シュタイナーに関して、スマホで調べているうちに、ヒットしてきた人物。こんな人がいた、いるのか、という驚きだ。
三島由紀夫が割腹する四年ほどまえの16才の頃から、数十回にわたり話し込んできて、遺言をたくされていたのだ、と自覚するのに五十年かかったのだ、というのは本当のことなのだろう。サヴァン症候群的な記憶再現能力をもった、幼少の頃からの大読書家であり、菌酵素食品を販売・研究している会社を経営している。心肺停止状態から蘇った小1の時、父の書棚にあり母に全ての漢字に振り仮名をふってもらい読んだ初めての本が『葉隠』であり、その心酔が、三島と共振したらしい。目白に住む裕福な育ちで、小林秀雄はじめ著名人との家族付き合いがあったそうだ。この著作は、三島論などではなく、霊媒からのメッセージのようなものであろう。三島の決行も、政治的な行動ではなく、文学行為としてであり、それは自ら『古事記』のスサノオ神話に刻まれている神話の真実性・純粋性を反復・創生することで、人類に霊性文明を再生させることなのだ、と。
YouTubeで、富岡幸一郎とのこの著作をめぐる対談がアップされている。
【特別対談】生誕100年・三島由紀夫が予言した日本の危機(執行草舟先生×富岡幸一郎先生)前編
【特別対談】三島由紀夫の文学と魂〜世間で誤解されている三島の真の姿とは?(執行草舟先生×富岡幸一郎先生)後編
本著作に関しては、上の動画参照でいいだろう。
このブログでは、執行草舟の言動を参照することで、より明確になってきた私の観点をメモする。キーワードは、武士道、縄文、胎児性水俣病患者、となろう。
最近本屋にいって、『魂の翻訳は可能か 苦海のエチカ』(横地徳広著 勁草書房)にであった。水俣病の胎児性患者をめぐり考察しているらしい。まだちょっと読みはじめただけでは、何をいわんとしているのか不可解だが、ともかく、この著作冒頭は、次の一文ではじまる。
<中学二年の少女が「ウソをついてごめんね」「もういじめないでね」などという遺書を残して、自殺した。>
私も、そういう遺書を残していった事件のことを覚えている。いっけん、これから死んでゆくものが「もうしないで」というのは、奇妙なことであろう。この世からいなくなってしまえば、いじめようもなくなるのだから。ということは、いなくなるために死んだのではないのだ。生きてゆく、その地続きの意識で死んだのである。『葉隠』が説く「武士道とは死ぬこととみつけたり」、とは、そのような心境で生きる覚悟のことである。三島もそうだった。野次怒号の中で死んでいった。私は、以前、橋本治の三島論を読んだ感想を書いたさい、三島は少ししか腹を切り裂けなかったそうだ、と書いた。が、執行によると、切腹の礼儀作法を超えて、腸が飛び出てくるくらい深く切り裂いたのだそうである。だから、前のめりになった。だから、介添え役は一気に首を落とせる体勢ではなくなってしまったのだと。この深く切るとは、怨念を表わすときにおこなうやり方なのだそうである。とにかく三島は、「俺をいじめてもしょうがないんだぞ」、とこの世から超越した思いを抱え込んでいたにちがいない。「もういじめないで」と自殺した少女が、「私」をいじめないで、と言ったのではなく、(人が、人間が)いじめをしないでね、と想いを託していったのであろうように。
母の胎内にいるときから有機水銀に侵されて生まれてきた胎児性水俣病患者は、生まれてすでにして、生きる(武士道)とは死ぬこととみつけたり、という心境に立たされたのではないだろうか。妻のいく子より二歳上の坂本しのぶさんの生き様をおもうと、それは純粋な「体当たり」の人生だ。「体当たり」とは、執行が説く「葉隠」の精神である。水俣病をひき越した会社の社長経験者を父に持つ私の妻の人生も、その表象は坂本しのぶさんとは正反対だけれども、最期まで「純粋」を志向した「体当たり」の人生だった。私はそこに、「おなご」と呼ばれた九州の女たちの、反武士道の精神を読む。ここでの「反」とは、プラスの陽子に反粒子としてのマイナスの陽子が、マイナスの電子に対し反粒子としてのプラスの電子が生成してくるという、量子力学的な意味での「反」である。
