2026年1月11日日曜日

福嶋亮大著『世界文学のアーキテクチャ』(PLANETS)を読む

 




この批評家の著作は、まずだいぶ以前に、仮面ライダーやウルトラマンだったか、の大衆文化的なものを素材にしたのを読んだが、それで次のものを読みたいとは思わなかったので、だいぶ疎遠になっていた。数年前に、自身で中上健次をめぐるものをノートとして綴りまとめるのに、中上がどうも最期的に突き当たっていたのは中国の問題(エクリチュール的現実)ではないかとおもい、そこらへんを意識化してくれる言葉はないものかと探していて、福嶋亮大の著作に再度出会ったのだった。

このブログでも、彼の何かの作品から、冒頭エピグラフに引用した覚えがある。私のひと昔前世代の教養としては、要は福嶋は、柄谷行人の継承的批判者なのだろうと思えた。彼の武田泰淳論(こんどのこの作品でも、その「絶滅」に関する見解に反映されているだろう)、あるいは短歌(詩を歌う)は天皇制だという柄谷の見解を、中国の歴史を知らない短絡的な見方切り口だと、名指しはしないが言いたいのだろうと思えた。そしてそれは、説得的に聞こえた。

昭和天皇が亡くなったとき、どこかの文芸誌で、柄谷は浅田彰と、中上はたしか岡野弘彦と対談をしていたとおもう。学生中だった私は、その対談の相違、立場の違いの浮き彫りを、その印象感を今でも覚えている。

福嶋の『世界文学のアーキテクチャ』は、私の当時の違和感を、より鮮明にしてくれる光を差し込む。

 

まず福島は、当時(私が学生だったころ)日本の文芸批評界が提起していた問題、「小説の小説性」とは何か、という問題、その言い方自体も引用継承することからはじめる。小説を物語への闘争だと宣言した一人の蓮見重彦からは、作品構造への分析的手法を踏襲しているように見える。たしか蓮見は、小説の小説性の符丁に、物語進行に抗う分析と描写という技術を抽出提示してみせた。しかし福嶋が提示したのは、技術的な構造要因ではなく、あくまで、思想主題的なテーマである。蓮見にとって作品のテーマとは、作家がからめとられる時代的な物語言説というネガティブな要因にすぎなかっただろう。が福嶋は、作家のほぼ意図的なテーマ群にこそ、ポジティブな構造的仕掛けを見出す。それを七つの「思考のテーマ」と呼んでいる。この方法論は、あとがきでも示唆されているように、柄谷の『日本近代文学の起源』における、「内面の発見」等の――こちらは作家がほぼ無意識に陥ってしまう歴史的焦点――内容的な着眼点から跳躍したものであろう。

 

<その際、乗り越えるべき壁としてあったのが、ジェルジ・ルカーチと柄谷行人の小説論である。近代小説の発生に画期性を認めた彼らは、共同体から個人を分離する「冒険」や「内面」を――つまり主体の形成を――小説の根幹に据えた。ただ、ルカーチや柄谷の強調した「近代」の主体性のモデルは、産業資本主義やナショナリズムが伸長した十九世紀ヨーロッパの特殊な時代環境に依然として縛られているように私には思えた。そのような狭い枠組みで考える限り、小説が世界性を獲得した理由を十分に説明できないし、ヨーロッパの外で栄えた中国や日本の近世小説も無視されてしまうだろう。/本書で示したように、小説の勃興にはナショナリズム以前からあったグローバルリズムが関係している。標語的に言えば、近代小説はネーションの文学ではなく《世界文学》として始まった。内面的な主体の形成は、あくまで世界との接近遭遇の後に来るものである。ならば、近代文学を分析するには、本来は世界文学を前提にしなければならない。世界文学は任意に選ばれた研究テーマではなく、それ自体が近代性の本質に関わるテーマなのである。》

 

私の文学教養は、戦後の世界文学にあたる、南米の作家たちまでで終わっている。学生途中からか卒業してしばらくしてからか忘れたが、小説みたいなものはほぼ読めないでいた。もっと直接的な意識化をしなければ、メンタル的な生存も危うそうだったからである(がだんだんと読めるようになってきた。福嶋がちょっと言及した『三体』も読んで同じ感想をもった。)福嶋がここで引用してゆく分析対象も、以上までの古典に、SF作家たちが加わっているくらいまでであろう。が、それ以降も、たとえば、ノーベル賞はつづいてゆく。私は新聞記事評判程度はのぞいて、受賞作を読んでみようかな、と思うときがあっても、結局まだおそらく一冊も読んだことがない。だから、何も知らない。

福嶋は、その創作側への問題提起になるような指摘として、これまでの世界文学の成り行きはいま、<単一のグローバルな世界市場(世界文学)という地盤に、多文化(各国文学)が分立するというモデルに支配されている。>と認識し(たしかに、ノーベル賞付与儀式自体が、そんな分立的良識に支配されているかのようである)、それに対する、フォークナーにみられる「《多時間性》の文学の富はまだ十分に汲み尽くせていない>と実践を示唆する。

ただ私がこの点で言いたいのは、福嶋の世界文学の読みに、つまり世界の市場(空間化)を把握するのに、量子力学の見方と比喩が根底に据えられて転回されていくのは、なんだかよりわかりずらくなっているのではないか、ということだ。バフチンのポリフォニーを「量子的重なり」に、あと何かを「量子もつれ」の事態と同等的に提示してみせたが、読んでいる側の頭がねじれてきてしまいそうで、逆にイメージとしてわかりにくくなる。ほんとうに近代文学は、量子的だったのだろうか? 量子をまず実在として考えてみようとしている私の段階では、文字媒体(エクリチュール)をそう見てみること自体に熟考を要する。

※ ともかく、ジャーナリズム界のことはまったく知らないが、中上健次を「再開発」というテーマから、九州の女性作家作品を「思想」書として読むという宣言めいたものを断り書きする渡邊絵里にしても、より若い世代には、何か決意のようなものが感じられる。部外者からのなんとなくの印象では、小説の闘争性が説かれた以降、蓮見的な、テクスト論枠組み的な技術論、いわばおたく的視点・こだわりで作品を読む、ということのほうが流行していったように見受けられる。そうした風潮へ、大衆文化を難しく分析してみせることではなく、あくまでもう読まれなくなってしまったかもしれない古典・近代文学をとりあげて、一石を投じる、そんな試みが実践されはじめているのかもしれない。

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