2026年4月18日土曜日

シュタイナー覚え書き

 


冥王まさ子経由で、シュタイナーを読んでいる。

シュタイナーと言えば、とんでも神秘主義、というようなイメージをもっていただけであり、実際読み始めていくと、いったいこの霊的とされる宇宙現象を、どう理解していけばいいのかと面食らう。コリン・ウィルソンの伝記『ルドルフ・シュタイナー——その人物とヴィジョン』(河出書房新社)でも、やはりその面食らいからはじまる。シュタイナーの霊視、たとえば古代遺跡を訪れたときなどに発揮されてくるヴィジョンには、のちの考古学的な発見などから、当たっている驚くべきことと、はずれていることとが同居していることになるらしい。シュタイナー自身が、霊視と、生得的な教養や知見からくる想像力(イメージ)との区別は難しいのだと、説いている。ともあれ、上の伝記作者は、熟考経過あとには、ある説得性をもってシュタイナーを了解しはじめる。

 

私も、伝記作者とは違う経緯ではあるが、ある記述に、しかも繰り返される認識に出会うことで、この霊的宇宙に入って行ける道筋をみつけたような感じになって、ひとごとでなく、理解しはじめた。その認識記述とは、霊界へ入って行く修養の第一歩は、植物を観察することだと説いているところである。しかしその観察は、いわゆる科学的な、客観的とされるものではない。地中の種から発芽し、花が咲き、枯れ、地に戻る、その推移を、植物の感情に即するように想像していくこと、というのだ。私は、はっとした。私はすでに、妻が私のために植え替えてくれた窓辺の玉すだれや、妻の水俣での家にありダンスの公演タイトルに繰り返し使った<ガーベラ>の花を、私の庭手入れ仕事の看板の下に見つけたとき、まさにそのように、それらの植物を感情的に見るようになっていたからである。いわば、愛でるように見るのだ。そうすると、妻の遺した植物だけではなく、まわりの世界もが、もうこれまでのようには見られなくなる。

 

我が子を災害などで亡くした両親は、たとえその後、新しい我が子を授かったとしても、そこに亡くなった我が子を重ねてみるだろう。昔のひとは、そのように、親しかった人、亡くなった父母、先祖を、重ねてみることができたのかもしれない。ならば、その重なりが、宇宙の始原にまで遡行されて、それを今ここに見るというヴィジョンは、論理的にありうるのではないか。凡人の知覚経験では無理だとしても。

 

シュタイナーは、自分が観察できたことを、西洋の哲学的な文脈においても伝えようとしている。というか、彼がまず着手したのは、そんな学術的な試みである。学問的に、どこまでその論理に正当性があるのか、私には判断つかないが、まずはその観察を論証化してくための基礎的な理論根拠を追ってみよう。

 

※ シュタイナー思想は、まず徹底的な個人主義であり、本人も、「個人主義的アナーキズム」ではないかという評価をとりあえず受け入れている。そのうち、ジジェクの量子論認識の不備、柄谷の遊動(山人—縄文)論における唯物論的に偽装された神秘主義の是非、武士道における霊性の当否、吉本の「共同幻想論」(鹿島茂のトッド認識ふまえた論考参照)と高群逸枝の男女性(量子)「一体化」への憧れとの関連、ゾンビ化してゆく世界宗教側からのスピリチュアリズムへの反論の強度(佐藤優監修の『危機の時代の神学』等)、そう追求する思考を相対化させる論点の是非、など、覚え書きとして書きとめてゆこう。

 

以下は、シュタイナーの『自由の哲学』(高橋巌訳 筑摩書房)からの、抜粋引用である。

※ 引用上にある強調傍点は、このブログの表記形式にないため、省略してある。

 

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「形而上的実在論は、運動によって接近したり、諸対象を意識化したりすることによる、知覚し得る事物相互の関連づけを認める場合、そこにひとつの現実を措定している。しかし形而上的実在論が認めるその関連づけは、思考で表現され得るものであって、知覚され得るものではない。その理念的な関連は恣意的な仕方で知覚されているかのように扱われている。そのようにしてこの立場は、永遠の生成過程の中にあって現われては消えていく知覚対象と、知覚対象を生み出す永続的な働きである知覚し得ない諸力とから現実世界を合成する。

