2018年1月23日火曜日

にわ、について


にわ、と『磯崎新と藤森照信の「にわ」建築談義』(六曜社)では、ひらがなで表記されている。しかし二人の談議を読んでいると、むしろ、「庭」、つまり朝廷に通じるテイへの当て字としての「にわ」、という趣が強いと感じる。そのことは、談議の第一章「自然信仰と「にわ」 日本古代の儀式と神遊び」において、天皇の「国見」への言及からはじめられていることからも、知れてくる。

磯崎 …『古事記』などの時代には、天皇は国見をやっていますね。国見というのは、どこか高いところに立ってあたりを見晴らすわけじゃないですか。
藤森 山の上へ立って、民のかまどを見るんですね。
磯崎 おそらく自ら統治する国はどの範囲かなんて考えているのでしょうが、そのついでに、かまどの煙が出ているのを見る。その煙が、そこに家があるという目印になる。つまり。火をそこで使っているという認識ですね。家はおそらく藁屋根ですが、生活がある。国見は見晴らすという行為がまず基本にあって、そこで何がおこっているのかというイメージは、その次に出てくるのではないかなという感じがするんです。国見の意味は、今の解釈だと「ここまでが俺の領地だ」という確認だけれど、本来はもうちょっと本質的な我々のものの見方の始まりであって、その場所に住めるか住めないか、人間の生きている場所はいったい何なのかということを感じることから始まっているのではないかと思います。そう考えると、藤森さんが言うように、建築というのは、お据えものですよね。その建築が一個ではなくて、いくつかの家から煙が出ているということがすごく重要だと僕は思うんです。
藤森 むしろ古代的な宇宙観というか、世界観というか空間観ですね。その中に点々と建つ火のある場所に人間は閉じこもって暮らすのだけれど、たしかにそこにいる人たちにとっても、自分たちの住んでいる外界を眺めることは、古い時代では、重要な行いというか喜びだったかもしれませんね。
磯崎 『海上の道』(一九六一)で、柳田国男は潮の流れに乗っかって「漂着」することで、人はまず、その地に住みこむのだと言っています。おそらく、高台や山頂に登って、まずは見晴らしたのでしょうね。
藤森 そもそも美とは何かということを考えたことがあるんですが、それを今の話からも考えることができる。国見や狩りに行くと、新しい原野を見るなど、必ず新天地を見る機会がありますね。そのときに彼らは、その場所がいい場所か悪い場所かということを、直感的に認識したんじゃないかと思います。おそらく、今だと調査をして判断するけれど、そうではなく直感的に見るというのは、たとえばどこかが崩れているとか、あるいは木が倒れているとか、何かわけのわからないものがあるとか、そういう場所はきっと避けたでしょう。つまり、視覚的な統一がそこにあるのをよしとして、その統一感を、今の言葉で言うと「美しい」と感じたんじゃないかと私は思っています。…>

にわ、が和語として、「日和」と漢字表記されもしたのは、これから漁場に向かうものが、天気をみようとしたからである。その「見晴らす」行為は、つまり「にわ」は、あくまで朝廷の「国見」から来るものではなく、庶民が生死のかかる場所を見計らい、そこで交流(交通)する=生計を立てることを願う行為(呪術)からくるのだ――という推論を、植木職人をし始めた私はエセーとして残した。

<進士五十八氏は庭の「基本構造」を語源的に探って次にようにのべている。(『日本庭園の特質』)──「ところで、庭(garden site)は建物と一体となって住生活の基本単位となっている。周囲を垣などで囲む構成が様の東西、時代にかわりなくみられるのは、敵の侵入や強風から家を保護するのが、庭の基本機能だからである。庭園を意味する東西の語源に「enclosed space」があるのもこのためである。たとえば東洋では、庭〈テイ〉─建物で囲まれた場所、園〈ソノ〉─果樹の植えられた囲まれた土地。西洋では、Garden─ヘブライ語のgun( protect and defendの意味)と、eden( pleasure and delightの意味)の合成語、Yard─アングロサクソンのgeardすなわちhedge,enclosureから由来したもの、である。」そして以上の考察から庭の「本質」には「囲い」があり、その囲われた内部に理想環境のイメージ、楽園やユートピアの表現がおこなわれるのだと。それは、「庭─囲われ閉じられた空間─楽園・ユートピア─田園─自然─風景・景観─ランドスケープ」といったイメージ連鎖の支柱になるだろう。おおまかには、庭を自然と結び付けてしまう思考である。

