだよね。だめだよこれは」と発言したのは、芸術系の会合でも、最初期だったろう。根底的なところで、「かわいい」とのぞきこむ、いわばミーハー的なおっかけに連なっていくような異質性を、あらかじめ排除していくことで成立していたということだろう。そしてそのことは、柄谷本人にあっては、確信的なことだったのかもしれない。たしかYouTube上で、小森洋一をインタビュアーとしたNHKでの昔の番組がアップされていて、そこで、運動では同性愛的な同志になるのが不可避になるものなのだ、というようなことを発言している。

 

が、運動の実際の中では、やはり女性会員がいたのである。だから、ちがった線は描かれていたのだ。山田は大学を出ておらず、文を綴るのがへたくそなのでメールはあまり書かず、具体的な顔のみえる人間関係で「うるせえやつ」だったが、NAM組織が当初めざしたヴァーチャルな現実性の中で、際立って活躍したうるせえ「アイドル」がいたことを、多くの会員は思い出せるはずだ。「りえりん」こと北村さんだ。近畿大学の大学院生だったはずで、私は事務ひきつぎに京都の南無庵にいったさい、「おまえ、コピペも知らずに事務員になろうとしているのか!」とあきれられたのを覚えている。『NAM総括』にも名前が出てくるが、京都の事務局には、他にも二人の女性が引き受けていた。もしかして、左翼組織運動的な関わりでの参加は目立っていなかっただけで、経済的な、協同組合的な運動の関わりでは、それなりにいたのかもしれない。「わっ、植木屋さんみたいな階層の人と接するのは、わたしはじめてなの」とおっしゃったNAM会員のお嬢様も、東京のメンバーのなかにはいたのである。そもそも、田中さんとペアなように活動していた阿部さんがそうだ。この年代の活動家をどう女性たちが支えてきたか、たしか数年前にか研究書も出たはずで、その新聞書評されたであろう何かを読んで、不思議な存在にみえた阿部さんの輪郭がほのみえてきたような気がした。

 

いくら複数の系を作って交差させても、それが同質的な系であったら、本来の意味はなくなるのではないか。私は、第三世界系の関心系にも参加して、夜勤のバイトで知り合った南米からの出稼ぎ労働者としての友人たちの間から、日本語を教えてほしいとの声があったりしたので、大和田さんらと勉強会を開いたりしてもいた。本著作で、Qイヴェントでの出店の表に、「在日ペルー人手製のケーキ」出品者として菅原の名前として私は出てくるが(恥ずかしいことに、自著販売との記入もある)、彼らは、日本の経済的縮小とともに、故国へもどっていった。私には、一般的な活動として運動をつづけていくまでの動機や人生がない。あくまで、友人・知人との関わりの延長での支援活動であった。アパートの保証人も、多いときは5件ぐらい引き受け、歌舞伎町のディスコ・レストランを開いた日系ペルーの友人から頼まれて、その連帯保証人にもなっていた。日系でも仕事がなくなってビザがなおりないという友人からたのまれて、入管を説得する文章を書いて提出し、身元保証人になって無事発給になった件もある。彼らが国へかえるさい、これにはいってくれと言われるままにはいったフェイスブック上で、いまも関係はつづいている。がよほどのきっかけがないと、個的な関係を超えて運動を継続していくのは困難だ。しかしだからといって、日本でむごい目にあう外国人の問題への関心がなくなるわけではない。一般的な活動は潜在していっても、それを呼びおこすかもしれない個的な文脈がくすぶっている。その固有的なものが、異質な線として重ね合わさって、系の実質的な複雑さが実現できるのではなかろうか。指針や教訓として、あらかじめ活動(家)を目指したような運動の必要性と有効性がなくなることはなく、なくなってもいけないと私は思うが、それが中心になろうとするとは、同質的な一般性の系=組織でしかなく、人の生が、営みが、持続可能になるとは私は思わない。活動が仕事になってしまえばなおさら、生き生きしてこれないので、メンタル(脳精神)が退廃してくるだろう。自分の固有文脈を手離せないぶきっちょなものは、持続しかない、反復しかない。解散など、成立しない。

 

吉永さんの「総括」がメインストーリーを描いた概括だとしたら、私が付記したものは、「外伝」みたいな逸話になるのかもしれない。が私としては、忘却されてはならない微細かもしれぬが異質な線である。大きな物語に回収されず、またされてはならないようなもう一つの現にあった話である。がそれは、可能的だったものとして、潜在させられていってしまう世界や歴史のことなのかもしれない。

 

こう記すと、『ゲンロン11』での、東の「原発事故と中動態の記憶」という、柄谷の『探究Ⅰ・Ⅱ』の変異のような論点と重なってき、『NAM総括』での、唯一というべき吉永さんと柄谷・浅田らを分ける「科学」という営みの受容理解のあり方ともかかわってくるのだが、それは、直接的にはNAMとは関係ないので、違うブログ・タイトル(たぶん、「中動態と量子論」)でメモすることになるだろう。また、現在、遺伝子操作ワクチンをめぐる「科学」への疑義を提起した文をふくむ電子出版を、NAM会員でもあった安里ミゲルさんや鈴木健太郎さんらと作成中でもあるのだが、3人でことを成そうとするだけでも大変である。みな過激な病人であるがゆえに、であるとおもう。

0 件のコメント: