2014年9月1日月曜日

息子の事故

「バルセロナってクラブは、”学校の寄宿舎”みたいなもんだってことがわかってきた。選手たちはみんなファンタスティックだし、あいつらには何の問題もない。バルサにはアヤックスやインテルでも同僚だったマクスウェルがいや。だが、どいつもこいつも、スーパースターとしての振る舞いをまったくしていない。それも奇妙じゃないか。リオネル・メッシ、シャビ、アンドレ・イニエスタ、そして他の選手たち誰もが、まるで小学生みたいなんだぜ。世界のトップスターたちが、ここではへいこら頭を下げている。俺にはまるで理解できなかったよ。イタリアでは監督が「ジャンプしろ」と言ったら、選手は「なぜジャンプするんですか?」と質問したよ。だが、ここでは誰もがこっくりとうなずいてジャンプする。まるで調教された子犬と一緒だぜ。なんて居心地悪い場所だ。それでも俺は自分に言い聞かせたぜ。「この状況を受け入れないといけない。先入観をもつな!」と。何とか適応しようと努力し始めたんだよ。そしたら俺は飼い慣らされた子羊みたいになっちまったぜ。あり得ねえだろ。親友で代理人でもあるミーノ・ライオラは、「ズラタンに何が起こった? ズラタンじゃないみたいだな」と言ったよ。」(ズラタン・イブラヒモビッチ著『I AM ZLATAN IBRAHIMOVIC 沖山ナオミ訳 東邦出版)

夏休みの最後の日、息子の一希は自転車事故を起こして救急車で運ばれる。下り坂の途中で人をよけようとして、電柱に激突、後頭部を打つ。仕事途中にきた女房からのメールによると、図書館へむかっているときにだそうだ。脳検査では異常はないが、様子見のためそのまま入院。傷口をホッチキスでとめてあるそうだ。仕事を終えて家についてみると、子供の事故の連絡にあわてて外へでていったような空気がある。勉強机にもなる食卓の上には、夏休みの宿題の読書感想文の、女房の添削した赤鉛筆で直された原稿用紙が広げられたままだ。図書館には、この二日前に、私と一希はいっていて、そのとき息子も何冊か借りたはずだ。ということはつまり、読書感想文の添削最中に喧嘩がはじまり、「それなら違うのを借りてやりなおす!」とでも一希はいって、逃げるように出ていったのだろう……そう、私は推論した。
病院に出向くと、ベッドで寝ていた一希は顔をあげた。ショックで深刻そうな表情をしていた。ベットわきで、女房が看護婦から説明を受けている。女房は、子供の無茶な運転やノーヘルメットが事故とケガの原因である前に、自分が因果をつくっていることを、自覚しているのだろうか? 私は、そんなことを問い詰める気にはなれなかった。3.11以降、学校の勉強をしつこく迫るその態度、それでいて、原発反対だの政府がなんだのと、御託を並べる情勢にはうんざりだった。自然の大きさのまえに、そんな勉強の強要や屁理屈に固着していることが信じがたい。もっと、おおらかでいろ、そう、自然は教えてきているのではないか?

私は、自分があの頃、枝おろし最中に木から落ちて、この同じ病院に入院していたときのことを考えた。なんで神は、息子に事故をおこさせたのか? 私にか、私たちにか、何を知らせようとしているのか? これから、どうしてほしいというのか? どうすべきだというのか? それを読解する、なにか他の兆候が起きていないか? いつしか、そんなふうに、私は考えていた。

2014年8月9日土曜日

弱いまま勝つ

「馬庭念流を百姓剣法と云うのは、半分は当っているが、半分は当らない。むしろ源氏の剣法だ。諸国の源氏が野良を耕しながら武をみがき、時の至るを待っていたころの姿がそっくりこうだったに相違ない。違っている一事といえば、馬庭ではもう時の至るを待っていないだけだ。それだけに、畑に同化するように、剣にも同化し、それを実用の武技としてでなく天命的な生活として同化しきった安らぎがある。一撃必殺を狙う怖るべき実用剣を平和な日々の心からの友としているだけなのだ。全身にみなぎりたつ殺気はあるが、それはまたこの上もなく無邪気なものでもある。終戦後は村の定めも実行されなくなって、寒稽古にでる若者の姿が甚しく少くなってしまった。
「みんなスケートやスキーを面白がりまして、そっちへ行きたがりますな」
四天王はこれも天然自然の理だというような素直な笑顔で云った。馬庭の剣客は剣を握って立つとき以外は温和でただ天命に服している百姓以外の何者でもない。まったく夢の村である。現代に存することが奇蹟的な村だ。この村の伝統の絶えざらんことを心から祈らずにいられない。(坂口安吾著 「安吾武者修行 馬庭念流訪問記」)

「弱いまま勝つ」、というようなタイトルの、高校野球もののテレビドラマを最近までやっていて、子供が録画してよくみていた。その一希のなかなか勝てないサッカーチームの現状を評して、コーチをしている俺が悪いからだと女房はなじってくるし、息子も負け癖がついてひねくれてくるので、「そのうちわかる、弱いまま勝ってやる、俺がそれを証明してやる」――と言いかえしていたのが一月ほどまえ。そしてどうにか、この夏のフットサルの地域大会で準優勝して、その証明を果たすことができた。まさに、普段の中心選手も欠いた弱いままの勝利だった。他のチームのコーチからも、「サッカーが必ずしも技量だけではない、ということが体現されているような試合」と評価された。ひとりひとりが、暑さにまけず、最大のモチベーションでのぞんでくれた。コーチの一番の難仕事は、技術の教え以前に、まずは子供から信頼を得ること、そしてその心をつかんだら、こっちからこっちへと、まだ子供たちにとって未知の世界へともってくる腕力である、と私はおもっている。はじめて準優勝のカップを手にして、子供たちは、やれば新しくみえてくるものがある、という感覚を覚えただろうか?
 しかし目指しているのは、ミニゲームではなく、あくまでサッカーだ。小さいコートでの、反射神経中心の試合なら、ハアハアいう我慢でなんとかなるところがある。が、大きなフルコートでは、それだけでは無理になる。違った我慢が必要になる。慎重にやること、ミスを小さくするような丁寧さ、判断することの持続、つまりは、肉体的だけではなく、神経・精神的な静かな我慢を身につけなくてはならない。そのための練習方法、アイデアはあるけれど、果たして、子供たちは練習にきてくれるのだろうか? くるようになるだろうか?

2014年7月20日日曜日

ザック・ジャパンと育成問題

「余談ではありますが、私は近年の日本の育成現場で流行っている「教え過ぎない指導」、「ボトムアップ理論」には少し危機感を覚えます。おそらく、こうした指導や理論は「指導者が常に指示を出して選手を機械的に動かすのを避けましょう」という意味なのでしょうが、私は指導者が選手にサッカーのプレーの仕方を教えなければ選手がサッカーを学ぶことはできないと考えています。」
「私的な意見ですが、日本サッカーの育成年代においては戦術指導への理解と戦術指導のできる指導者がもっともっと増えていくべきだと思っています。スペインでは育成年代から当たり前のように戦術指導が行われ、それが大人になった時のパフォーマンスにつながっています。これは私がスペインで6年間指導をして得た結論の1つです。」(坪井健太郎著『サッカーの新しい教科書』 KANZEN])

ネットなどの記事によると、元サッカー日本代表監督のザック氏は、アジア杯で優勝したあたりからだったか、途中で自分のやり方を選手に指導するのではなく、選手に任せる方向に方針を変えたという。ブラジルW杯後のインタビューなどを考慮すると、私見では、おそらくザック氏は日本人の人柄や文化に惚れてしまったのだろう。誠実で真面目なこの選手たちをまえに、口うるさく言うことから降りてしまったのだろう。しかし、本心は、彼らの能力や真剣さでは世界では勝てない、という認識はあったのだろう。だから、いきなり本番の試合で方針をかえた、自分の色をだした。結局本試合で長い起用をされたフォワードは経験豊富な大久保であって柿谷でなく、終了間際にはパワープレーの指示をだす。「勇気」をもっていつものプレーができる(た)か否か、という視点からザック氏はW杯予選リーグ落ちを評価したが、一番に「勇気」を欠いて普段とは違う方針に転換したのは監督本人だったようにみえる。あるいは、たしかに、相手のドロクバより先に大久保の選手交代がなされていたら、とか、偶然的にも日本が初戦に勝って決勝トーナメントへ進出できた可能性もまるきりなかったわけではないようにもみえる。が、大会全体からみたら、やはり日本の実力は、世界大会レベルで互角に戦えるレベルにはないと、まずは球際での真剣さレベルでそう思わざるを得ない。だから、私たち第三者がとる態度とは、勝った負けたの結果からではなく、勝っても負けても存在してしまうだろうその問題点を認識分析し、それを克服していくよう持続的な方針を理念として握持しておくことだろう。そういう評価の視点からして、ザック・ジャパンのW杯での惨敗は、育成年代でのサッカー指導の問題点、矛盾点をあぶりだしてくれたのではないかとおもう。

要は、ヨーロッパ人のザック氏は、日本にきてプレイヤーズ・ファーストという方針で普段の練習・試合に臨んだ。が、ぶっつけ本番で、監督の戦術的な色をだしたのだ。このブログでも、選手(子供)優先のサッカーというヨーロッパからの指導方針と、その日本少年サッカーをヨーロッパのコーチがみていう、「日本の子どもたちはテクニックはすぐれているが、戦術的理解がない」という評価とは、矛盾しているのではないか、と指摘してきた。自由にやるのと、作戦を理解してやるのと。この矛盾点を、日本のサッカー協会は理論的に解決していない、そのことが、育成の現場でも、各コーチの指導法のちぐはぐさやパパコーチ同志の確執として現れてくる、と。私自身はこの矛盾を、自由とが、算数の問題を解く自由と理解すれば、それは矛盾ではなく、本来的な思考態度として引き受けていく前提なのだ、と理解した。靴紐のリボン結びという例題を比喩に使いながら。そういう見方をしていた、哲学教養が前提にある私には、上の坪井氏の提言や、W杯の分析での指摘は首肯しうるものである。しかし、坪井氏の提言をそのまま日本に輸入するような発想だと、つまりは、例題からただパターンを暗記・習得していくだけの、明治以降の遅れた近代化の日本の態度のままだと、結局は、同じことになってしまうだろうと、危惧する。

<日本人選手は「ボール扱い」に関しては世界でも有数のレベルにありますが、これはボール扱いに関して非常に高いレベルでの自動化がなされているということなのです。
 さらに日本のサッカーがレベルアップするためには、戦術の経験値と戦術メモリーの蓄積を図り、戦術的にも自動化を図ることが必要です。>(同上)

W杯でのドイツの優勝が意味するものとは、この戦術の「自動化」である。社会学的にいえば、それはサッカーのエリート化、「官僚化」を意味する。徹底的にパターン・定石を暗記しておくこと。そのバリエーションのデータ化とそれに対応するオートマティック(組織・集団的)な対応の暗記・訓練化こそが、現在と今後の世界の潮流になっていくだろうと。坪井氏は、そう純粋にサッカー分野でのことを考えているので、この事態にまつわる文脈、とくには日本というアジアあるいは世界の途上国の中でいち早く近代化をなしとげた教育システムにまつわる社会問題上の諸文脈については、無意識であろう。ボール・コントロールといったテクニックのレベルであれ、戦術上のことであれ、それが「自動化」(暗記反復化)される発想を伴ったとき、遅れてそれを学ぶ側には、その動機自体は学ばれない。ゆえにまた、自分の本来性といったものに拘らないで変化できる、できた日本の文化的土壌でこそ、ためらいもなく暗記教育にまい進し、遅れた近代化を見かけ上はなしとげることができた、というのが人文的な一般的教養であろう。そして日本ではとくに、その暗記主義、人間の自動化=兵士化を、世界と戦うという現実的政策として、エリートだけでなく、全国民的に総動員しなければならなかった。日本の運動部や会社の新人教育に、上官―下士官と相似の、先輩(上司)―後輩(部下)的な不合理で暴力的な上下関係が導入というより普及してしまっているのは、そのためである。疑似封建制が、社会のあらゆるレベルではびこってしまったのは、軍隊教育を経た戦後になってこそなのである。(読売巨人軍の桑田選手が、引退後早稲田大学の大学院でテーマとして追求したのも、この運動部における暴力の社会・歴史的な考察である。)だから、もし、サッカーの指導もが、個人テクニックをこえて、チーム・集団的な戦術の暗記、監督の作戦理解、といった位相に移行すると、おそらく、この暴力主義が復古精神的に、日本の地として、露呈してくる、そちらにバイアスがかかっていくだろう、と予想されてしまうのだ。「プレイヤーズ・ファースト」を日本のサッカー連盟として普及させていこうとしている池上正氏は、その方向へ転換するきっかけは、自分が選手に対してしてしまった暴力からだったという。それは、曲がった棒をもとにもどすというアルチュセール的なイデイオロギー対応として正当である。もし日本が、より一層の暗記エリート主義にまい進しようとするならば、近代化過程での特殊文脈としての地にからめとられてしまうだろう。現に、子供への育成現場で、その兆候は表れ増加傾向にあるのではないかと推察される。しかし、暗記しても、そうする動機、モチベーションは獲得されえない。ヨーロッパのサッカーが、たえずフィールド上に真理を、ゴール(ゴッド)へむけての真実を追求していくその科学的な合理精神として進化発展してくのは、まったくの不合理な、キリスト教的な情熱、と呼べるものから出来しているのであろう。結局は、どんなに暗記がうまくいっても、0点におさめられることが理論的な結論であって、ゴールは、つまりは神への信仰は獲得されないのである。

しかも、日本の、日本人の底力として発揮されるかもしれぬ情熱、モチベーションは、近代化の過程での追い付き・追い越せ的な情熱、戦国時代の武将群像によって象徴化される男の通俗的な歴史ロマンにあるだけではない。渡辺京二氏が『逝きし世の面影』で前景化してみせてくれたように、何よりも子供優先の社会であり、庶民文化であった。むしろ、近代においてはじめてなように「子供の発見」をしなくてならなかったヨーロッパと違って、日本の庶民社会の間では、近代的に子供の自由を認めてやれた前近代的な社会だったのである。だから、具体的にサッカーの育成現場でも、パパコーチの近代的な父系的厳しさと、前近代的な双系的(父系と母系の特徴が並列同居的)な甘えが、指導作法として混然としてしまう。私なども実際、「曖昧な日本の私」(大江健三郎のノーベル賞受賞講演タイトル)になってしまう。しかしそれでも、「暴力」にバイアスがかかるぐらいなら、何もしないでほったらかしにしていたほうがマシであろう、とおもう。

だから、理論的な実際は、以上のことを考慮したうえでの、各コーチ自身の内省と各子供への洞察と、それの実践へ向けての手腕ということになる。その個人の力自体が難しいのだ。たとえ、一般的に、理論的な解がわかっていたとしても。アトレチコ・マドリードの監督の戦術を問題とするだけではなく、あのきかん棒な選手たちにどうやってその方針を浸透させてモチベーションをあげていったのか、その監督個人のノウハウこそが問題で重要なのだ、とする指摘もあるように。「プレイヤーズ・ファースト」を実践する池上氏でも、子供に勝手なことをさせているわけではなくて、その現場での洞察に従った、しかも各子供ひとりひとりへの洞察にしたがった、臨機応変な実践力で対応しているのだろう。それは、ハウツー的に、パターンとして学べるようなものではないであろう。

<サッカーをする本当の楽しさは、真剣にプレーして、負けると悔しくて、もっと練習してうまくなりたい! と感じることです。練習中に仲間とふざけ合っている楽しさは、サッカーを楽しんでいることではありません。一生懸命取り組んでいるのなら、ぜひ見守ってあげてください。>(池上正著『少年サッカーは9割親で決まる』 KANZEN)

私は、日本のサッカー現場における(サッカーにかぎらないが)、育成の方針は、やはり上記の池上氏の考えが大枠でいいとおもう。しかし、指導する具体的な内容において、若いコーチたちが勇気果敢に現地へもぐりこんで内側からつかんできた情報をいかしていく、フィードバックしていく更新転換の体制を、日本のサッカー協会はとっていくべきであろうとおもう。

*ほか、サッカー育成問題に関わるブログ
2012.7 「ユーロ・サッカーから――世界とコーチング
2013.5 「サッカーと戦争(ロジックとロジスティック)」/「数と形(サッカーと政治)
2013.8 「夏休みの宿題にみる戦争(サッカー)の論理
2013.12 「少年サッカークラブの育成から
2014.2 「サッカー<プレイヤーズ・ファースト>の自由」

