高群逸枝の詩的直観、想像の宇宙世界へと読み入っていくにつけて、吉本隆明は『共同幻想論』において、何か高群について述べているのではないかと、学生時代に教養的には読んでいたそれを読みかえしてみてはいた。が、やはりよくわからない。そんなおり、鹿島茂著の「『共同幻想論』に挑む 家族人類学的考察」というのに書店で出会い、買って読んでみた。
読解に導入しているエマニュエル・トッドの考察は、このブログでも言及してきたとおり、私にはなじみ深いものだったので、一読して、なるほど、吉本はこう読めるのか、と驚くとともに考察が進んだ。
段階的に実証されてゆくこの著作を短く要約するのは無理なので、結論的な提示と、自身の思考との交差点に関してメモしておこう。
鹿島によれば、吉本はまず、いわゆる日本の近代文学が扱ってきた「家」の問題前提が階級的なものであることの批判からはじめるという。それら文学は、すでに父権制社会が成立した上流階級で生じる父と子の葛藤にすぎないので、その階層的現実がなお希薄な庶民の「家」の内実が抜け落ちている。しかし、そこを考察の射程に入れなければ、自分を戦争に没入させた天皇制のイデオローグを、国家という幻想を打つことはできないのだと。ゆえに吉本は、父権成立以前、その成立過程を考察するためのものとして、『古事記』や『遠野物語』という想像的世界を孕ませている材料を取り扱う。人間にとって、観念(想像・幻想)は現実に先行するのだ。というか、動物的な自然的セックスが心的に疎外されて、「対幻想」が獲得されたとき、家族という共同性が動物とは違った水準で生起してくるのだ。しかし、「対幻想」(家族)は、排他的に作用してくるのだから、「共同幻想」としての空間的広がりを持つのは困難である。ならば、その「逆立ち」が「同致」に転換されるのはいかなる過程によってなのか?
<① 縄文前期
生産様式:狩猟採集。
対幻想(家族形態):一時的双処居住(母方居住、父方居住)を伴う核家族。
時間性:昨日と明日しかない時間性。
対幻想と共同幻想の関係:共同幻想の未成立。
②縄文中期から後期
生産様式:イモ栽培などの初期農業。
対幻想(家族形態):核家族が排除された強い母系。
時間性:イモ栽培から類推した霊の循環思想から来る循環的時間性。
対幻想と共同幻想の関係:対幻想と共同幻想の同致。穀母神的祭儀。
③弥生期
生産様式:穀物栽培などの本格農業に移行しているが、アワ・ヒエ・イモなどの初期農業を残す。
対幻想(家族形態):圧倒的に数の多い被支配民である縄文人特有の強い母系が残存し、そこに弥生人の一時的父方居住を伴う核家族が入り込んだサザエさん型の母方居住。
時間性:穀物栽培の時間性とは異なるものと理解された、セックス・妊娠・出産・子育て・成人という対幻想のリニアーな時間性が主流となるが、依然として霊の循環からくる循環的時間性も強く残存する。
対幻想と共同幻想の関係:対幻想と共同幻想は同致しなくなる。農耕的祭儀は穀母神的祭儀の影響を残す。
④古墳期からヤマト王権期
生産様式:水耕栽培などの本格的農業。
対幻想(家族形態):母系を残存させながら父系に移行中。ただし、父方居住の直径家族には至らず。妻問い婚型を取る。
時間性:セックスと妊娠・出産の関係が正しく理解されたことから生まれたリニアな時間性。
対幻想と共同幻想の関係:対幻想と共同幻想の不一致。農耕祭儀はセックスを取り入れながら抽象的なものに変化。>(P513)
ここまでの過程で、フェロモン誘導によるセックス(乱交)を禁忌(近親姦の禁止)させてゆくような脳内へのイメージ・フィードバック機構の確立化からくる「単一婚」への移行、農業革命期における家族経営力(直系化への移行)の優劣から貧富格差の発生=貧困層での末子相続的核家族の残存、ユーラシアからの辺境としての遠野地区での母系制の残存、といった現象をはらむが、まだ父権的な共同幻想へと対幻想は同致されない。つまり国家は生まれていない。そもそも、「人類はすべて例外なく母系制をどこかの段階で経てきたという吉本が前提とした仮説は正しいのか」。
<姉弟と兄妹の対幻想を用意したのがイモ栽培を中心として初期的な農耕だったように、生産様式が遊牧であるような場合には、母・娘の女性セクターの比重が増えることはなく、むしろ牧畜を担当する父・息子の男性セクターがメインとなりますから、共同体の対幻想が兄弟の組み合わせとなる可能性は強いのです。トッドのいう共同体家族は、この兄弟の対幻想から生まれてきたと思われます。
このように考えると、吉本の母系制を核とした対幻想—共同幻想の構造は世界規模では破綻しているように見えますが、しかし、規模を日本に限定するなら整合性を保っているといえます。というのも、吉本は『共同幻想論』において分析対象を「日本」に絞った上で、対幻想と共同幻想の関係の法則を取り出すのを当面の目標としていて、その先は想定していないからです。>(P483)
ならば、排他的に集中する血縁的家族形態から、いかにして空間的に拡大する地縁的な関係が支配的になるのか。吉本の、アマテラスとスサノオの神話分析は、氏族(前氏族)社会までには拡大されえるが、国家の共同幻想までにはいきえない。<共同体が「家族形態と親族形態の地平を離脱」するにはある種のジャンプが必要>なのだ。それは何か?
吉本の「祭儀論」でその可能性が示唆され、「南島論」で肯定的に論じられているのが、他民族征服説になる。<母系制社会の上に征服者である騎馬民族の父系性社会が乗って、社会が二重の構造をなすようになったとき、初めて国家的な共同幻想が生まれるという考え方>だ。そして実は、この考え方を最初に唱えたのはフランツ・オッペンハイマーというユダヤ系ドイツ人の社会学者で、一九〇七年に出た『国家』という著作においてである。オッペンハイマーはマルクス主義的な経済論的観点を退け、「勝利者集団による敗北者集団の暴力的制圧が階級分化と国家の成立を導いたとする政治的観点の導入を主張」した。しかも「勝利者集団である遊牧民も敗北者集団である農耕民も、征服以前には、いずれもが国家形成には至っていなかった」のであり、「国家形成は、遊牧民と農耕民との暴力的接触を媒介にして始まり、前者が後者を非支配民として抑圧するその抑圧装置の発達によって完成に向かうという考え方」である。「遊牧民の項目に農耕民、農耕民の項目に狩猟採集民を代置することも可能です。換言すれば、国家は内発的に興るのではなく、食料獲得形態を異にする二つの民族集団の接触により興るという説なのです。」(P606)
では、血縁的原理と、地縁的原理が、排他的にではなく、内包されて国家という空間的に拡大される幻想と結びつくその関連はいかなるものになるのか。吉本以前に、この問題を深く考えていた一人が、ロバート・H・ローウィの『国家の起源』である。ローウィによれば、血縁と地縁の絆の絡み合いの説明には、「結社(アソシエーション)」を分析するしかないと主張し、その典型なものが、「男団体と女団体という性の二分法に基づく」ものだ。家庭に父親が常在して核家族が成立してくると、共同体への求心力ではなく、遠心力(離反力)が強まってゆくが、そのタイミングで、結社が登場する。血縁に関係なく、全ての男性、全ての女性という集団形成が、地域的な絆をうちたてる。が、ローウィは、「性別結社そのものが共同体を国家へと向かわせる駆動力になる」とするには不十分と留保する。理由の一つが、「血族の論理そのものである国王の存在もまた国家形成の要素の一つである」と結論せざるをえないからだ。となれば、それは、結社というよりは、「二重権力」そのものの状態が、国家を成立せしめる「力」になるのではないだろうか。
そう推論し、鹿島は著作をしめくくる。
<意外かもしれませんが、母系の霊能者に代わって祭儀行為を執行するようになった父系の権力者である国王が呪術的な血縁共同体の継承者として神話的権力を担当する一方で、ポロ結社の大王のような実力者が政治的権力を握っているという二重権力状態の中にこそ、むしろ原始共同体を国家へと変容せしめた直接の原動力を見出せるのではないかと思えてくるのです。
つまり、思い切って要約すると、アマテラスとスサノオ、天皇と将軍(執権)という、いかにも日本的な権力の分掌体制はじつはいささかも日本特殊的なものではなく、むしろ国家を成立せしめるための普遍的なものではなかったのかという結論に達するのです。
この意味では、『古事記』をもとにして、神話権力と政治権力の分掌体制の分析に最大の力を注いだ『共同幻想論』は思っているよりもはるかに普遍性をもった国家論であるといえるのです。>(P621)
ここで、読書としては吉本よりも、私世代的にはなじみ深いだろう、柄谷行人の『遊動論』から引用する。(参照;ダンス&パンセ: エマニュエル・トッド著『家族システムの起源』ノート(3)――柄谷行人著『遊動論』と)
<双系制は、家の血のつながりから独立させる。このことは、柳田がいう固有信仰の特性とも関連する。固有信仰では、父系と母系は区別されず、いずれも先祖と見なされる。しかも、このことはたんに、両方を先祖にいれるにとどまらない。むしろ、先祖を血縁と無関係に考えることになる。たとえば、血のつながりがなくても、何らかの「縁」あるいは「愛」があれば、先祖とみなされる。逆にいうと、養子制度が一般に承認されたのも、このような先祖観があったからである。日本では「遠い親戚より近い他人」という考えが一般的である。それは、祖霊に関してもあてはまる。「近い他人」が先祖となりうるのだ。>(柄谷行人著『遊動論』 文春新書)
上には、実証性は、まるでないのではなかろうか。抽象というよりは、想像が、あるいは願望があるのだ。このユートピアは、あるいは柳田が前提とする家・先祖・固有信仰は、高次元で反復されるべく「交換D」とも想定されてゆくが、それも、父権制がある程度導入されている上での二重権力的な状況から想像されてくるものになる。双系制がそのままで血縁関係から人を独立させるものではないことは、トッド参照した鹿島の吉本分析から、その歴史の複雑な成り行きからわかりうる。血縁が切れても関係を結べる「養子縁組」という寛容性は、遊動(山人)が想定される縄文時代にはない。そもそも、まずは父系であれ母系であれ、血縁(親族)しかない小集団だ。
私は、柄谷が始めたNAMという結社を、「男性」集団だと批判した岡崎乾二郎の芸術会合での発言を参照して読解した(ダンス&パンセ: 『NAM総括』(吉永剛志著 航思社)を読む(2))。核家族(双系制)が、個人を共同体から「離反(遠心力)」させてゆく傾向が強くなったとき、そうした古代的なアソシエーションが構想(反復)されたのである。私はこの抽象的な願望と、高群等の願望(母権性主張の歴史的偽造を指摘されたりもしたが、トッドを参照すれば相当な妥当性をもつ)とを対置させてゆくだろうが、まだまだ詰めていかねばならない作業がたくさんある。
「縁」とは、「愛」とは、なんだ?
吉本が言うように、人間は現実よりも観念が先行するなら(右派的には、これを「魂入れ」という)、トッド的な実証性よりも、想像界の力の方が大切なのだ。

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