しかしそれは本当のことだろうか? 語源的な考察は、自然主義の一変種たるロマン派によくみられる傾向だが、それはわたしたちの生きた系譜を見失わせてしまいがちである。自分の遊び場のことをニワといい、ヤクザ者がここは俺のニワ(シマ)だ、と言う時、その用法には明確な囲いという常態的な安定ではなく、境界地がいつ塗り替えられるかもしれない動態的な不安定さを、あるいは生き生きとしたものを提示していないだろうか?

ニワとは、古語として「日和」とも表記されたりもした。(*)それは陸上の広々とした空間にたいしても用語されたが、おおくは海上の空間を意味し、また天候の善し悪しにも言われた。どういうことだろうか? それはこれから海へ、陸の何処かへと航海や旅にでるものが、その日の空模様と海の様を注視するにあたってでてきた語意ではないか、つまり、庭とは交通の、交易の空間としての意味が内包されているのではないのだろうか。(――おそらく漁場(天気)としての日和が、「島(シマ)」という造園作りの古語と結びつきながら、庶民的な営みの場で、「庭(ニワ)」として概念創造されていったのではないか――)だから、中世においては、モノとモノとが集積し、交換され、売買される空間のことを、「市庭( イ チ ハ ゙)」というだろう。あるいは関所などで払う交通税のことを、「庭銭( ニ ワ セ ン)」とも呼ぶだろう。また手習のための教科書として使われた冊子には、「庭訓往来」といったものもある。これは書簡体で書かれたものだが、もちろん文通という交通の意味があるからだろう。また江戸時代にもなれば、「庭銭」とは、荷物を宿や倉庫に預けるさいに支払う金のことであり、あるいは祝日などに客が遊女にあたえる金、その逆に遊女が置き屋の主人や奉公人にあたえた金のことをさすようになるだろう。それは遊女が異界との交通空間にいる者だからではないのか。あるいは庭番とは、各地にもぐりこみ情報を集めてくる忍者であり、あるいは共同体とその外との境界にある高木に登りもしやの敵を監視している者である。要するに、庭とは交通の、交易の場所といった意味をもたされているのであり、寺社の境内に庭が多く造られるようになったのは、そこが異界との境界としての、交通としての場所であり、また実際そこは市場=市庭であった。金融の発生が寺社とその僧たちではないか、しかも彼等が造営資金を捻出するためにあみだしていったのではないかという考証は、歴史学上あきらかにされつつある(網野善彦氏などによる研究)。

* 岩波古語辞典によれば、「庭」における「漁場」としての意味が転じて、「日和」となり、「風がなく、海面の静かなさま」をさすようになったとされる。小学館の古語大辞典の「庭」の「語誌」には、「家屋の周りの平らな土地や地面が原義であるが、これは同時に宗教的に神聖な場であり、農業のための生活の場であったと考えられる。やがてそこに草木が植えられ、池や島などが造られると、それはもう美観を主目的とする園(その)であり、山斎(しま)であって、「には」とは区別されていた。」と解説されている。学研の国語大辞典では、「庭」の「水面。海面」を意味する万葉集での用例も、「海全体を指すウミやワタツミとは異なり、眼前の一部の海面であり、海人にとっての生活の場・作業場・漁場としての意味と解される。」とされている。以上の慣用の考察からは、進士氏の語源に返った理解の方が、少なくとも日本(語)の文脈では、自明的であるとはいえないのではないか?>(ブログ「庭から森」/HP「庭へ向けてのエセー」)>

あちらとこちらの境界としての漁場は、陸地にあっては、住居と外との境界としての「土間」であり、そこは作業場でもあって、また「かまど」がおかれ煙があがっていたことだろう。そういう営みの延長として、「にわ」という音韻が「庭」という文字を受け入れる意味的余地を孕ませていたのだ。

公的建築にたつ磯崎氏の発言に、藤森氏が「そこにいるひとたち」と庶民的な異化を導入しようとし、その自分を異化してくれる藤森氏の建築立場を磯崎氏は意識的に挿入・操作しようとしている対談なのだろうが、私には、やはり公的談議に聞こえてしまう――のは、やはり私が「にわ」という語について、職人立場から考えてきたことがあったからだろうか?

とはいえ、私はその「庭へ向けてのエセー」(たぶん20年近くまえに初稿)を、磯崎氏の建築史論からの引用で作っていったのだった。今回の二人の建築談義で、「にわ」を注視するさいの中心の要因は、「石を立てる」、という行為と形象の問題であろう。私の「庭へ向けてのエセー」でも、中心軸は、「石を立てる」という批評行為にある。それは、テイとしての「庭」に対する、「にわ」からの反逆なのだ。

以下、二人の対談から、参考になる主なものを抜粋して、メモとしておく。

     *****     *****     *****

藤森 なぜ人は石を立てるのか。人類はうんと早い時代にスタンディング・ストーンを立てますけれど、あれが太陽信仰と関係しているのは間違いがなくていろいろと世界中で実証されている。私がそれを実感したのは、イギリスの中部に、サークル状のスタンディング・ストーンがあって、そこに夕方遅くなってから行った。そうしたら、岩に触ると昼間の熱でほのかに温かい。いい気持なんです。太陽がこもっているように感ずる。立石が太陽信仰というのは考古学的に間違いない。石を立てると、地上の垂直軸として太陽とつながる。加えて、石がほのかに温かくなり、太陽がしみ込んだように体感される。そのことにイサムさんは理論的に気づいていたかはわかりませんけれど、看取しただろうと思う。
 それともう一つ、日本の庭には夢窓疎石の問題がありますよね。岩にこだわり続けたが、おそらく地上の垂直軸としての立石という意識はなかったんじゃないかと思った。禅宗の面壁九年から来ていますから。
磯崎 大げさに言うと岩の中に入るとか上に乗るとか、そういう自然の中に入りこんでいくという感覚ですね。
藤森 岩とは、石とは何かを、ちゃんと論ずる必要がある。現代において庭を論じようと思ったら三つのことを論じないといけない。庭と建築との関係、庭そのものの意味、それともう一つは、庭で使われている土、石、水、緑が、人間や社会にとってどういう意味があるのか。…>

藤森 独歩は雑木林が美しいとはじめて言った。それまでの日本人は、そうした自然を味わってはいたけれど、美しいと意識化していない。大きな自然についてはヨーロッパのアルピニズムが入ってきて、志賀重昂が『日本風景論』(一八九四年)を書く。信仰の対象だった山を景観として見て、登山を楽しむ道を開く。江戸時代まで自然観から脱することで、小川治兵衛のああいう平明な庭ができた。その後が問題で、よくわからない。その後、日本の庭は何を求めて彷徨っているのだろう。
磯崎 僕もまったく同じことを思いますね。たとえば夢窓疎石が一つの型をつくった。これを大名庭園風に組み替えたのが遠州たち。疎石がいて遠州がいて、あとは小川治兵衛しかないわけです。そうするとこの三人の庭を見れば日本の庭は全部なんだというくらいに考えられる。その後に我々は何をつくったらいいかといったら、もう虚構しかないんですよ。その虚構を、何を手がかりに虚構にするかということもそれぞれ問題が起こる。だから小川治兵衛の場合は田園的なもの、だから武蔵野であるとか田園のいろいろなもので、佐藤春夫、国木田独歩というように、あの時代の好みはみんなつながっていますよね。…>

藤森 もともと石というのは寝ていて、寝た石を起こすことで人類の構築的表現が始まる。日本の歴史で言うと夢窓疎石です。それが小川治兵衛は嫌だった。石をもう一度寝かす。
磯崎 寝かしたままですね。
藤森 小川治兵衛の庭に行くと石は立っていない。この問題に意識的だったのは何度も触れますが、イサム・ノグチだった。イサム・ノグチ庭園美術館には自分の遺骨が入っている丸い石があって、立てて二つに割って中に自分の骨が入っている。人間がやる表現は、寝ていたものを起こすことだと、イサム・ノグチは身をもって表現した。
磯崎 それが立石そのものですね。庭づくり、庭の基本に戻ったということかもしれないですね。>

藤森 人間の体は食べたものでつくられている。食べたもの以外ではできていない。私は人間の脳の中の画像処理能力は基本的に見たものでつくられているんじゃないかと思っている。見たものがいろいろな形で抽象化されて一種の銀塩写真じゃないけれど、外からの刺激に反応する視覚の粒子みたいなものがある。人間は見たものの中から何かをつくっているのではないかと思います。>――この発言は、私の「夢」分析と似ている。


2018年1月2日火曜日

今年からの課題


大晦日と元日を、伊豆で過ごしてきた。
宿泊先の長岡が、北条氏の地盤であり、幽閉されていた頼朝と政子の出会いの地であったことは、地元のパンフをみるまで無知だった。修善寺に行きたいといった女房の一言で急きょたてた予定だった。早起きして、歴史の地を歩いてみたかったが、寝坊してしまった。ホテル裏山の源氏山公園に昇って、初日の出を見るには間に合った。朝靄のなか、伊豆の地形は、地元の群馬の山並みとはちがって、微細に複雑だったが、調和をもっている。修善寺地域にあったジオパーク・ミュージアムで、地球下の三つのプレートの衝突の自然史をおさらいしたが、その自然のカオス的複雑さを、人の文化が調和させてきている、血なまぐさい歴史によって……と感じてきたことにある認識が、奇妙なことのように思えてきた。

初夢は見た。夜半に起きてトイレにゆき、また蒲団に入るまえにカーテンを開けてみると、満月に近い月が、源氏の山にかかっている。携帯の時計をみると、1時半だ。おそらく、先ほど目覚めたときにあった夢が、まさに初夢になるのだろうな、と思う。私は、かつて一緒に働いていた南米からの友達と、セメントか何かを作る作業をしていた。といっても、肉体労働をしているのではなく、その背景にあるらしいコンベアー(子どもの頃の遊び場だった、河川敷の砂利採掘の工場跡地の風景が、重なっている……)が走った大きな工場を、管理しているのか、椅子に座ったペルー人のルイスに、私が何か色々質問している。書き留めなかったので、それ以上のことは、覚えていない。寝付くのに時間がかかったからか、4時半にセットしていた目覚ましの音は、気づかれていない。

夢の雰囲気を伝えるのは難しい。それは、今の私の精神・生理状況を把握するのが難しいのと似ている。年末にかけて、あの相撲界の混乱事件から、ふと、それまで考えていた色々な文脈が一つの束になった。その要約を、トッドの家族人類学や柄谷の世界史の構造を使いながら、自分のやってきた野球部からの問題意識発端から、やったわけだ。いや、NAMの解散以降、息子の生まれた年からなのだから、約14年ほどかかってやっと理解できてきたのが、その短く要約されるものだ。たったこれだけか、という思いというより、そういうもの、そんな程度なんだよな、と、幾度なく繰り返されてきた思考経験から確認する。そしてそうなように、いつもなように、その要約できた束は、またすぐにほどかれてそれぞれの文脈へ、道筋へと走りはじめる、動きはじめるのだ。それはちょうど、色々な波長の光の動きが、プリズムを通して一つに焦点化される一点を持つが、そこを過ぎればまた色々な波長の領域、波線へと拡散されていくようにである。またそういう状況に、今の私はなった、また新ししい振り出しの地点に立たされた、ということだ。しかしそこに、単に思考の形式だけでなく、私の年齢的、そして息子がこれから思春期に入り大人になっていくという家族的状況が付加されている。今年51才になるその年齢は微妙だ。老年ではなく、中年のパワーも失ってきているその最中、落下の加速度が増してきたが、落ち切って安定化するにはまだ遠い……。仕事納めのささやかな宴席には、60過ぎの親方と、70近くになる職人さんと、私。もう終わった人たちの話になる。いや話す事すらない。しかし、私はまだ生理的にも同期できない。実際問題としても、思春期の息子を抱えている。……そうした、生活の状況と、思考の形式的状態があいまって、いま自分が健康なのか否か、不安がないのか否か、充実しているのか否か、というメンタル把握を難しくしているのだ。それがまた、夢の理解を妨げている。

