泡が消えるまえに帰らないとだめなのと師走の夢にいう妻を初日の兆しにさぐる静けさ
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高群逸枝は、「筋肉労働」を事務・知識的な労働と分け、前者をすくい上げそこにあるものに着眼した。山間の僻村の小学校へと追いやられていった校長である父等から、白文までを読む力を素養されてはいても、自身女工として働いたり、飢餓をさまよったり、貧乏を生きた。この着眼点は、彼女の宇宙論的な詩的直観と結びついている。ドイツに生まれナチスに追われ、イギリスに定住して研究活動を続けたゾーン=レーテルのこの著作も、現代の根本的な問題をこの区別(差別)の発生にあると認識し、その克服は量子力学上の現実認識の在り方が示唆しているのではないかと推察した。
私がゾーン=レーテルの考察に注目したのは、文芸批評家の中島一夫のブログからの示唆による。中島によれば、ジジェクの性(セクシュアリティー)の論点とゾーン=レーテルの労働の論点には、重なってくる関連があるという。が、両者が、古典物理学ではなく、量子力学(新物理学)の発見、宇宙的な存在の在り方(生成構造)を念頭にしているという指摘・射程はなかったのではないかと思う。
私が追求しているのは高群だが、彼女の思考が潜在させているものを意識化するために、以下ゾーン=レーテルの著作からメモっておきたい。
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「すべての社会は、多数の人々の行為から成るかれらの生活連関である。人々の社会連関にとって、彼らの行いが、第一義的なものであり、彼らの考えは、第二義的なものである。彼らの活動が社会の一部をなすには、相互にかかわりをもたねばならず、そしてこのかかわりは、最低限の統一性を示さねばねらない。それによって、社会は機能能力ある生活連関を具現することができる。行為相互のかかわりは、自覚的でも無自覚でもよい。しかしそのかかわりが欠如することは許されない。そうでなければ、社会は機能能力をなくすだろうし、人々はその相互依存性において崩壊する。もっとも一般的な方法で定式化すれば、これがあらゆる種類の社会の存続条件であり、私が社会総合という名称のもとにとらえている事柄である。こうしてこの概念は、社会構成というマルクスの概念における特別な構成要素以外の何ものでもない。すなわち、私の長年にわたる歴史的思考諸形態への没頭のなかで、その社会制約を理解するのに本質的なものとして浮かんできた、特に構造的な構成要素である。この概念の助けによって私は、基本認識を定式化できる。すなわち、一つの時代の社会的に必然的な思考諸構造は、この時代の社会的総合の諸形態ともっとも緊密な形態的連関に立っている、と。人間が自然と交換する生産活動や消費活動であるのか、あるいは、商品交換という相互形態を取っているものの、そうした自然との交換の背後で進行し搾取の性格をもっている、人間相互の取得行為であるのか、というように――その行為の相互連関が人間の生活連関を担うところの――行為の種類が変化するとき、社会総合の根本的変化が現われる。社会的総合の概念が自己の正当性、その方法論的必要によってはじめて証明するように、この区別は、以下の研究で、われわれの関心を引くだろう。」(p34)
「カントは、それらが前もって形成されるということを知っていたが、彼は、前もって形成される過程を、時間的ならびに場所的に局限しえない魔術的な《先験的総合》という意識へ転じた。実際においては、抽象的カテゴリーによる前もっての総合は、一つの歴史的過程であり、かつ一定の明確に定義しうる諸社会構成に属するにすぎない。貨幣には、より厳密に言えばその社会的―総合的機能には、われわれがこう言うのを許されるなら、《先験的主観》との間違えようのない肖像類似の特徴がくっつていいる。とりわけ、貨幣が、種類の異なったすべての通貨をとおして機能的には普遍的にただ一つでありうるという形態性格がそうである。《純粋悟性》というこの社会的産物をいったん与えられた人間は、《彼の》知性でもって普遍的な精神労働を、そして肉体でもって個人的な手労働を、両者の関連が彼には絶対にみえないやり方で行うところの、二分された非資本として存在する。事実《人間》は、確かにまた知識人と労働者に分解する。知性が、社会がその歴史的歩みにおいて征服しなければならない。自然に関する対象認識の器官として、(とくにガリレイによって)方法論的に形成される程度に応じて、知識人は社会に関して盲目になる。彼の哲学は、彼の科学的自然認識の客観的妥当性に関係なく、劇的なあり方で必然的に虚偽意識になる。」(p36)
