ボーヴォワールの『第二の性』を読んだところで、上野千鶴子の「ボーヴォワール『老い』を読む」『アンチ・アンチエイジングの思想』が出ていると知って、読んでみた。もちろん、私自身が「老い」に突入していることもある。とくに、肉体労働で生きていると、加齢とともに衰えてくる自身に敏感になり、対処せざるをえなくなる年齢がアスリートなみに若くなる。そこまでのプロでなくとも、三十半ばをすぎたらやばくなり、それを自覚して用心してないと、だいぶな職人が木から落ちる(私も落ちた)。仕事とは別に筋力トレーニングをやっていないとだめだ。私が間接的に知っていた植木屋親方は三人、六十歳すぎて、脚立や木から落ちて亡くなっている。相当な確率になるだろう。
このボーヴォワールの『老い』も、『第二の性』と同じ構成で、第一部は歴史的な確認、第二部で老人たち自身の意識された言葉を収集網羅していったものらしい。それは容赦ない記述で、暗鬱になってくるほどだそうだ。
彼女とサルトルたちインテリとの人間(男女)関係がどういうものかもよくは知っていなかったので、これは「神の死」のあとでは、つまり神がいなければなんでもありになってしまうような、ある意味下劣丸出し模様になるのだな、と私などは思わずにはいられない。しかしだからこそ、ボーヴォワールの深い洞察が得られるのかもしれない。
しかしそれは本当に、必要な意識洞察なのだろうか?
<超高齢社会では、わたしたちは生命体として与えられた寿命を生き切る「幸運」を与えられている。くりかえすが、長寿は栄養水準、衛生水準、医療水準、介護水準の高さがもたらした賜である。それが文明社会の、中産階級の、都市生活者の、特権であることは論を俟たない。この四つの条件がそろっていない地域では、ひとはもっとあっけなく死んでいく。長寿を呪うひとびとは、そんな苛酷な生活環境に行ってみるとよい。>
おおよそには日本全体が中産階級的な「幸運」な老い環境にいることになるだろうが、私はやはり、ここでも、階級的な視点にこだわらざるを得ない。
上野は、講演のあとで、老人会の会長をしたりして「町内のお世話やボランティアをなど日々前向きに過ごし」、「社会に貢献しているのがモットーです」という、「100%男性である」者たちの発言を紹介している。上野はそれに、「人間、役にたたなきゃ、生きてちゃ、いかんか」と答えるという。私が最近、そうした男性たちへなした返事はこうである。「あんたの言葉でいえば年金も払わず飲んでしまう<下層階級>の人たちは、親の面倒をみるよ。金がないから施設に親を送れないからだけではない。感情的にそうしない。2Kのアパートに二世代で住んで、寝たきりの母親を夫婦と娘で看取っていく人が新宿区にだっているんだよ。しかしエリート層の息子らがおまえらの面倒をみるか? 見てくれないだろうなと怖がっている植木のお客さんはこの辺りにたくさんいるよ。エリート層の現実政策がそうやって共同体的なものをぶちこわしてきたのに、それがまだ感情的に残っている下層階級にボランタリーを都合よく押しつけるのか?」
地区の忘年会でも、結局こう吠えなくてはならなくなったのだった。私の真向いにいたスポーツ委員の八十半ばの男性は、千葉高野球部の監督を37年間やって関東大会でも優勝経験をもつ人で、長嶋茂雄も間近で見ていたという。その話の成り行きで、私の中学野球部時の先輩、自身も甲子園に出て地元では名物監督として名をはせ、いまは高校の校長をやっているけれど、退職すれば高野連の会長になるだろう、その先輩は現役監督時代、まだ10年くらい前のことだけど、サイン見逃したバッター選手のところにゆくとビンタ、生徒がのけぞるのをおってホームから一塁ベースまでビンタをしていったそうですよ、と私事的な例をネガティブな意味でだしたのだった。がそれに、育成会会長の男性が、「そうだ、それくらいやらないと駄目ですよね。」と相槌を打つのである。私はぶったまげた。「私はそんな考えはしていない。マッカーサーは、町内会を解散させたんですからね!」
上野は、成田悠輔の、「高齢者は集団自決すべし」という発言をとりあげ批判している。私は、高齢者とひとくくりはしないけれど、まったく敗戦の自覚もなく相変わらずの権力にしがみついてふりまわす高齢男性たちに、「ぜんいん腹を切れ!」と言いたくなる。しかも、実は、本当は、そこにいる男らも、「もうやめたいんだ、やりたくないんだ、」ともらしていると、私はお客さん(女性たち)から聞いている。しかし、形式(官僚)的な話しかできない。だから、まさに以前の敗戦どおり、ずるずるべったりゆきそうなのだ。そしてなおさらゆえに、なのか、吠えれば吠えるほど、あなたが老人会会長を、町会長を、今の事務局長を首にするから理事になって市の理事会にでてくれ、という話になっていくのだ。「俺は年金も退職金もない死ぬまで働く日雇いだからね!」と、また吠えなくてはならなくなるのである。
しかも、もう男性といえど、バブルはじけて、日本的経営のすばらしさだと豪語してきた終身雇用は放棄され、むしろ、生涯人材活用政策とかで、死ぬまで働かなくてはならないサラリーマン世代は増えていくだろう。老後のボランタリーなど成り立たない。おそらく寿命も、また短くなっていくのである、と私は予想する。実際、厚生省の統計でも、コロナ禍直前からコロナ禍をすぎて、男女とも平均寿命はさがっているということである。
幸運な、ぜいたくな意識はいつまでもつだろうか? いやそもそも、「神の死」が、無神論の実存が、人々を存立させえるのか?

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