 形而上的実在論は素朴実在論と観念論の矛盾だらけの混合物である。この立場が仮定する諸力は知覚し得ぬ存在でありながら、知覚の諸性質を担わされている。この場合は、知覚を通して認識し得る世界領域の外に、知覚では役に立たず、思考によってしか把握できない、もう一つの領域を存在させようと決意した。けれどもこの立場は、思考が仲介する存在形式である概念(または理念)を知覚内容と同じ確かさを持った現実要素であると認めることができない。知覚できない知覚内容という矛盾を避けたいのなら、思考によって仲介される知覚内容相互の関係が概念と同じ存在形式を持っていることを承認せねばならない。形而上的実在論から間違った構成部分を取り去ってしまえば、世界を知覚内容とその概念的(理念的)関連との総体として示すことができる。こうして形而上的実在論が辿りつく世界観は、知覚内容を知覚し、知覚内容相互の関係を思考する、という原則を立てる。この世界観は知覚世界と概念世界以外の第三の世界領域を存在させることができない。いわゆる現実原則と観念原則という両原則を同時に働かせる第三の世界領域を存在させることができないのである。

 形而上的実在論は知覚対象とそれを知覚する主観との間の理念的関係以外に、知覚内容の「物自体」と知覚主観(いわゆる個体精神)の「物自体」との間にも現実的な関係が存在する、と主張するが、この主張は感覚世界の経過と共通したものでありながら、しかも知覚できないような存在経過がある、という誤った仮定の上に立っている。さらにまた私は自分の知覚とは意識的、理念的な関係を持っているが、現実世界そのものとは単なる力動的な関係しか持ち得ないという主張も、すでに指摘した誤謬を犯すことになる。力の関係は知覚世界(すなわち触覚領域)の中でのみ語り得るのであって、その外では語ることができない。

 われわれは形而上的実在論が最後に辿りつくこのような世界観を、その矛盾だらけな要素を排除した後でなら、一元論と名づける。なぜならこの世界観は一面的な実在論を観念論と結びつけて、高次の統一体としているからである。

 素朴実在論にとっての現実世界は、知覚対象の総計である。形而上的実在論の場合、知覚内容以外に、知覚し得ない力にも現実性が与えられている。一元論はこのような知覚され得ぬ力の代わりに、思考によって獲得される理念的関連を措定する。そしてこの関連こそが自然法則に他ならない。自然法則とは知覚内容の相互関連についての概念による表現なのである。」(P143~P144)

 

「人間ひとりひとりが自分の個性を主張しようとしているときに、いったいどうして共同生活が可能だと言えるのか。間違った理解をする道徳家はこのような非難を加えるであろう。道徳家は人びとが共通の道徳的秩序を前提にして、ひとつに結ばれるときにのみ、人間の共同体が可能となると信じている。このような道徳主義によっては理念界の調和ということが理解できない。私の中に働く理念界も私の隣人の中に働く理念界も同じものであることが分からないのだ。勿論個的理念の統一という事実は経験からしか得られない。当然のことである。なぜなら経験や観察以外の何かによって認識されえるものであるなら、それは個的な体験ではなく、一般的な規範になってしまうであろうから。個人がそれぞれ個的な観察を通して他の存在を知るときにのみ、個性が尊重される。私と私の隣人との相違は、互いに異なる精神界を所有していることにあるのではなく、共通の理念の中から私の隣人が私とは異なる直観内容を受け取る、という点にある。私の隣人はその人自身の直観内容を生かそうとし、私は私自身のそれを生かそうとする。ふたりとも理念から糧を得ようとして、物質的にせよ、精神的にせよ、外的な衝動には従おうとしないならば、私たちふたりは同じ努力、同じ意図の中で互いに出会うことができるであろう。道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感によって従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。行為への愛において生きること、他人の意志を理解しつつ生かすこと、これが自由な人間の基本命題である。そのような人が認める「あるべき態度」とは、その「あるべき態度」が直観を通して意志と結びつくような場合に限られる。個々の場合にどのように意志するのかを告げるのは、その人の理念能力なのである。