「《ア・プリオリな総合判断》に関するカントの問題設定は、生産の模範型として間に合うが手労働からは独立している、自然認識がいかにして可能でありうるかということの正当な意味を、ブルジョワ哲学の全脈絡の外にでてさえ、保持している。頭脳と手との分離は、社会の階級分裂と全く緊密に合致している。生産技術の源が労働者のもとにあるならば、資本主義的生産様式は不可能な事柄であろう。それは、手労働とは違った源からの自然認識を前提している。そこでカントのあの問いは、資本の価値増殖過程としての生産がいかに可能であるか、つまり生産が生産それ自体のではなく交換の、しかもその交換は交換それ自体のではなく剰余生産取得の内容をもったそういう交換の、法則にしたがっていかにして可能であるかということの、マルクス研究と並んで、自明なことに属する。」(p38)
「私の研究は、意識解明に役立つ社会的存在分析を行うことよりも、むしろ逆に、意識形成の問題を深められた存在関係の問題へ転じることをねらいとしている。意識における確固とした基本的な形態の問題は、社会的存在変化の重心へと移されるべきである。そのことは、とりわけ、伝統的尺度にしたがって認識論の主要関心を形づくってきた意識諸現象に関して、つまり、数学的客観認識の可能性が依拠する社会的に必然的な思考諸形態に関して、いえる。社会的存在からそのような必須の思考諸形態を演繹することに成功しないなら、この存在についてのわれわれの理解には、何か不統一ないし不完全なものがあるにちがいないという、史的唯物論的命題にしたがって、社会の存在理解のために、この思考諸形態の的確な演繹が方法論的に重要であろう。《資本主義についての経済学的分析が、この基準に適合しないなら、それはまたどこかで、社会の存在変化に適合しないだろう。それは、歴史理解において、社会的存在のなかに不透明な部分を残すであろう。両者は相互に制約しあっている。》それゆえ私は、ここで努力した分析が、マルクスの商品分析の補完ならびに継続として理解されるよう強調する。」(p41)
「――この際、《純粋》という言葉は、カントの《純粋自然科学》概念の土台をなしていたものと同じ基準にしたがっている。われわれの研究の出発点は、したがって、いかにして純粋の社会関係化が可能であるかという内容の問いが存在するという命題を、内包している。この命題は、純粋自然科学の可能性についてのカントの問いに対する、空間時間的返答の鍵を内包している。カントによって観念論的に考えられたこの問題は、マルクス主義的に翻訳すると、確かな自然認識は手労働とは異なった源からいかにして可能であると、という内容になる。この形にもたらされた問題設定は、資本主義的生産様式の社会的必要条件である精神労働と肉体労働の分離の噴出点にねらいをつけている。」(p67)
「確かにカントにおいては、手労働と《労働諸身分》に関して、その社会的役割の不可欠性が無論決して疑われていないが、きわめてまれにしか語られていない。しかもこの役割は、精密な自然認識の可能性まで全く及んでいない。《純粋数学》と《純粋自然科学》についての理論は、そこで肉体労働に何らの言及もされていないということを、ほこりとしている。《純粋数学》と《純粋自然科学》は、純粋に精神的な基盤に立つ認識であるが、まさにこうしたものがいかにして可能であるのかが、それらについての理論の説明課題なのである。ヒュームの経験論的見方は、カントにとって、立腹に種であった。というのは、そこでは、純粋悟性諸概念の必然的な判断特性がゆすぶられているからであり、そしてこの特性のみが、ア・プリオリな認識諸原理とア・ポステリオリな認識諸原理との区別、つまり、肉体と感覚の性状からは引き出しえないわれわれの本質の一部分――それは同時に、理論的自然認識の可能性によって、精神的人格の自律性を基礎づける――の分離を、正当化するからである。この自律性にしたがうと、社会秩序の確保には、一方で外的諸特権が、他方で《成年》に対する人為的抑制が、不必要である。《理性の公的使用》が、人間に妨げなく許されれば許されるほど、それはしゃかいてき必用に、すなわち道徳、法、および精神的進歩に、役立つ。それは、われわれの精神能力そのものの本性に根づいた、したがって規範にかなった、唯一の道であり、社会にふさわしい秩序が、社会に与えられうるところの、唯一の道である。この秩序が、労働諸身分に対する階級区別を内包していることを、カントは、ブルジョワ啓蒙主義の他の哲学者と同様、隠していた。マルクスはカントの哲学を《フランス革命の哲学》と呼んだが、それは、少なくともこの欺瞞のゆえにではない。しかし、《教養諸身分》と《労働諸身分》の区別というのは、経済学がブルジョワ的思考を支配している西欧における、資本と労働という概念とは異なった概念で、経済学的に未発達なドイツにおいて、ブルジョワ社会が姿を先取りする概念であった。」(p75)
