2022年12月24日土曜日

考える葦


人間は考える葦である、我思う故に我在り、とは、文字通りな意味でそうなんだな、と思う。すなわち人は、考えられなくなったら、死んでしまうのだ。ダンサーは体を動かすことで、絵描きは絵を描くことで、物書きは物を書くことで、考えている。踊れなくなる、描けなくなる、書けなくなることは、そのままで死に直結する。踊らなくとも、描けなくとも、書かなくとも生きていられて在るのなら、その人はダンサーでも絵描きでも物書きでもなかった、ということだ。そういう職についているかどうかは、関係がない。そしてそういう風に、人間は生きている。すなわち、考えている。どんな人間でも。そこには、なおジャンルとして定かでもなく、また世間に公認される必要もない仕草もあるだろう。しかしどんな人間でも、考えることをやめてしまうことは、死へと直結する。考えるゆえに我あり、なのだ。


朝は近所の公園で、近所のお年寄りたちと、ラジオ体操をやることからはじまる。体力や筋力を落とすと仕事にならないからと、早朝自主トレをやってたら、重なってしまった。しかしきちんとラジオ体操第二までやると、体がほぐれる。

ラジオ体操というと、その起源から、国家主義がどうの近代化がどうのと、教条主義的な話がでてきそうだが、もはやそんな起源を生きているわけでもない。集まるのは10人ほどの半分以上は女性で、体操の音楽が流れている間も、まだ若い奥さんが散歩させている子犬と戯れている。

私が野球をやってたということも知れて、近辺のソフトボール大会にも人が足りないとかりだされた。そのまま居住地区の、地域の発達障害者も交流する80歳すぎの牛乳屋さんが監督する年寄りアパッチ野球団みたいなチームにも入った。そのついでということなのか、もう若手がいないということで、市だか区のスポーツ推進委員とかにも、来春からなるそうだ。準公務員だそうである。ゲートボール大会時の設営とかだそうだ。防犯夜回り隊員にもなった。他に暇な人もいないだろうからと、言われたままやっている。この衰退していく国家の末端組織がさらにどうなっていくのか、違った線が出てきて蘇生していく道筋ができていくのか、興味もわく。

自主制作した植木屋開業のチラシのおそらく意図どおり、奥さん側から電話が入り、全てのお客さんがよろこんでくれて、来年もお願いしますと言ってくれた。「あの人仕事してないのかね?」とラジオ体操のおばあさんたちは噂していたが、たぶん、来年の秋口からは、さらに近所からのお客が増えて、それなりに忙しくなりそうだ。「初老」「都」「女房」などが戦術的なキーワードだった。そのチラシをわが女房にチェックしてもらったとき、そんな言葉はいらない、とか文句を言われたが、商売事務的な広告だったら今どきは詐欺かとも疑われるだろうから自己紹介的なアットホームな感じの方がいいのだ、と押し切った。内のかみさんがね、という刑事コロンボのノリと言おうか。家計を夫が仕切るマッチョな家庭からはアホかと思われても、そのチラシの文を面白く思ってくれるかかあ天下的なご家庭とは、金銭関係を超えた信頼が作りやすいだろう。商売や会社人間の価値に固まった人との間からは、希望へ導く可能性の隙間はないだろう。

ネクタイの意味がわからず、満員電車にも生理的に乗れなかった者の、隙間探しの延長だ。

まだ歩ける範囲でしかチラシ配りもしていないから、春が近くなったら、今度は自転車でいける範囲、そしてモノレール沿いを探索してこよう。

しかし手入れするような庭をもっているのは、みなお年寄り世代だ。アパート暮らしの人もいれば、若い世代の建売住宅みたいのには、トネリコみたいな木が一本植えてあったりするだけだ。そもそも庭手入れ自体の時期が、初夏と秋口から年末までの半年あまりでしかない。下請け産業にはかかわりたくはない。東京は新宿の前の職場に残っていたら、代々木の外苑前だかの再開発にかり出されることになるだろう。あのイチョウ並木が気持ちよい散歩道になるのは、ギンナンが落ちる前に、下請けの職人が木に登って、一つ一つ落として処理しているからである。私も登った。臭いが体にこびりつき、地下足袋はカビてきてしまう。私がとりあえずそんな産業から解放されても、時代が止まったままの発想はそのままだ。その再開発に反対する人も、現存の快適さがどう維持されているかは考慮しない。誰が嫌なおもいをしてその快適さを作っているのか。もちろん、土建会社の社長たちは、稼ぎ場所だと暗躍しているのだろう。

だから未来へ向けて、違った切り口から、隙間をこじ開けなくてはならない。おそらく時期をみて、自分の電子出版物を利用した仕掛けを作るだろう。また、生活クラブ関連の映画観賞の会合でも、参加を続けて欲しいと声をかけられている。年頃のお子さん抱えた奥さんなどは、やはり深刻だ。いや私だって、息子がなお社会人としての特訓がはじまったばかりなのだから、たぶん深刻な事態なのだ。国の治安を守る先生からは「進退」のことを示唆されたらしい。息子は、ワールドカップのサッカー試合が見られないのに文句を言ったんではないだろうか。冬休みになり今日にも帰ってくるはずだが、中学時代の友達五・六人を引き連れてこの千葉に帰宅するそうだ。友人たちはみな学生だから、今どきの学生が何を考えさせられているものなのかも、様子を探ってみよう。


現金稼ぐ仕事としては暇だが、自分の作業はもう時間がない。おそらく人は一つの時間、歴史しか生きられないから、もう自分の枠を突き詰めていくしかない。いま既に盲目の最中に巻き込まれているとしても、それを受け止める子供の感性が衰弱しているだろうし、それを洞察していく体力も時間もないだろう。だからなんとか、自分が受け取ったかぎりのバトンに、自分が生きた時代への考察を刻みこんで、次の時代、歴史にわたしていける仕事をしたいものだ。

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