2022年12月17日土曜日

引用;秋山清著『昼夜なく アナキスト詩人の青春』(筑摩書房 1986年)

 


『昼夜なく アナキスト詩人の青春』より「下落合、上高田」

 

<ことのついでに、その頃親しみを持っていた乞食村の人々のことを、ここで少し語ってみよう。ちょうどいい機会だし、彼らについて何かを語る人は、めったにあるまいから。

 上落合の火葬場に近い、北向きの崖の中途に彼らの集団があった。

 私が山羊と共に住んでいたのは、東洋ファイバーKKという堅紙工場と墓地との間の五百坪の空地、そこを所有しているのは万昌院という寺で、吉良上野介や大岡越前などの墓があり、賤ヶ岳の七本槍の一人糟谷裕典や水野重(十)郎佐衛門や歌川豊国などの墓石もあった。友だちが遊びに来ると、よく垣根を越えてそこに案内したものだった。その墓地の向うで、北側が急な崖になってるあたり、小径の両側に沿って小さい家が十六、七軒あった。

 毎日のように夕方から出て歩く私は、自転車でない日は、墓地裏の彼らの住宅の中を通って崖の上に出ることにしていた。夜もそこを通る人は全くなかったが、私は上り下りするので、いつしか顔なじみになり、その中央のあたりに据えられた木の風呂に「まだ誰もはいってはいないから」といってよく誘われた。けぎらいしたのではなかったが、こっちは元気な身体、彼らの仲間は故障の人が多く気の毒で、一番風呂を誘われても、とうとう行かなかった。

 ついでに言えば、ここの人々は落合の火葬場の乞食権(そんな言葉があるかないか)を自分たちのモノにして、そこの入口の左右に女や子どもが毎日並んで、出る人、入る人に、例の「戴かせてやって下さいまーし」と連呼していた。私など多少の顔見知りが通っても、まるで見知らぬ人のようにしていた。これもついでに言って置けば、有楽町や当時はまだ在った数寄屋橋の袂や銀座通のデパートの松屋の前にも彼らは出ばっていたが、目が合ったとてけっして知っている人らしくは振舞わなかった。さすがという他はない。集落の下まで松葉杖をついてヨタヨタ来た男が、崖のすぐ下から、いきなりそれを肩にかついでさっと上へ行くことなどにも、いつの間にか驚かなくなった。つづめていえば、仲よしになったということであろう。さすがにその集落には電灯はついていなかった。

 夜更けてその道を上ってゆくと、小屋同士大きい声で、話していたこともあった。

 私の「山羊飼育」は一九三四年(昭和九)の三月から三年間に及んだが、思い出して語るとなれば、自分だけの記憶に於て数かずのことが温存されている。総じて苦しいこと楽しいことで一ぱいだ。中でもこの集落の連中とのその奇妙な往来は、語ればきりがない。わが家に届け物に来る十六、七の近所の米屋の小僧さんがいた。曰く、「あの集落の連中は皆特等か一等米です。二等なんか届けたら叱られますよ。金持ちですからね」

 一寸しゃれた話だ。その乞食さんたちに米代を借りに行ったこともあったのだから、ぼくにもなかなかしゃれたところがある。夜になってから集落の中の小径を行き帰りしても、文句を言われなかったのだから。小屋の中から「乳屋の兄さんネ」といわれて「そうだよ」といって通った。

 その集落に大きなバクチが立つという話も時々きいたが、これがそうなのか、ということにはたった一度だけ出遭ったと思う。

 北は立木のある崖でその下は「バッケの原」という湿地、西は私の家と五百坪ほどの畑と山羊の場所、その次が墓地、その東が彼ら一党の巣。ある日、外から自分の家の木戸をはいろうとすると、集落の者がいそいで来て何やらいった、と「すみません」と崖の上に行ってしまった。墓地の中にも、僕の家との境にも、彼らの小屋のまわりにも、見かけぬ者どもがいて、人を寄せつけまいとしていた。

 日暮れが近くなって、東中野駅へゆく途中の、早稲田通りの交番の巡査が来て、「今日、何か気がつかなかったか」といった。そして、「今日大きなバクチがあったそうだ」といった。

 たまにそういうことがあるというのである。その時は、集落を中心として四方八方に、そして遠く見張りが立つ。やがてその見張りはいなくなるという。事の真偽はともかく、私は一度だけそんな経験をした。

 山羊をやめて近くに引っ越したのは一九三七年(昭和十二)の夏のはじめだった。私は詩をかくことがあり、乞食村、火葬場、バッケの原(これらは落合、上高田にわたり、その中心に当たるところに彼らの集落がある、ともいえる)、そして上高田をよく歩き、このあたりを(風景詩という意味ではなく)詩にかいてやろうという気になった。ある日、火葬場に座っている女と子どもたちを描いてから、そう思いたった。そのあたりの眺めとともに、そこに居る人間たちの少しちがった風景を、と思い立ったのである。

 

 門の両側にすわって

 年よった女 膝から下のない男 子供。

 みんな汚れてくろい顔だ。

 あごひげを垂らしたのもいる。

 雨が南風にあおられてパラパラ落ち

 煙突から煙が突きおとされるように散っている。

 電気ガマのモーターがごうごうと渦まく。

 門のなかは玉砂利の広場に自動車が充満し

 控所は紋つきの女やフロックや羽織袴や。

 東京市淀橋区上落合二丁目落合火葬場。

 出入する自動車目がけて

 彼らはうたうように呼びかける。

 ――供養にいただかせてやって下さいまーし。

 自動車が通りすぎると 私語し ほがらかにわらい

 口汚く子どもをののしり

 菓子をほおばる。

 型のごとき蓬頭襤褸のなかに

 炯々とひかる目をもち

 たくましく健康でさえある。

早春(一九三六年>

…(略)…

<いい忘れたが、数軒の寺、火葬場、豚飼いの屋敷跡、私のいた崖の外れの山羊小屋、それにこの諸君を加えて、何か歴史の時代にふさわしいハナシが書き残されそうな気さえする。今そこには寺と火葬場を残して、何もなくなった。湿地のバッケの原もいつしか、平屋建ての都営住宅となっている。また、あの北向きの崖のあたりには十階建てくらいのマンションというやつが背くらべをしている。>

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