 人間本性の中に根源的な調和を基礎づけるものがなかったとすれば、それを何らかの外的法則によって植えつけることもまたできないであろう。それぞれの人間個性が同じ精神の所産であるからこそ、人間は相互に調和的に生きていけるのである。自由な人は、別な自由人が自分と同じ精神世界に属しており、同じ志向の中でその人と出会えると信じて生きている。自由な人は隣人に同意を求めたりはしない。同意することは人間の本性にとって当然だと思って、同意を期待するのである。このことは、特定の外的制度の問題ではなく、心構えや魂の在り方の問題なのである。自分が評価する隣人と魂の在り方を通じて共に生きる人は、人間の尊厳を最もよく理解するのである。」(P185~P186)

 

「素朴実在論も形而上的実在論も、同じ理由から自由を否定することになる。いずれの場合にも人間を必然的な外的原則の執行者にすぎないと考えている。素朴実在論者は知覚できるもの、または知覚から類推できるものを本質と見做し、この本質の権威に従属しようとする。あるいは自ら「良心」と解釈する抽象的な内なる声に従おうとする。そしてそうすることにより、自由を殺している。人間外的な何かに信をおこうとする形而上学者は、人間を「本質自体」によって機械的または道徳的に規定されていると考えるので、人間に自由を認めることができない。

 一元論は知覚世界の正しさを認める。したがって素朴実在論の正しさを認めないわけではない。ただ、直観によって道徳理念を獲得できない限りは、どうしてもそれを他人から受け取らざるを得なくなり、道徳原理を外から受け取る限りは、どうしても自由であることはできなくなる、と考える。一元論は知覚内容と並んで、理念にも同じ正当性を認める。人間の個体の中に現われる理念に突き動かされて行動する人が、自由な自分を実感することができる。しかし一元論は単なる論理だけを追う形而上学の正当性を決して認めない。いわゆる「本質自体」に行動しようとしても、その正当性を認めることはできない。一元論から言えば、知覚可能な外からの強制に従う限り、人間は自由に行動することができない。自分自身だけに従うとき、はじめて自由に行動できる。知覚や概念の背後に潜む暗い無意識の強制を、一元論は是認しない。他の人の行為が自由を失っている、と誰かが主張する場合、その人を不自由な行為に駆り立てている事物や人間や制度が知覚可能な世界の中に見出せなければならない。感覚的現実もしくは精神的現実の外に行為の原因を求めようとする人の主張を一元論は受け容れない。

 一元論から見ると、人間は或る部分では自由に、別な部分では不自由に行動している。人間は知覚世界の中では自分が自由でないことに気づき、自分の内部に自由な精神を生かそうとする。

 単なる論理に従う形而上学者が高次の力の現れと考えている道徳命令は、一元論の立場からみると、人間の思考内容なのである。一元論にとっての道徳的世界秩序とは、まったく機械的な自然秩序の模像でもなければ、人間外的な宇宙秩序の模像でもなく、まったく自由な人間の所産なのである。人間は自分の外にいる存在の意志ではなく、自分自身の意志をこの世に実現しなければならない。人間は他人のではなく、自分自身の意図や発想を生かそうとする。一元論は行為する人間の背後に、人間の意志を支配する宇宙統治の目的などを見ようとはしない。人間が直観的に理念の実現を計ろうとするのならば、もっぱら自分の人間的な目的だけに従わなければならない。どんな個体も自分自身の特別な目的に従っている。なぜなら理念界は人間共同体の中ではなく、それぞれの人間の個体の中でしか自分を十分に生かすことはないのだから。集団の共通目標とは、ひとりひとりの個人意志の結果であるにすぎない。大抵は少数の優れた人物が発案し、他の人たちはその権威を認めて、それに従うのである。われわれひとりひとりは自由な精神になるという使命を持っている。それはちょうど、どのばらの芽もばらの花を開かせる課題を持っているのと同じである。

したがって一元論は、真に道徳的な行為の領域においては、自由の哲学である。一元論は現実哲学なのだから、自由な精神が非現実的、形而上的に制限されることを拒否はするが、素朴な人が物質的、歴史的(素朴実在的)に制約されているという事実を無視はしない。一元論にとって人間とは、人生のどの瞬間にも存在全体を開示できるような完結した所産なのではない。人間が自由であるかないかを議論しても意味はない。一元論は人間の中に進化する存在を認める。そして現在の方向を進めば、自由な精神の段階に達することができるかどうかを問おうとする。