2014年6月25日水曜日

W杯と9条 ――ゴミ拾いと居合い抜き

「当事者がどこまで自覚しているかは別にして、客観的に見た場合、沖縄県は、信頼もできず力もない東京の中央政府に対する交渉に見切りをつけている。そして、米政府に直接働きかけることによって、突破口を開こうとしている。危機的な状況になると沖縄と沖縄人には、セジ(霊力)が降りてくる。セジを霊力と訳したのは久米島出身の沖縄学者・仲原善忠だ。船にセジがつけば、航海の安全が保障される宝船になる。セジは人にもつく。沖縄県が優れた外交能力を発揮しているのも、目に見えない沖縄と沖縄人を守るセジによるものと筆者は考えている。」(佐藤優著『宗教改革の物語 近代、民族、国家の起源』 角川書店)

日本代表最後の戦い、残念に終わった。前半はとにかくなりふりかまわぬ必死さがプレーに感じられて、なんでこの真剣さを最初からださなかったのだ、Jリーグの練習の時から、とおもった。結局3試合、今回は攻撃サッカーをするぞ、と勢いよく敵地に飛び込んで行って、相手チームの真剣な、大人の強さにあしらわれて帰ってくることになった。しかし、ほとんど大人対中学生くらいのメンタルと頭脳の差があったと私には見えたが、そこまでくるのにも20年かかっていて、ここでの口惜しさと内省を、とくには次のある若い選手がまた一歩前進させてくれたら、と願ってやまない。またそれは、われわれサポーターもが成熟していく必要があることを同時に意味してくることだろう。

とくに最終試合のコロンビア戦、とくに後半に司令塔の10番がでてきてから、私はまだ20代前半のころ、日本バブルがはじけた直後の1990年代初頭から、夜勤の荷物担ぎのバイトを日系を中心とした南米からの男たちと一緒にしていたころのことをおもいだした。ああいう抜けめなさ。普段は怠けているようでいて、というかほんとに仕事はしたくないので、適当にやりすごしながらも、ここで踏ん張れば楽ができる、というポイントを見出すや彼ら全員がドバっと示し合わせていたかのように集中力を発揮する。そのカウンターの一点からみれば、日本人の勤勉さや忍耐などだらだらやっているようなもので、効率がわるい。その賢さとテレパシーがあるかのごとき集団性が、私にいまもって強く印象づけられている国際体験、カルチャーショックだった。このチームプレーは、歌舞伎町や六本木などでの遊びの場でも発揮される。とくに、日本の女の子にちょっかいだそうとするときに。

そんな光景をみてきた私からすると、試合後にゴミ拾いする日本のサポーターのニュースは、外国のメディアも肯定的に報道していたとはいえ、嘘だろう、本当は「よくやるよ」と軽蔑していたはずだ、となる。俺たちは真似しないけど、偉いことは認めてやるよ。だから、今後もたのむね、と。で、たとえばそう日本人があからさまにいわれたとして、果たしてかの善きサポーターは黙々とゴミ拾いを続けられるだろうか? その覚悟があってやっているのだろうか? むしろ、善意でやっているのにそんな仕打ちとは、と逆上気味になるか、泣き寝入り的に引き下がるのではないだろうか? 自分のゴミを拾って帰るのはいい(あたりまえだが)、しかしそれ以上のことをすることには、自分の行為を世界基準で客観視し、それでもやると主体的に折り返す、習慣的ではない思想的な営みとして引き受けていかなくてはならないのである。だからおそらく、外国の集団がゴミ拾いしたら、それが貧しい人たちの仕事を奪う搾取行為だ、とうの左翼言説からの批判をも織り込んだ、闘争的な、だから組織的に持続可能な体制的なものになる気がする。少なくとも、そんな覚悟なくして、善意の押し売りみたいなことはやってはいけない、というのが私の労働現場からえた国際感覚である。弱い奴は、用心して、大人しくしていろ。それができるのが、大人だ。そう仕掛けてくる相手に、前回ブログの冒頭で引用した、荷物担ぎのユダヤの思想家ホッファーのように、こちらも知恵を返してやり返してやれること、それが、相手から「ばかではない」と認められ、フェアな”友達”になれる条件である。そして、ほんとうに弱いことを自覚して大人しくしている、立場の弱い日本の中高年の労働者たちに、彼らはほんとうにやさしくするのである。中途半端な賢しらは、売られた喧嘩は買うよ、に始末する。ブラジルでゴミ拾い、とは、喧嘩を売っているようなものであろう。

選手でも、サポーターでもみえたその日本人の弱さ。そのことがまずわれわれに自覚されてきた大会だった、と私は分析する。いや、攻撃するぞ、とかいってそうさせてもらえなかったザマなのだ。そうしなくてはならない。そしてそのことに、卑下する必要はまったくない。その自覚と内省があって、はじめて将来にむけた、いや今からはじまる、日本サッカーの戦い方が見えてくるのではないか、とおもうからだ。少なくとも、私には見えたような気がしたのである。
真面目で勤勉であり忍耐強い、という弱さ。人間的な喜怒哀楽・浮き沈みというよりも、機械的な一定さ安定さの中での方が自分たちの力を発揮させられる、という弱さ。オランダやドイツのように豪快に緻密に攻め切れるわけでもなく、イタリアや南米の中堅チームのように自陣に引いてカウンターを狙い一点を守りきれる賢さもない。しかしこれは、自分たちの弱さに徹していないからではないか? コロンビア戦、本田は一人で不器用なドリブルをゴリゴリ仕掛けてボールを奪われ失点する。単純に、奪われ方がまずすぎる。同時に、攻撃的なサッカーを標語してきただけに、カウンターに対するケアが育成されていない。オシムが助言していたように、そもそもセンターバックの足がおそすぎる。かといって高さも中途半端。そうしたことすべて、自分たちを過信し買い被っていたからだ、と自覚しよう。だからでは、自分たちの弱さに徹するとはどういうことだ?

私は、居合い抜きのイメージを提供しようとおもう。日本の武士、サムライの得意技といったら、これだろう? カンフー激のように格好良く刀を振り回すのではなく、ただにらみ合い、ひたすら戦わないでにらみ合い、相手がしびれを切らして動きをみせた隙に一撃を与えて終える。イチローの打法もある意味では居合い抜きだ。ホームランをかっとばす技術ではない。自分の小ささを自覚したところからくる弱者の一撃打法、内野案打戦法だ。で、それがサッカーではどうなる? スペインのポゼッションサッカーからゴールを目指す攻撃性を抜いたものだ。……ん? つまり、自陣に引いてカウンター狙いで守るサッカーではなく、敵陣に引いてゴールを狙わないパス回しサッカーだ。そして、ひたすら相手がへばり、足がつるのを待つ。そうなった最後の5分間で勝負する。勝をとれなかったらしょうがない、俺たちは世界で勝ちきれる柄ではないのだ、と自覚している。その自覚の先にだけ、運が良ければ、W杯優勝もあるだろう、と割り切っている。単調な、機械的な動きを忍耐強く、勤勉にこなしつづけ、その退屈さに付き合える外国チームは少ないだろう。しかし、すでに、日本代表のU-17は世界大会でこの退屈さとポゼッションゲームの模範例を示していたではないか? いや、ザッケローニの戦術もまた、ギリシア戦、フランスの新聞によれば眠くなる試合運びをさせる「催眠術師」だとのことだった。この、スペインサッカーとは似て非なるものこそ、日本の戦い方として、われわれに合った世界性を持つのではないだろうか?

おもえば、本来、日本の柔道とはそういうものだった。相手と組み、動かない。相手が耐えきれず反撃にきたときに、その力を利用して投げる技だった。が、それではいつになっても勝負をつける戦いがはじまらず、退屈なので、オリンピック用にルールが変更され、早く戦え、と急かされるようになっているのだった。いや、オリンピックだけではない。日本の憲法もそうだ。9条を抱えて、専守防衛というわれわれに合ったやり方で無理なくここまできたのに、世界で戦え、戦えるように、と、弱さを自覚・内省することなく、中途半端な賢しらで、原則の解釈だけを変更して打って出ようとしている。そんなに世界のゴミ拾いがしたいのか? じゃあやって、たのむよ。俺たちは、後方支援でいいからさ、と、私には一緒に仕事をしたコロンビアやペルー、チリやアルゼンチンからの労働者たちの声が聞こえてくる。われわれの弱さを自覚しろ、ウルグアイやコスタリカのサッカーのように。集団的自衛権だって? 自分のゴミだけを拾うことしか、われわれの度量ではできないのだ。そしてその弱さを自覚することにこそ、、世界の人々との連帯や、心からの共有が芽生えてくるものなのである、というのが、私が労働現場から得た教訓である。

2014年6月12日木曜日

学習塾と知性

「…私はすぐに汗だくになり、ジャケットだけでなくシャツも脱ぐことになった。それ以降、仕事はまるで急斜面をはてしなく登りつづけるようなもので、このままやれるのだろうかと思った。しかし、向いの相棒を見ると、落ち着き払っていて、新しいシャツには一筋の汗も見えない。それどころかまるで遊んでいるかのようだ。
 まもなく、私のまわりでおかしなことが起っていることに気づいた。みなが私の様子をうかがっており、株式市場のブローカーのように、指で合図を送り合っている。そして、彼らはしきりに笑ったり、しゃべったりしていた。相棒は鼻歌を歌いながら、仲間たちにウィンクをしている。起っていることが何であれ、それが私のことであるのは間違いない。それが何かわからなければ、自分の知力への自信が失くなってしまう。相棒の動きを注意深く観察してみた。なぜあんなに簡単に仕事がこなせるのだろうか。体は私の半分しかなく、力も二分の一なのに。突然、喜びがあふれてきた。わかった!」(『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 中本義彦訳 作品社)

小学校も高学年になると、学習塾に通っているため、サッカークラブの練習や試合にこれなくなる子も多くなる。東京23区内の高台地区に居住する学校のクラブコーチの話では、学年の8割ぐらいの子が、中高一貫の受験に備えるようになるという。谷底の方の学校の子たちはそこまではいかないようだが、ぽつりぽつりとでてくる。母親の顔をみていて、だいだい予測がつく。子どもにきいてみると、やはりそうで、五学年から塾の成績順によるクラス分けができて、その競争についていくのに大変になるそうだ。ちょっとノイローゼ気味になっているのではないか、とその子の様子から心配になって気もするが、他人の家の方針にかかわることまで深入りはできまい。ただそういう事情をコーチとして知っていると、練習に来ない奴はだめ、と排他的に、あるいは運動部的に対処するのは子供の成長にとってよくはないだろう、と判断するようになる。子ども自身は、仲間とやりたいのだから、親の事情にしろ、コーチの考えにしろ、大人の都合で一方的に試合にもでられなくなることは、不可解だろうから。

受験に受かってから、その中学のクラブチームで伸び伸びと上達していく、ということも多いだろう。というか、公立の部活動チームより、そうした進学校のチームのほうが、強いようにも見受けられる。サッカー専門のクラブチームよりは技術的に劣るかもしれないが、いわゆる頭の良い子たちは運動もできる、というのが相場だろう。たしかに、脳みそや体が柔軟な小学年代をボールコントロールの足技習得に全うできなかった時間は取り返しがつかないが(だから、サッカー専門的にやってきた子供たちにはかなわなくなるのかもしれないが)、守備や戦術的なポジショニングによって、そうは点をとられないサッカーができてゆくのだろう。サッカー経験のない大人でも、子供相手にはそれなりにやれてしまうのと同様だ。