しかし二日目、今日の朝3時、ふとおおざっぱに三つの具体的な課題、考えるべき文脈があることが意識化されてきた。

(1)「川崎事件」から「相撲界の混乱」へ――石井光太氏の『43回の殺意』(双葉社)を読んでいる。それによると、私の見立てよりは、だいぶ古典的な事件という印象を受ける。脱サラして自然にエコに帰る左翼イデオロギーの影響というより(それも間接的にはもちろんあるが)、より先輩―後輩、という、ある意味人類学的な自然により近い領域で理解した方が正当であるようだ。ネット環境などのテクノロジーは、その自然を異化しているというより、補完しているのではないかと見受けられる。まさに、スマホを覗いていた貴の岩をカラオケの端末でぶんなぐった日馬富士とおんなじだ。「そんな暴力はいかん!」とは、モンゴルでは問題にならないだろう。日本でも、戦後途中の言説状況からそれが問題視されるようになった、という特殊文脈はあるけれど、もっと古典的に、根源的に考えてみる必要がある。

(2)息子の進学の問題――親方の孫も、私のイツキと同級生で、今年中三になって受験期にはいる。孫は、まったく勉強ができず、進学する気がないらしい。去年親方の長女と草野球の納会で会ったときの話からすると、母ちゃんも進学などせんでいい植木屋に入れば、と投げやりに考えているようだ。が、じいちゃん、ばあちゃんはそれではすまない。中卒で植木屋になった息子と、おなじ道、おなじようになってほしくはないようだ。ゆえに、熟の講師をやめて、ラオスに青年協力隊で支援活動にいっていた次女を呼び戻し、孫の家庭教師につかせる段取りをとっている。なぜそう思うのかは、推定にしかならないが、中卒でだと世間・視野が狭いままなので、他人のことまで想像力がいかず、地縁・血縁で従業員が成立するわけでもなくなったこの時勢では、もうそれではだめだ、と息子をとおして自覚されてきたからだろう。今のままでは、会社自体あぶない。大塚家具の長女も、父親の路線と対立して今風な売れ線に変更したけれど、赤字になって身内の支援も難しくなったと最近の新聞に出ていた。で、そんな会社にいる私はどうするのか? やはり勉強しない息子に、どう接すればいいのか? 女房の母親の葬儀のさい、工作機械の会社経営している女房の妹の旦那から、「うちに来てくれればすぐに幹部だ」とか言われたけれど、それはないだろう(実はこの発言も、会社を継ぐ気の薄い、大学出て銀行勤めをはじめた3代目の息子が関連している)。ないだろう、と判断するその延長で、義理堅く、今の会社にいるということはどういうことなのか? 老人の仲間に入って衰弱していく、ということなのか? 私がやめる、ということは、親方を切る、ということなのか? 息子とやる、ということは、会社(氏族)を立て直すことに中年最後の力をふりしぼって忠誠を尽くす、ということなのか? いや私がいるからその家族は寄りかかざるをえないので、いなくなれば、もっと真剣に対処しだすのか? 勉強しない息子が植木屋に入ってくることは、そういう状況下で、何を意味するのか? 「いつ会社つぶれるかわからないからな?」と、源氏山を降りながら女房にいうと、「開業してもいいわよ」と言う。……むろん私は、そうした具体的なことどもを、源頼朝家と北条氏との封建的関係で類比・類推的に考えているのである。