執行の発信する動画によれば、量子コンピューターが、霊性文明を自明化させるだろう、という。しかし、もし人類が霊性に目覚めることができないならば(三島の遺言を引き受けないならば)、もはや宇宙意志からの魂入れを亡くし、動物と同じになり(つまり選ばれた人間ではなくなって)、鉱物に魂入れが行なわれることになるだろうと。シュタイナーもそうだが、あの世としての霊や魂ということではなく、あくまで物質的な物理条件・現象として霊界を把握する。
「いじめ」問題にもどろう。
私はここで、柄谷の「力と交換様式」に言及するにあたり引用した、エリック・ホッファーの洞察を想起する。(ダンス&パンセ: 柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む)
<人間という種がもつ驚異と独自性は、弱者の生き残りに由来する。病人を看護するという習慣がなければ、人類一般における不具者と弱者が文化と文明の高みに達することはできなかったであろう。部族の男たちが戦場におもむくとき、背後にとどまらざるをえなかった傷病者が、おそらく最初の語り部、教師、(武器や玩具を作る)職人になったのであろう。宗教、詩、英知の草創期の発展は、不適応者の生き残りに多くを負っている。狂気に陥った呪医、癲癇症の予言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小人が、そうした人びとである。最後に、病人は医術と料理の発展に貢献したに違いない。>(『魂の錬金術』エリック・ホッファー著・中本義彦訳 作品社)
執行も、エリック・ホッファーの著作を読書推薦したりしている。彼の文脈でいえば、それは、「縄文」という霊性的生き方に重ねられるようだ。
「縄文」というと、最近中島岳志が、『縄文 革命とナショナリズム』(太田出版)を著し、この言葉のイデオロギー性を列挙したりしているが、文芸誌『群像』の今月6月号での富岡幸一郎との対談、「保守の「正統」はどこにあるか」を読めば、問題の要点は、一神教だから戦争になり多神教的な縄文文化の方がすぐれているのだとするようなイデオロギー批判に収斂されていくもの、という理解前提にあることが知れる。
が執行は、日本の神道も一神教であって、アニミズム的にまつられる樹木や岩はあくまで媒体であって、実際はその向うに一なる宇宙意志(こういう言葉を使ってはいないと思うが——)をみようとしているのだ、という意見を採用している。執行の、縄文に帰れ、みたいな意見は、あくまで、「葉隠」理解の延長にある。縄文精神のエッセンスが、武士道なのだとも言う。(「葉隠」以外のほとんどの武士道は、朱子学的な道徳であり、文学にすぎない、と指摘している。)
が、私はやはり、その執行の意見のイデオロギー性を憂慮せずにはいられない。封建(武士道)の真髄(愛と自由)を抽出して説いても、その世の中での実際表象・機能を考慮すると、やはり、マッチョな男性性に偏る。執行は、シュタイナーの考え(観察)を受けてか、プラスがあったらマイナスがでてくるよう自然は動くのだ、と陰陽(易経)や量子論の世界にも言及しながら、そのバランス性質の現実を喚起させるが、世界宗教が失効しているのと動揺、男性(スサノオ)ヴィジョンも、誤って機能するしかないのではないかと、私は推察するのだ。
だから、九州男児に対抗した高群逸枝であり、弱者に寄り添いながらも島原の乱を素材にした最後の小説で、乱後幕府に切腹の抗議をして果てたとされる鈴木重成(病死が本当だと検証されているが)への鎮魂を刻んだ石牟礼道子であり、「葉隠」を導入した鈴木大拙の『日本的霊性』をくり返し読んでいるという森崎和江、といった、九州の「おなご」たちの言葉を私は掬い取りたいのだ。彼女たちは、武士道だが、“反”武士道のヴィジョンを提示しているのだ。
そして武士道、「葉隠」は、シュタイナー同様、徹底的に個人主義的である。そこをめぐる執行のユニークな動画も、アップされている。

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