先月、仙台市へ行く。
妻の母の実家と、私の母の実家とが、どれくらいの距離感で在ったのか、体感してみたくあった。
また、いく子は亡くなる5年ほどまえか、仙台にとどまっていた親族の葬儀に妹と出掛け、ひとり居残り、幼少の頃の思い出の地を歩き回ったようで、その軌跡を、グーグルマップの履歴情報で見ることができる。
水俣にいた小学生の間、夏休みにはほぼ毎年、仙台市の母の実家に里帰りしていた。その様子は、小学生1年生の時からの、ジャポニカ学習帳の作文ノートに、日常のエピソードとして描写されている。
両親が亡くなったときに残した戸籍簿には、母の実家は、花壇にあったと書いてある。いく子も、その広瀬川の蛇行域に半島のような地形である住宅地をくるくると歩き回っている。私は、当日のいく子の歩行順番どおりに、まず葬儀のあった北四番町あたりの迎賓館から南へと下り、そのまま行けば私の母の実家があったという河北新報社に突き当たるので、まずはそこに立ち寄ってから履歴をたどることにした。
母は、戦争半ばで多賀城の方へ疎開し、以後はその地で暮らすことになったので、もう河北新報社の隣へんであったという場所に実家はない。というか、もうその近辺は、中央警察署や中央郵便局とかがある、官庁的な中心街に含まれるようになっており、住宅地ではなくなっている。そこから、東北大学の脇道を通りながら、お互いの母が通った片平丁小学校へと向かう。花壇地区へゆくのにも、そこは通らねばならぬ通路となる。三分ほど歩いてたどり着く小学校は、建て替え中だった。その校門の向かい側あたりに、川へと降りる階段があるのに気付く。そこを降りてゆけば、広瀬川に沿って、川べりの土手を歩き、花壇へと向かう橋を渡ることができるようだった。
川べりを歩きながら、私は思い出し、思い当たった。小学生も3年生ころか、母と二人で、鈍行に乗って仙台へとゆき、広瀬川沿いを歩いたということを。ならば、この道しかありえないではないか。だからおそらく、母は、思い出の小学校を見たあとで、やはりその前の階段をおり、こうして子供の私を連れて歩いたのではないか、そして伊達宗政の銅像のある青葉城あとへと向かったのだ。しかし思い出にある川辺は、こんな切り立った崖の下を流れる野性味ある川の土手ではなかった。どうも、父側の実家がある群馬の、前橋の市中を流れる広瀬川と混同されているようだった。母はよく、青葉城恋歌を口ずさんでいたが、その哀切なメロディーとともに脳裏に浮かんでくるのも、東京市内の神田川の情緒をたたえているような前橋市の清流になっていた。
花壇地区は、南へ降りた川がくるっとまた北へと蛇行してもどる、その半島の先の方にあたった。戦前の面影などないだろうが、静謐さをたたえる町としてうずくまっていた。が地形とその位置からして、もし川の勢いと水量が増したならば、この半島はえぐられたり水没してしまう恐れがあるのではないか、という想念がやってきた。川の向こう岸が青葉城の山である。軍事的にも、要衝の地にあたるのではなかろうか。あとでスマホで調べてみると、やはり洪水の被害が多い地区であり、藩の時代に直轄の果樹園として切り開かれたので、花壇という名がついたのだと説明があった。混成岩(メランジェ)的な地層なのかと思ったが、川の堆積層として岬のように突き出てきたそうである。高橋、という妻の母の旧姓も、気になってくる。
小学校からは、歩いて5分ほどの地帯になる。いまは外国からの移民労働者の住むアパート住居が多くなったともいうこの住宅地の中を、いく子は往復したようだ。その中に、立ち止まったポイントがあるようなので、そこを捜していってみた。この地区の看板地図がある。もう古くなってしまったままのようである。いく子はこれを見て、思い出を想い起こすようにしてから、住宅内の路地道に入っていったのだろうか。それから大橋をわたって、青葉城の山を登った。ここまででも1時間以上は歩くことになり、さらに急な山道を登るのだから、大変だったにちがいない。伊達政宗を背景にした自撮りの写真が幾枚か残っている。駅までの帰りはバスを使ったようだった。
ところが旅路後、妹さんに報告してみたところ、母の実家は花壇ではなく、少なくとも私たちが訪問したころは、違う住所にあったのだという。私はよく迷子になるので、番地を覚えさせられていた、東一番一丁目の一だという。そういえば確かに、いく子はその辺でも足を止めていた。河北新報社からは北に歩いて3分ほどのところ、北番地の迎賓館から降りてきた途中にあたるような場所だ。その近辺はより駅の繁華街に近いから、なおさら民家があるようなところではなくなっている。
ならば、なんでいく子は、花壇地区を歩きまわったのだろう? 姉妹がよく行ったという市民プールは、花壇地区の北側に隣接した場所にあったようで、その住宅街の中ではない。まだ母のもとの実家が残っていて、祖母にでも連れられて、そこに行ったことがあって、何か思い出があったのだろうか。
戦争前、母と母は同じ片平丁小学校に通っていた。1年生と6年生だから、知りあいになるような接触はなかったろう。が妻の母は、昭和18年、6年生のとき、朝日新聞と文部省が主催する「全日本健康優良児童表彰会」に選ばれている。校長先生より、皆の前で、表彰されたであろう。1年生の私の母は、その姿を、見上げていたはずである。私の母の実家は、自転車屋でもあった。当時は東北大の先生たちが乗るだけのような高級品だったそうだが、地主の娘であったという母も自転車を乗りこなせていたようだから、お客として、私の母の実家に出入りしていたのかもしれない。
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