(3)野球とアメフトの問題――去年は将棋ブームの影響で、もとNAM会員でもあった、もと早稲田の古本屋の店主と、将棋をけっこうやった。まだ勝ったことがないのだが、その最中の世間話で、アメフトの話になった。たぶん、息子のサッカーの話から、野球になって、そして攻守が明確に切り替わることで同じなアメリカン・フットボールの話にうつっていったのだろう。アメフトは攻撃と守備でメンバーが総入れ替えになるみたいだから、相当な人数でやっているはずだ、でもじゃあどうやって、試合中に選手交代するんだい? とか質問されて私にもわからないので、さっそくその場でネット検索してみたのだ。すると、野球は3アウト制だが、いわばアメフトは4アウト制みたいなものなのだ、と書いてある。そう去年12月、初めて知って、要するにこれは、機会均等、ということだな、サッカーでいえば、ボール支配率を50%づつに近づけるために、10以上パスを回しても得点できなかったら相手ボールのキックオフになる、とか、5分ごとに交代で開始するとか、いうようなルールを作ってやる、ということだな。で、そうなったら、何かおかしくないか? 本当に、それを平等だと人は認めるのだろうか? たしかに、そんなことで、文句をいう野球チームはいない。面白く、公平なルールだと思っている。が、ルールの外に出てみてみると、やはり何か変だ。サッカーも、ボール支配率50%目指す条件下ゲームに、なれればみな納得しだすのだろうか? それに慣れてくるとは、どういうことだろうか? 政治的にみれば、いまやアメリカ自身が、万人に開かれた機会均等、チャンス平等な理念、ルールを、アメリカの夢を崩しはじめている。やり過ぎだ、と大統領が言い始めている。俺たちにもっとずっと攻撃させろ、と。ボールを支配しているのは俺たちなのに、なんで不利益に甘んじて相手にボールを渡してやらねばならんのか、俺たちはなおボールを持っている、と。いわば、アメリカの民主主義の問題だ。が、それは、人の自然な感じで、何かおかしい、というか、何かおかしい、と感じることが、人の自然だとしたら、この自然に対処するために工夫されたルール、方法は、どこがおかしいのだろうか? 相手をとっちめてやるという暴力、それを回避させていく術、知恵。たしかにそれは面白いゲームだった。が、今の状況は、そのおかしさを露呈させてきている。しかしどこがおかしいのか? 変更方は? それともまったく新しき方法で? しかしまずは、どこがおかしいか、とくに私の場合は、野球を例に分析してみることだ。

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(1)は、暴力、(2)は、それへの封建的対応の是非、(3)は民主的対応の是非、とかに要約できるだろう。そしてそられは、暴力という自然への向き合い方の問題、と定式化できる。あるいは、情念と知性、とか。しかしそこまで形式化すると、逆にわからなくなる。なにせそれは、私の生活の問題、どう生活していくのか、ということと切り離せないのだから。そして生活の些事に埋没していると、これまた逆にわからなくなる。

しかし今年は、また、わからない、という振り出しの地点からはじまる。

2017年12月3日日曜日

サッカー部へのメール――相撲界の混乱から(2)

「言語は常に貪欲に大言語であろうと求め、小言語を呑みこみ、その母語によって人々を残酷に差別する一面をもっている。しかも人々は、その残酷さによってしか、自らの存在をたしかにすることができないのである。モンゴル人がモンゴル人であるのは、かれらがモンゴル語を話すという事実によっている。そして、かれらがモンゴル語を話すのは、それが誇りであろうとなかろうと、他の道はないからである。だが人々がこのような認識に到達したときには、ことばは、人類にとってではなく、自分にとって何であるのか、そしてそのようなことばはどのように話され、書かれなければならないかが自覚されてくるのである。」(田中克彦著『言語の思想 国家と民族の言葉』 NHKブックス)

     *****     *****     *****

《○田コーチ、○山コーチ
cc 鈴木コーチ

今日はお忙しい中、ご相談に乗っていただき、ありがとうございました。

○太郎に、帰ってから話をしたら、「いまは、ちょっと(野球よりサッカーが)好きになった。」と言っていました。
私が「コーチのお手伝いするかもよ」、には「いいよ」と。 
皆様のお陰で、サッカーが好きになっているみたいで、第一ハードルは徐々にクリアしつつあります。

○山コーチにはお話ししましたが、
私は○太郎には、サッカーを上手くなることよりも、真剣に取り組むことを望んでいます。
下手でもいいので、できる限り走り続ける、練習をちゃんとする、挨拶をする、等です。
真剣にやるのであれば、本望でないですが、野球でもいいと思っています。