「カントの認識論の諸前提は、実際に精密諸科学が、生産の場において手労働から全く分離しかつ独立して行われる、精神労働の課題であるかぎり、全く正しい。それについては、すでに先に言及した。頭脳労働と手労働との区別、しかもとりわけ自然科学とテクノロジーへの関連におけるその区別は、ブルジョワ的階級支配にとっては、生産手段の私的所有に似た、不可欠の重要性をもっている。今日の多くの社会主義諸国の発展に、資本主義的所有を廃絶しえても階級対立からまだ免れていない、という真理を読み取ることができる。一方における資本と労働との階級対立と、他方における頭脳労働と手労働との区別とには、深く根づいた関連がある。だがその関連は、純粋に因果的で歴史的な関連である。概念的には、両者は全く一致しえない。すなわち、全体的にであれ個別的にであれ、両者の間には、一方から他方を推論することを許す横の連結が欠けている。だかた、こうしてまた、認識論批判は、経済学批判とは完全な体系的独立のもとに企てられねばならない。」(p76)
「認識論は、所与の認識諸概念の真理価値にたずさわっている。カントの理論の観念論、すなわち有名な《コペルニクス的転換》は、純粋悟性概念の《客観的実在性と必然的普遍妥当性》を、《主観内》でのそれらの起源を前提して説明する必要から生長する。社会的存在のもとでのそれらの起源――アドルノの《第二のコペルニクス的転換》――が、これらの概念の真理価値を難なく説明する。これらの概念は、社会的商品諸運動を客観的実在としてもっているのであって、これらの概念は、それらを描写しているのである(その経験的意味でのすべての痕跡を抹消してではあるが)。そしてそれらは、社会的商品連関の全正員に対する同一性によって、必然的な普遍妥当性をもっている。もちろんこれらの概念の適用は、具体的自然の抽象的自然への還元可能性についての、より厳密に言えば、特殊な諸現象の特殊な数学的運動諸仮説への還元可能性についての、実験的確証なしには、科学的妥当性を獲得しない。伝統的認識論ではその概念物神崇拝によってたんなる外見上の解決しか知らない課題を、マルクスの形態把握に基礎づけられた史的唯物論が、実際に解決できるということは、右に述べたことから示されよう。認識問題の取り扱いが、特殊かつ孤立した部門の事柄であることをやめ、唯物論的な歴史理解の関連一般のなかで立てられる。」(p107)
「文化というこの上層部総体は、《直接的な支配―隷属関係》としてある、第一次剰余生産物に対する一方的取得に、基礎をおいている。そして、文書や書法、記帳や算術、つまり、切り離された精神労働の象徴諸形態と実践が発明され完成されるのは、この取得の働きや取得遂行の過程においてである。すなわち、切り離された精神労働は、われわれの見解にしたがえば、非労働者による労働生産物取得の手段として、発生する。それは、生産の補助手段として発生するのではない。あるいは、ともかく本源的にはそういうものとして発生しない。それは、引渡しの勘定に、ファラオの神殿当局や役人と義務を負った者との間の交通における信用供与や返還についての記帳に、収奪した生産物の貯蔵や数量計算に、貯蔵品の容積・収入・支出の記載に、そして似かよった諸作業に、役立つのである。」(p150)
「十五、頭脳と手の社会的統一と《新しい論理学》
今やここで、この第二の独立変数に関して、われわれは、先に操業上の尺度統一という呼び名を与えたものに内包されている、以前に触れた仮説、つまり、現代テクノロジーが前提としているところの、手による生産活動と純粋な科学的頭脳労働の統一という仮説に、向かおう。われわれは、現代の連続的労働工程における両者の尺度統一が、操業上の形態原理であることを、それゆえ、たとえばたんなる思考の論理法則としてではなく、空間時間的実在として、つまり、現代的あり方での社会的存在の形態原理として、有効なものであるということを、たえず強調してきた。したがって、肉体活動についての時間計測の諸形態と共通項をもたず、かつそこへ概念的に翻訳しえない論理にしたがった理論諸科学を、社会の生産計画にはめこむことは、不可能であろう。逆に、両者、つまり手労働と理論的自然科学に、共通に妥当する論理が存在することが、社会の計画を可能にする条件を形づくる。