また、「中道」という言葉がでてきたので、追記。
一身にして二世を経る、とは福沢諭吉の言葉だけれど、いく子もその時空の落差に突き当たっている。漱石の「三四郎」での地方差(熊本)認識は、当事者性から見れば弱い、との記述も他の日どりでなされている。図式にすれば、熊本(地歩封建)対千葉(中央官僚)である。が地方私立の中高一貫校は、その落差に、初めて女子を入学させて性急に追いつこうとしていた、ということなのだろう。いく子は、前者の人間としての「あたたかさ」を捨てず、後者の一見としての民主に偽善を感じている。どちらにも組しない模索が、「中道」という言葉を引き出させ、「結婚は妥協(中道)」だという身近な問題意識と重ね合わせられながら、もがいている。ちなみに、幼稚園は、カトリック系の教会である。
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11月11日(木) 3時限自習の日
肯定――(好きだから、無為自然、純粋無く)
―偽善者
否定――批判 破壊 反動(肯定のすべてを否定もの)
—あざけり
中道——肯定も否定をも認め、どちらを選んでも、どちらも正しいとされているならば、多くの人の行う方、多くの人が喜んでくれる方を行うこと……妥協?
たとえばそれが制度化されているのならば、その先駆者の真実にもどって 行えたならば、いいと思いながら、真に好きに否定意見をも振り捨てる情熱があるならば。
このごろ思っている( )以外のいやらしさを感じながら、どれがいいのかどうしたらいいのかわからない、そんな気持ちを書いてみたかった。
家庭科がいやだ、それだけの意味じゃなかったけれど、井上順子(註;真和中・高の先生)に反発した。その激からきた 今は反動沈黙の反省期なのか? 本当に料理が好きになればいい。真に家庭に結婚にあこがれて、家庭科を一手段と割り切ればいい。昨日の家庭科でアップルパイを作るその下準備に参加しながら、家庭が亡国の音であることを認めながら、家庭科が好きならばいい…ずっとそう思ってた。両方を認めながら、どちらも選択できずに ただ妥協として偽善として 行なっていた。
もし 私が 今 結婚をするならば 偽善だろう。私は愛情の理論化ではある。そして実践はできる。ただ 結婚と愛情が結びついてくれないだけ。だから 私は 偽でしかない。そして これから育っていく子供を育てることができない。
自分を卑下する表現(これは逆説の肯定強調、こうなるしかなかったんだ)は避けたいけれど。ひどくみじめできつい。こんな時 何とかして まがりなりにも認めたいときに、神とか宗教とか それこそ何でもいい、事でも物でも思想でも、軍国主義でも人でも、愛でも。ほら 私の人生観(なんてオーバーなのでしょう)は逃避への術になってしまった。
何をやっても終わりがなくて、それから 何があっても結果がなくて、ほら、果は また因に変わっていく。人は冷たくうわさして、でも人さえ寂しくて。私が一生懸命になっているのも、逃げるためなんです。忘れるためなんです。怒らないで下さい。私はずっと逃げているんです。
11月20日(土)
歎異抄 唯円
仏教にも絶対者はいた。キリストのように形あるものではなかったが、いてしまった。それが宗教なのかもしれない。
親鸞を尊敬しすぎて、彼が独自に会得した(一般農民・民衆らの中からまたために作った)かのように、彼のみ彼の言葉のみを曇りのないように信じていることに やや 不満もあった。また詭弁的な言葉のあや、論調が気になる。故の多用、誤解されやすい語を前に持ってそれが正当であるように、正当であるけれど、説く文法、逆説的な用い方には ひっかかる。
フラニー(サリンジャー)にあったように念仏を唱えるうちに、その意味がわかってくる。だから念仏する。念仏と阿弥陀仏とが一体になり、いつもその絶対者が側にいてくれるようになる。見守ってくれる。それが生活で思想でささえになる。フラニーでは キリストは“ふとっちょのおばさん”となって現われる。
絶対者には形がない。民衆のための浄土宗はそれに念仏という形を与えて、その言葉の巧妙が表われる。生活の何かの拍子にこれが、こんなものが阿弥陀仏だってわかるとき、ほんの些細な日常の中からなんとなく気づく そんなわかりやすさが浄土の教えだ。わかりやすさ、民衆のためのもの、だからあまりにも卑近な例をとってくる。唯円のあるいは自我かもしれないが、13章「唯円房は我が言うことを信ずるか」の問答のある意味でいうつまらなさを感じてしまった。
東洋の思想が西洋より、すばらしい点(上下をつけるのはおかしいけれど)と感じたのは 善悪の区別は 人間の勝手な価値判断によるということを教えること。例がどこにあるのかわからなくなったけれど、行為は前世の因果でだから善悪が決められず、人は救われねばならぬという。人間は老少・善悪によらずに救われる、平等に。良い者だけが天国に行けるのではない。善悪がない。
しかし阿弥陀を信じねばならぬ。私は救われぬ。良い人間ではない。業は深すぎる。悲しい位に。でも信じていない。あることは認めても、自我が強すぎて、科学証明もなく(まだ発見されていないだけかもしれぬが)、そして前世の因果だとしたら、始めから運命があって そうならざるをえないものがあるのならば、私は信じる信じないは 始めから救われる救われないと決まっているものじゃないか。自力更生の余地がないならば、私の生きている意味がなくなってしまう。意味などなくてもよい。でも私の意志は必要のないもの、持っていなくてもよいものじゃないのか。ならば絶対者は 何故 人間に 知恵を 与えたのか? 人間を悩ませるためなのか?