そんな中、1年程見せていただいた中、○五S.C.やコーチという立場に関しての感想は、
・真剣さについては、○五チーム(低学年)は、足りないと感じています。でも、他のチームは知らないので低学年特有の事象なのかもしれません。
・コーチがやる気スイッチを押す必要があるのかもしれないですが、それはどこから、コーチの仕事なのでしょうか?試合の時も空を見ている子、走らない子のスイッチを探すこともやるのでしょうか?
・そもそも、人数が足りないのは人口が減っているからで、チームを維持するために、緩くなりすぎていないのでしょうか?所属人数が問題なのであれば、他チームと完全統合してはだめなのでしょうか?
また、個人的なこととして
・○太郎はサッカーを続けるだろうか?
・次男と遊んであげる時間が取れるだろうか??
等々、いろいろと疑問があるままですので、徐々に、消化させていただければと思います。

尚、私は、他の子供を教えたこともありませんし、自他ともに認める、他人に興味の薄い人間ですので、皆さまが仰っているいるような高みにたどり着けるのか、かなり疑問です。また、かなり短気な方ですので、保護者やほかのコーチからの苦情等来るかもしれません。仕事でもですが、個人的には人にものを教えたり、管理することがうまくないです。ですので、試用期間を半年程度、見ていただき、その後、決めていただければと思います。

私の個人的なことですが、
・コーチの人数が足りていないときには事前に仰っていただければ、次男は連れて行かず、手伝いますのでおっしゃってください。
・練習内容の例は、教えておいていただけると、助かります。
・今も遊びでフットサルはやっていますが、サッカー経験は中学生の時だけです。体が小さかったせいもあり、自分で上手いと思ったことは一回もないですw
・仕事はカレンダー通りの休み(土日祝)です。夏休み・冬休みは不定期/自由に取ります(お盆の間は取らないことがおおいです) 平日の練習は時間的に手伝えないです。今年の冬、12月31-1月9日に長期休暇で不在です。
・実家は北海道です。趣味はスキーとフットサルです。 ○太郎もスキー、かなり滑れます。今年は次男を滑れるようにしてあげようと思っています。
・サッカーで応援しているチームはないです。時々、TVで見る程度。
・会社の上のほうから、ゴルフへの激しい勧誘、命令?が続いています。まだやったことないのですが、そろそろ決壊しそうな状況。

・妻も働いています。
・○太郎は長男で、次男は4歳、その下に女の子1歳がいます。両方保育園に行っています。イベントが余り多くないですが、時々あります。
・妻はサッカーの手伝いなど、頼めばやると思いますが、あまり使いたくないオプションです。妻の遠征の付き添いは兄弟の面倒の関係で難しいです。
・○太郎は今のところ、習い事はしておらず、○2小コメッツにも参加する可能性があります。

以上です、長々と自分勝手なことばかり書いてしまいましたが、できる限りお手伝いしようとおもいますので、よろしくお願いします。

○中》

=====     =====     =====

《鈴木コーチ、

大変参考になるお話、ありがとうございました。

私も少年野球の行き過ぎた指導が嫌で、できればサッカーをさせたいと思った経緯があります。
少年野球は幾つか体験させたのですが、どこも無駄に、大きな返事と挨拶を強要させ、練習も無駄に長い印象がありました。
軍隊野球は脈々と続いているんだな、と感じました。

一方、過去の○五の話もとても興味深いです。
「ふざけが原因で練習が中止」は
サッカーを公園の遊びの延長として捉えないのであれば、もっとも、だと思います。
コーチの方がたも、ボランティアでやっているわけだし、
だらだらと遊びながら真剣 に取り組まないのであれば、中止したり、帰らせたりするのが妥当だと個人的には思います。
学校だって授業中にゲームをしだしたら、先生は怒ったり、授業から追い出したりするのと同じだと思います。

練習を真剣にしないなら、コーチの時間が勿体ない。公園でサッカーしてもらえばいい。
(一方で、親が「しめてください」、というのには、やや違和感がありました。

しめるというか、教育をするのは親の第一義務であり、コーチに丸投げしている感があります。それは、まず親がするべきことにコーチが助けることではないかと。)

というわけで個人的には、ある程度の時期までは、ある程度、絶対服従まで行かなくても、規律は必要だと思います(程度の好みはあるとおもいます)。
小学生に、サッカーでふざけながら好きな練習して良いよ、と言って、自主的に考えられる素地が作られるとは思えません。