息子の一希が、サッカーを専門的にやっていくほどそれが好きかどうかはおぼつかない。ひたすら壁にボールをぶつける遊び練習をしていて、あきない、なんでだかボールをいじっていると時間がたつのを忘れる、そんなサッカーというより、ボールに選ばれているという感覚がないと、本性的に難しいだろうな、というのが私の経験である。野球をやっていた私は、あきなかった。ひたすら、隣の人の家のブロック塀にボールを投げ当てては捕球していた。どんなボールでもとれる、そんな感覚がみについてくる。しかしそれでも、技術的には社会人野球レベルにはなれたかもしれないが、スポーツを仕事とめざしていくには、何か性向的に違っていたのだ。むしろ私は野球を材料に、より広範で突っ込んだ思考を突き詰めていく読書をやる方向に向かった。しかし読書人としても、プロにはなれない、セミプロレベルで、野球の場合と同じなようだ。これは半端というよりも、専門的にはなれない隙間に入り込む性向として自分が出てくる、という感じだ。だから、20年以上やっている植木職人という仕事よりも、なおフリーターのままという、なんでもない感覚のほうが強いのである。

そんななんでもない私が、一希をはじめ子供たちにいいたいことはこうだ。

学校の勉強でも、サッカーの練習でも、それは社会や世界にでたとき、ほんとうの問題に直面し解決していくためにやっていることなのだ。君たちは、スパイクを履くためにリボン結びという結び方を学んだ。それを知らなければ、すぐにほどいて結びなおすことも難しい。しかしそれは、その結び方を暗記していればいい、ということではない。その背後にある、本当の問題、すぐにほどけなくてはならない、すぐに結べなくてはならない、という矛盾を洞察し、理解する、ということが肝心なんだ。そこを理解すれば、君は、リボン結び以外に、もっといい結び方を発明できるかもしれない。一つの例題を、学習をとおして、君は自由な発想を手に入れる。だから、ならばもっと問おう。なんで「すぐに」ほどいて、結ぶ必要があるのか? 時間がない? 時間がないとはどういうことだ? 種や苗をを植えるのにだって、いつだっていいわけではない。時季をのがせば、のんきにしていたら、食糧も手に入らなくなる。つまり自然自体が、われわれ人間をしてその矛盾をせっぱつまらせているとしたら?
最近、プロサッカーの試合中、こんな事件があったね。ブラジル代表でもある黒人の選手が、コーナーキックを蹴ろうとしたら、観客からバナナが飛んできた。それは、おまえら黒人は猿で人間じゃねえだろう、という差別表明を意味していた。その瞬間、この選手はコーナーキックを中断したのではなかった。とっさにバナナをひろってむいて食べて、そのままプレーを続行したのだ。もし彼がそこでプレーを中断していたら、観客と喧嘩になって試合どころではなかったかもしれない。(かつては、バルセロナにいた当時のエトー選手がこうした状況に追い込まれて、試合が中断したことがあったんだよ。)差別には反対しなくてはならない、それはサッカーよりも大きな問題だ。試合をやめなくてはならない、続けなくてはならない、この矛盾を、彼は一瞬にして解決して見せたんだ。バナナを投げた当人は、面食らって、自分を反省する機会をもたされたことだろう。
しかも、この実践に対する他のサッカー仲間の反応も早かった。同じブラジル代表で黒人系のネイマールは、バナナをもって「俺たちはみなサルだ」というメッセージをネット上で発信した。だって、ヒトはサルから進化した、というのが西洋(白人)の科学なんでしょ、ならば、俺たち黒人だけがサルだというなら、白人の科学は嘘をついている、世界に嘘をまき散らしている、ということかい? どっちがほんとうなんだ? 俺たち(だけ)がサルだというのか、ヒトはみなサルだというのか? ――そう、根源的な問題を問い詰めている、ともいえるよね、世界の仲間と連帯しながら。

君たちも、こうした本当の知性を発揮することができるだろうか? 

2014年5月21日水曜日

植物とこころ

「私は、植物とは感情のやり取りをする間柄ではないが、植物が生を宿していることを尊重する気持ちには、揺るぎがない。人はしばしば「生きている」ということと、「感情のやり取りができる」ということとを、直接イコールで結びがちなようだ。しかしそれは違う。生きていることと、感情のやり取りができることとの間には、かなりの飛躍がある。このあたり、文化的な問題もたくさんあるし、それこそ人間の脳死問題と直結する鍵でもある。「感情移入できる」ことと「生きていること」がイコールだという発想は、非常に危険だ。裏返せば、これは「感情移入できない」=「話が合わない」ものは、人間であろうと生きていないのと同じ、ということにもなりかねないからである。つまるところ、民族紛争や宗教対立はこれと同じではあるまいか。」

「現在多くの医学系研究者が探している条件、つまりはほ乳類でも体細胞の分化全能性を引き出すことのできる条件が、今後発見されると、医学水準は急激に変化することだろう。…(略)…そのうえ、これら全能性のある幹細胞研究に先んじれば、将来の医療ビジネスでも、戦略的に研究を進めることができる、というわけだろう。いっぽう日本では、ゲノムプロジェクトに政府・民間企業が消極的であったため、アイデアでは先んじていたのに、あっという間に取り残されたばかりか、クローン人間に対する感情的嫌悪感から、この胚性幹細胞の研究までもが、よりによって一時的に禁止されたりもした。願わくは、この措置が、国家戦略の誤算ではなかったことを祈りたい」