しかも、カントの表現方法では《先験的》と呼ばれる種類の可能的条件を。この仮定は、われわれの第一篇での結論から予想されるものに、相応している。というのは、思考の根本諸形態は、その都度の支配的な交通様式の社会的―総合的諸機能によって規定されるということが、そこにおいて明らかになったからである。そこでは、この交通様式は、商品交換であった。そして、決定された思考形態は、手労働とは、調停しがたく分離していた。これに対し今やわれわれは、連続的労働工程の潜勢的な社会的―総合的機能に、すなわち、われわれが、この工程における手による諸事象と技術による諸事象との操業上の尺度統一と定義したところの機能にかかわる。その結果われわれは、古典的自然諸科学の論理学と異なった、かつ社会の生産計画を可能ならしめる諸条件を満たすところの、論理学が存在するにちがいないと推論できよう。これがどのような論理学であるかは、わたしの知識を越えているが、少なくともそれについて推量を働かせないというのは、全く不自然であろう。この推論に関して、わたしは、これが誰かを納得させるものであるとは期待していない。ただわたしは、より能力ある人がそれらの根本を究明してくれることを期待して、それらを吟味したい。わたしの推量は、バートランド・ラッセルがアルフレッド・N・ホワイトヘッドと協力して行った、論理学についての基礎的な仕事に、関係している。わたしはここに、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』の最後の数ページに見られる若干の重要な文言のみを引用したい。
《純粋数学ばかりではなく、物理学も論理分析の哲学に材料を提供してきている。その提供が行われたのは、とくに相対性理論と量子力学とを通じてである。/相対性理論において哲学者達にとって重要なことは、空間と時間とが空間―時間によって置き換えられたことである。常識によれば、物理的世界はさまざまな<物>からできていて、それらの物はある時間の間だけ存在しつづけ、また空間の中を運動するものであると考える。哲学と物理学とは、<物>という概念を<物質(マテリエレ・ズプタンツ)>という概念にまで発達させ、<物質>をさまざまな粒子――きわめて小さく、そのおのおのがあらゆる時間を通じて存在しつづける――から成るものと考えたのである。しかしアインシュタインは、粒子を出来事でもって置き換えてしまった。…(略)…すべてこれらのことから、粒子ではなく出来事が、物理学の<素材>でなければならない、という結論が出てくるように思われる。…(略)…しかしながら、量子論にふさわしいような哲学は、まだ十分には発展させられていない。わたしは、量子論が、そのために、伝統的な空間論や時間論からの脱却を、相対性理論の場合よりもなお徹底的に要求するだろうと考えている》。
しかし、今、ラッセルとホワイトヘッドの新しい論理学が、将来の社会生産様式の論理学として確証されようがされまいが、次のことは明らかである。すなわち、たとえ、人間的生産機能と技術的生産機能との操業上の尺度統一の論理学が、どのようなものになろうと、自然諸科学は、その論理学に包摂されねばならないし、そのような包摂をそれ自身の方で論理的に許さねばならなず、そのことによって、社会の総生産計画を意図する第二の独立変数がとらえられうる、ということである。この要請の充足によって、現代の自然科学とテクノロジーの本質が、今日の状態に比し、変更されるだろうことは、明らかである。今日の状態とは、テクノクラシーとテクノクラシー的思考様式の状態である。テクノクラシー的思考様式は、われわれの拡大された賞品分析によって、すなわち、自然科学的思考形態の社会的―総合的起源の立証によって、土台からくつがえされる。諸物の真実の歴史的連関は、今日の自然諸科学そのものについて、それらが、それら自身の論理を通して、社会過程へ洞察をもってかかわりえねばならないことを示している。資本主義に特有な、それゆえ今日もまだ存続している、自然科学と経済学の乖離は、全人類を《無限の分裂》に駆りたてるか、歴史的解消にいたらねばならないか、どちらかであるとマルクーゼが考える時、そのことは全く正しい。この解消のなかに、一般に自然諸科学が、自己の自由を阻害することなしに、自ら生産過程の一部になり、こうして生産や直接的生産者に対するそれの関係が、終局的には今日の関係に比べて全面的に転換される、ということが包含されよう。」(p231~234)

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