一元論からみると、自然は人間を完全に自由な精神に育ててから、世に出そうとしたりはしない。自然はある段階までは人類を導くが、たとえまだ不自由な存在であったとしても、そこから先は人間が自分で進化を遂げて、自分自身を見つけ出すことのできる地点にまで至らしめようとする。」(P197~P198)

 

「世界の統一的な解釈、つまり本書で扱われている一元論は、世界解釈に要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。つまり自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求める。一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうとすることを拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている。この統一を通して物質的、精神的な世界領域へ入っていくのである。このようにして求められた統一の背後に、さらに別の統一を求めようとする人は思考によらなければ認識衝動が満足されないことを認識していない。個人は世界から切り離されてはいない。個人は世界の一部分であり、現実に宇宙全体とも関わりをもっている。この関連はわれわれの知覚に対して扉を閉ざしている。われわれははじめ、個人が宇宙の内部で単独に存在していると考えている。なぜなら宇宙の基本力によって生命の輪を回転させているベルトやロープを知覚していないからである。この観点に留まる人は、全体の一部分である個体がそれぞれをまったく独立している本性として、単子(モナード)として、それぞれ外の世界から何らかの仕方で情報を受け取っている存在であると考えている。本書が述べる一元論では、個体の独立性は知覚内容が思考によって概念世界の網の目に組み込まれていない限りにおいてのみ存在する、と教える。このような知覚内容と概念との結びつきが生じるとき、孤立した存在は知覚上の単なる仮象に過ぎないことが明らかになる。人間は自分が宇宙における完結した全体存在であるということを、直観的思考体験によらなければ見つけ出すことができない。思考は知覚上の仮象を打ち破って、われわれの個的存在を宇宙生命の中に組み込む。客観的な知覚内容を含んだ概念世界の統一はわれわれの人格の主観的な内容をも取り込む。思考は現実の真の姿を、完結した統一体として、われわれに提示する。知覚内容が多様性をもっているように見えるのは、身体組織の制約の下に現れる仮象にすぎない(一〇五頁以下参照)。知覚の仮象ではなく、真の現実を認識することは、いつの時代にも人間の思考の目標であった。科学は知覚内容の内にある合法則的な関連を明らかにし、そうすることによって、知覚内容を真の現実として認識しようと努める。しかし人間の思考によって認識された世界関連が単なる主観的な意味しかもっていないと考える人は、統一の真の根拠を経験世界の彼岸に存する対象(推定された神、意志、絶対精神など)の中に求めてきた。——そしてそのような考え方に基づいて、経験の範囲内で認識できる諸関連に加えて、経験を超えた第二の知識を得ようと努めた。つまり経験内容と経験不可能な本質存在との関連を明らかにしてくれるような知識を、である。このような知識は体験ではなく、推論によって獲得されて、形而上学になる。」(P271~P272)

 

「思考の中には人間が現実の中へ精神的に参入することの出来る要素がある。(この思考体験に基づく世界観を単なる合理主義と混同してはならない。)けれども他方また、本書の精神全体から、知覚要素が思考によって把握されたときにはじめて現実の内容となり得るという立場が明らかになる。思考の外には、現実と呼べるものは存在しない。したがって感覚的知覚だけが現実を保証する、と考えてはならない。知覚内容として生じるものを、人間は人生の途上で期待し続ける。しかし次のように問うことはできる。「直観的に体験される思考の観点からみて、人間が感覚的なもの以外に精神的なものを知覚できると期待してもいいのか。」このことを期待してもいい筈である。なぜなら直観的に体験できる思考は確かに人間の精神活動ではあるが、同時にそれは感覚器官なしでも把握できる精神的な知覚内容だからである。自己活動が同時に自己知覚されているのである。直観の中で体験される思考においては、知覚する人間が精神界へ移されている。われわれは知覚内容としての世界の内部で、自分の思考が産み出す精神界を、精神的知覚世界として認識する。この知覚世界と思考との関係は、感覚的知覚世界と感覚との関係に似ている。それを体験する人間にとって、精神的知覚世界にはどこにも未知の部分が存在しない。なぜなら人間は直観的な思考の中で、すでに純精神的な性格をもった体験をしているからである。このような精神的知覚世界については本書が出版された後で出版された数多くの私の書物が取り上げている。『自由の哲学』はそのような後期の著作のための哲学的な基礎づけである。なぜなら本書は正しく理解された思考=体験がすでに霊性=体験であることを示そうと試みているからである。」(P282)

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