「きっと将来は、こうした幹細胞の利用により、ヒトのいのちの見方は、植物のいのちを見る見方に変わらざるを、少なくとも近づかざるを得なくなるはずである。病気や怪我の治療は格段に容易になるだろう。事故で手足を失った人も、自分の体の一部に分化全能性を発揮させることで、自分の手足を取り戻すことができるようになるかもしれない。これを喜ばない人はいないと思う。一方、体の修復が容易、あるいはいつでもやり直しがきくということから、美容のための整形は体の隅々にまで及び、盆栽の剪定なみに気軽に行なわれるようになるかもしれない。いや、それどころかソメイヨシノのように美しい個体は、クローンで増やされる時代も来るかもしれない。それを不気味と思うかどうかは、植物的な生命感をヒト社会にも受け入れることができるかどうか、という一点にかかっている。」(塚谷裕一著『植物のこころ』 岩波新書)

植木屋だからということもあって、15年前に書かれた上引用の植物の本を読んでいると、「スタップ細胞はあります!」と泣き叫んだ女性の背景に、どんな社会的・時代的圧力がかかっているかがうかがえてくる。その万能細胞の発見発表のまえに、製薬会社関連の株売買があって政治家がからんでいたのではないかという疑いや、東大・京大の派閥支配の学者社会の中で早稲田理工の女子が犠牲になったという意見、まして「国家戦略」にまでなる分野だそうだから、追い越され遅れた日本の巻き返しの焦りとアメリカとの思惑との間で、陰謀まがいの政治的やり取りもがあったのかもしれない。真相の全体を知っている当事者は、おそらく誰もいまい、とオレオレ詐欺組織の実態と同様なのだと推察するが、この植物学者の塚本氏の話を読むかぎり、「スタップ細胞」というか、万能細胞がある、というのは「いのち」にの在り方にとって前提的らしい。その潜在能力、才能のスイッチを入れる、発現・発芽・させる人為的条件が発見・発明されたかはわからないが。

去年小学4年のサッカー・トレーニングセンター選抜試験では落ちた一希が、先月の5学年試験ではゴールキーパー候補として合格した。テスト前、所属チームでやっていると申告したフォワードとキーパーのうち、どちらかを選んでとテスト・コーチからいわれて、一度フィールド・プレーヤーとして落ちたものだから、キーパーでなら受かるかもしれないと、そう自身で判断したそうだ。もぐりこんでしまえば、いわばみなとの一緒の練習が中心だから、コーチからも「足先がやわらかくてドリブルがうまいね」とほめられて、フィールドプレーヤーとして調子づいている。周りの上手な子たちを抜きはじめたので、試合でも状況とは関係なく余分なドリブルで仕掛けては失敗する。「試してみたかった」というが、それならまあいいだろう。個人能力や技術に落差の大きいチーム内では、なかなか素早いプレスの中での対応技術がみにつかなかった。環境に必要がないので、いくらコーチングしても、理解できなかったのだ。日本で英語の勉強しても、その生活的な必要がないので、なんでそんなことまでするの、と、モチベーション的なレベルでまずつまずいてしまうのと似ている。一希と一緒にテストを受けたもう一人の子も、前評判は他チームのコーチの間でもよかったのだが、その必要ないところで安泰してしまった必死さのうかがえないプレーで落選してしまったのだろう。一希もテスト中、強いチームの子たちの早く強いプレスの連続にびびったプレーをしていたけれど、自分は受かってみんなと一緒にやってみたいんだという真剣さがひしひしと伝わってくるプレーだった。しかしいまは、というか、たった二回センターの練習に参加しただけで、はやその状況に適応し、そこでの必要な技術を発揮している。もう一人の子も、なんとかもぐりこめれば、一希以上に素早く適応し、自らの才能を発現・発芽させてただろうに。つまり必要なのは、その潜在性を発揮させる環境条件にあるのだ、ということだ。

しかし、人間には「こころ」があるのではなかろうか? もしその子が、プレスのかかった練習環境にある強いチームに入って、コーチからの厳しい指摘も受けながら、たとえそこでの技術を身につけたとしても、内心にはどこか歪みを生じさせないだろうか? 発育にあわない、早すぎた習得は、なんでこんなことまでするのか、という疑問を自身に納得理解させる暇を与えない。いわば詰め込み教育である。トレセン試験中、かつて同じチームメイトで、いまは上手になりたいと強いチームに移籍していった子は、「俺トレセン落ちたらサッカーやめるよ」と、言っていたという。それは、本末転倒した事態ではないだろうか? トレセンの練習中でも、すでに二段階上の地域トレセンにも選ばれている強豪チームのキーパーの子は、「俺キーパーしたくなかったんだよ」、ともらしていたという。サッカーやりたいからと入部して、すぐにキーパー専門として育てられる、というのは、その子の「こころ」に、やはり何か歪みを発生させないのだろうか?

万能細胞が開発されて、つまり、われわれの身体の潜在能力を発現させる適応条件が解明されて実現されるとき、それが早すぎた適応としてわれわれに「こころ」の歪みをも抱え込まさせるともかぎらない。それは社会に対し、歪んだ判断をも根付かせてゆく。いやそもそも、植物にも「こころ」があるとしたら? その「こころ」は、学者が植物のいのちの在り方、継続の仕方から解釈する「生命観」ではなく、われわれにはうかがい知れない「こころ」である。

2014年4月21日月曜日

9条と論理

「一つ目の特徴として、通常の学問では、論理、整合性が高い方、理屈が通っている方が論争に勝つんですが、神学論争では常に論理的に弱い方、無茶なことを言う方が勝ちます。その勝ち方というのは狡猾で、軍隊が介入して弾圧を加えるとか、政治的圧力を加えるという形で問題を解決するんです。つまり、神学は非常に強く政治と結びついています。/ 二つ目の特徴は、神学的思考は積み重ね方式ではないということです。実は、神学的な論争というのは全く進歩がない。そもそも論理的に正しい方が負ける傾向が強いという、でたらめな傾向があるわけですから。しかし、それでちょうどいいわけです。勝った方は、ちょっと後ろめたいことをして勝ったと思っていて、負けた方は、政治的に負けただけで、われわれの方が正しい、筋は通っていると思っていますから、両方合わせると大体バランスがとれる。」(佐藤優著『サバイバル宗教』 文春新書)