もしも お与えになったとしたならば、信じる信じないなどの 二者選択の意志を与えてくださった、可能性を一つ残してくださったのか。“今は 過去の唯一の可能性の結果だ” 神にも(仏にも)未来はないのか。または現在地から未来という無限大の(神だけの知る)意志選択を お与えになった(?)
流転は必要でないじゃないかしら。前世の因果が今ならば、浄土に行けるも行けないも もう必然で、ただからまわりをしているというよりさせられている。浄土へ行くために 清浄しに生き返るならば、ただ回転の糸車でしかない。虚しさがあるだけで、創造性、意志の自由
話をそらしたけれど、木高で軍国主義を感じたことはない。以前をそうだとしたら、真和の寮、悪口ばかりだったって、ばかりじゃないが、こともあるし、それが行動をかなりおさえつけて、同じくさせて、また、だから変わったことをしようとしても それもやはり その皮肉の友人のものだった。それから地域性もある。ごく普通に年功順を考えていたし、ずっと物事にこっていた。たぶん天候のせいもある。しかし真和は悪くなんかない。嫌いじゃない。批判の対象にはいくらでもなるけれど、ある意味の あたたかさとか いい思い出とか友人がいることは確かなんだ。活力がありすぎるばかりに 先生はとりしまる。木高はそれがない。だから押さえつけることもいらなかったともとれるんです。
11月22日(日) 学校をさぼった サッカー
私の高校時代というより木更津高の生活は 真和の否定の上に成り立っていた。あらゆることに。文化祭も ハンドボールも 友達づきあいも。それもそれでよい。そしてまた もう真和の否定ばかりでなく、それを乗り込える時が来たのです。キザだけど、ある意味で、終わったのです。終わるってことに限定しすぎるし、また絶対に終わることなんかないけれど。クラブも終わったし、…略…、あと 受験と お友達が残って(思い出と)。
否定の上に成り立っていたことを認めます。ハッキリと。そしてそれの悪さとかof
course私自身も含んで、考え続けてきたのです。でも私は真和が嫌いじゃない。恋しく思いながら、だから否定し続けたのかもしれないけれど。やっと それがわかった気がするのです。
彼も日本人だ、私と同じように。そんな風に考えてゆきやすい性格を持ち合わせ、(もう私には出来なくなったけれど)、またそんな考え方が 戦争へ赤軍へ傾向いてゆきやすいこと 気付いているのだろうか。
このごろ やっと 赤軍に入るのを断念しました。思想の上の 何んだのより、命をも捨てて 何かに掛けてるそんなことが好きだったのです。今、やっとそれが 思想上で問題がある、パレスチナは直接私の問題ではないということに気付いて、(また政治や安保やこれからおこりそうなことも)それを 正当ばって 口を出すのは 私の真心にそむいているのです。
結局 私はバカです。自分の正当性だけを掲げるバカなのです。
どんなに知識があってもいい。けれど、その知識が、ああこんなものかって軽く思われたり、小さなことを こうだと断定されるのは 困るのです。トキ田くんの軍国主義だって 小さなことに 囚われすぎている。木高はそんなとこじゃない、いいとこですよ、寝てる分には。
彼の学校批難とか成績の云々や家のこととか話されるたびに理論の先にたった批判を聞かされて、結局 つわものの意見を耳にするのと同じになってしまう。
私が弱いものだから 私だけが「ライ麦畑で」がわかるんだっていう そんな帰着になってしまった。こんな風に言えば 私はいつまでも否定をしつづけなくてはいけなくて、そして いつまでもひねくれものなのでしょう。
本間氏へのしかえしに 私は何もしゃべらなくなったら、私は利己主義の反省として 人に話しかけるのをやめてしまったら、…いえいえ 彼だっていい人です。私のために 人悩ませては 絶対に いけないことなんです。
11月24日(水)
狭き門 アンドレ・ジイド
徳が愛をも全うする…西洋の教えだ。神という絶対者がいて その下で 人が自由と平等がある。神の基(下)で。神の前で自己犠牲を強い、神の名で幸せを呼ぶ。たぶん理屈でしかわかってないからだけど、何故人のために、ジュリタットのために、身を引こうとしなかったんだろう。武者小路「友達」(註;「友情」の間違いだろう)を思いだして Izumiの「山田、友情ば読みおと。」の声と 視線を下げた顔を思い出して。私は許されないにしても 実存の人だったら許せるのにと反撥する。
Izumiはバカで、私なんかを気にして、身を引いた。彼女の優しさとつつましさがそうさせて。
何故なんだろう。何故 神は救ってはくださらないのだろう。規律を守るものだけ、自力更生をするものだけを お救けになるのだろう。なのに何故西洋人は 神を信ずるのだろう。信じられるものがあるのはいい。なのに信じようとするあまりに 偽善に近くなるのが何故 わからないんだろう。信仰って 形にあてはめてみようとするんじゃなくて、ある意味で 自然と疑問もなく入っていけなければならないんじゃないのか。疑うなら、もちろん疑うのはおかしいことじゃないけれど、宗教理論家で実践者じゃないのに。
アリサの徳は偽善に限りなく近い。偽善だといい切るにはひたむきだ。何故愛を信ぜぬ。アリサの最も信じられる 素直に受け入れられる、そして 救われるところなのに。
「力を盡して狭き門より入れ、滅にいたる門は大きくその路は広く、之より入るものは多し。生命にいたる門は狭くその路は細く、之を見出すもの少し。」
否、否、主よ、あなたの示し給う路は狭いのです。――二人で並んで進むことが出来ない程 狭いのです。
――しかし果たすべき義務が辛ければ辛いだけ、魂を育み引き上げるものであることを、もう悟ったに相違ありません。
そうかもしれない。そう思ってしまえばよいのかもしれない。

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