上引用の佐藤氏の発言は、私の教養を塗り替えるものである。私は、坂口安吾の、日本の禅坊主が宣教師との論争に負けてキリスト教徒に改宗していくものも多かった、つまり非論理な禅問答と論理を通してくる宣教師との有態の話を聞いて、そういうものか、納得できるな、と思っていたのである。もちろん、論理の訓練を受けている者が、それに従って行動してくるとは限らない。また、佐藤氏の発言の範疇は、「神学論争」において、ということだから、より広範な文化・社会的問題にはあてはまらないところもあるのかもしれない。が、その論争が政治的に、あるいは戦争で解決されてくる、というのだから、神学問題を超えてくる行動規範になるだろう。それがどんな範囲程度になるのか、私には推定できないが。
が、博学的に教養豊な小室直樹氏によれば、欧米人にとっての論理とは、有言実行のことだから、言ったことは必ずやる、という態度と一緒ということである。となればつまり、論争で負けたと認めたのならその通り実行する、というのが欧米人の道理、ということになるのだが、むろん、佐藤氏のこの発言では、神学論争に負けた方が、負けを認めたと言ったのか、負けを暗黙に認めざるを得ないので認めず、負けてないと戦い始めるのか、は不明である。佐藤氏と小室氏の論理をつじつまあわせれば、論理的には(頭の中では)負けを認めても、負けと言わず(論理明言せず)、戦争をはじめる、ということになる。
となれば、政治的・武力的にも劣勢な者(国)は、論理的に勝っても戦争になってやばいが、論争に負けても屈従的になるからまずい、という二律背反的な事態になる。どっちをとるか? となったら、個人では前者ですむかもしれないが、庶民を巻き込む国の問題となったら、屈従的でも生き延びるほうを選ばざるをえまい。――が、そんな背反態度に追い込まれるのは、その二項対立的な論理にはまってしまうからだろう。

『これからどうする』(岩波書店)での柄谷行人氏の発言、態度表明は、そうした論理のワナからメタレベル的に立とうとするものだろう。地政学的にみて、日本はアメリカの論理(言い分)をたててそっちにつくと中国との関係がまずくなり、中国の言い分をたてればアメリカとの関係が悪くなるのはわかりきっている、だから、日本国憲法9条の理念を高々と掲げて実行していこう、どちらにもつかない論理を公にだしていこう、というのがそのメタ論理である。(ロシア・カードという3項目が使えなくなれば、なおさら2項対立のバイアスは強くなるだろう。)それが空想的でないのは、みんなの前で武力放棄と戦争する国家主権を放棄してみせれば、そんな丸腰の国を襲うのは卑怯になるので、手出しはできない、ということを想像してみればいい、という。たしかに、密室の中で、凶器をもった相手に「殺すなら殺してみろ!」と脅しても本当に殺されるかもしれないが、公衆の前にでてそう叫んだなら、無暗に手は出せなくなるだろう。が、戦後自衛隊をもち、高度成長をなしとげた日本が今更になってそんなことをしても、本気でそれを周りに信じさせるのは容易ではないのではないか? いやもっと一般的にいって、個人間の丸腰ならともかく、国との関係となったら、たとえば、弱い丸腰のような国が一方的に強国に攻撃されても見捨ててきたのが世界、現代史なのではないか? 私には、柄谷氏の態度というかアイデアが、単に理念的な話だったら有効であるとはおもえない。ただ私は、プラグマティックな意味で、それは有効にもなりうるかもしれないとはおもう。つまり、小室氏が、リンカーンの奴隷解放宣言とが決して理念的に掲げられたのではなく、もう南部に負ける、という土壇場を形勢逆転し、イギリスに参戦させないために打ってでた大博打なのだ、と言ってみせるような。それなら、日本が9条を主体的に持ちなおしてみせることに、実践的な有効性が折り返されてくるかもしれない、とおもう。どのようなタイミングかはわからないが。しかし、公に宣言したならば、有言実行しなくてはならないのが、今の論理世界である、というのが小室氏のさらなる教示であった。日本人はその論理(言ったこと)の厳しさがわかっていないと。

9条をノーベル賞に、という運動があるようだ。私は、類として、その運動というか、運動を発案した主婦の反応を面白いとおもうが、すでにノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のその後や、オリンピックが東京に選ばれたこと自体が東アジアで戦争をおこすなという世界政治的なメッセージだったのにそれを知らずに、東京誘致決まった直後に靖国参拝してみせる阿部総理の行動をみていると、既成の左翼運動に絡みこまれたようなその一主婦のはじめた運動は、頓挫させられてしまうのが実際なのではないか、とおもう。ゆえになおさら、それがその現実を超えていく類としての伝染性、思想的な共有制ではなく、類としての共感性に期待したくなる。フロイトが、戦争は生理的にいやなのだ、それでいいのだ、と期待したように。

それにしても、柄谷氏は、かつて石原慎太郎氏との対談で、自衛権は自然権だから憲法を超えているのだと発言し、それ(武力)を肯定する石原氏の態度と意気投合していたときがあった。どう理論的に連なって、9条宣言になったのだろうか? 前掲書の佐藤氏は、「評論家の柄谷行人さんも、「日本人が物事を真面目に考えれば必ず京都学派になってしまう」ということを、ぼそぼそと、あまり理論的に精緻にはしない形で言っています。」と述べたりしているが、状況に対する直観的な実践としてそう発言したのだろうか?