少し飛躍しますが、野球の絶対服従は、私はやり過ぎだ、と思いますし、日本の社会の中に根付いていて、現在のブラック企業、パワハラ問題等につながっているのだと思います。しかし、一方で、ドイツや日本など、規律の高い国民性の生産性が高いことは否定はできないと思います。私は欧米留学したこともあり、職場にも外国人がいるので、よく考えさせられますが、日本には日本の良いところがあり、規律や勤勉さというのは、間違いなく優位性です  当然、その逆に硬直性が問題としてあがりますが・・

長くなってしまいましたが、個人的な理想だけ最後に付け加えます。
 負けると悔しがり、下手でも一生懸命に真剣に練習して、努力することの意味を少しずつ見つけ、コーチやチームメイトと交わりながら、協調性 社会性などを付けていけるようなチームであるといいな、と思います。

飲みながら話すと盛り上がりそうな内容ですね。
是非、今度ご一緒させていただければと思います。

今後ともご指導をお願いいたします。

○中》

----- Original Message -----
From: 鈴木  <@yahoo.co.jp>
Subject: Re: Fwd: 2015駒沢フェス動画集

鈴木です。
とりあえず、○中さんの問いかけに、参考として、二つの書籍から紹介してみます。

(1)一つは、セルジオ越後氏の、『補欠廃止論』(ポプラ新書)からです。

<子どもの習い事で、武道の人気が高まっているらしい。どうも補欠がないことと、「礼に始まり礼で終わる」精神で、礼儀が身につけられる。やはり補欠に悩む親は、個人競技をさせたいのだろう。それ自体はよいと思うが、ただ気になるのは、礼儀が身につくからという理由。本当にそうだろうか?
 サッカーでも、試合前にハーフウェーラインまで行き、対戦相手に大声で「お願いします」とおじぎする。試合後はベンチに挨拶に行く。しかし、大人に指示されたから礼をしているだけで、なぜそれをやっているのか本質を理解していない。だから、しまいには誰もいない後援会のテントに向かって礼をする。
 僕はこの光景に驚いた。そもそも、一体相手に何をお願いするというのだろうか?
 ブラジルでは対戦相手に挨拶するところを見たことがない。日本でも、Jリーグでは誰もやっていない。Jリーグどころか、W杯もオリンピックでもやっていない。なのに、大人たちは「礼儀」として教える。
 挨拶する子どもも「なぜやるのか」を考えることはしない。それは想像力に欠け、こなし上手になっているだけだと思う。大人に怒られないように、顔色をうかがいながら行動しているだけ。したがって、武道をやれば礼儀が身につくかどうかは、甚だ疑問だ。
 プロの場合は対戦相手ではなく、サポーターに向かって礼をする。大人になってもやらないことを、なぜ学校では強制的に教えるのだろうか。大声で挨拶するように教えるけれども、社会に出て大声で挨拶したら「うるさい」って言われるよ。(笑)。大人になっても使えるものを教えないと、ますます部活動は軍隊のように感じる。そんなうわべの礼儀よりも、大人と子どもが触れあう社会教育のほうが重要だと思う。
 僕の恩師は「社会」だと思っている。大勢の大人と子どもが集まってプレーして育ったから、誰がサッカーを教えてくれたかわからない。親以外の大人も、多くのことを教えてくれた。>

(2)もう一つは、自分が巨人軍の監督になっても日本のスポーツ的土壌は変わらない、もっと偉くならなければと、早稲田大学の人間科学部の大学院で学びなおした桑田真澄氏の対談『野球を学問する』(新潮社)からです。

<桑田 そうですね。ぼくが飛田穂洲の思想を表現するにあたって「絶対服従」という言葉を使ったのには、理由があります。野球は監督の指示に従ってプレーしますから、絶対服従のスポーツではあるのですが、じつは試合で絶対服従がどれだけ生きるかというと、生きないんです。言われたことしかやらない、言われたこと以外をやると怒られるわけですが、じつはそれでは勝てないんです。
 なぜなら野球では、1球1球状況が違って、飛んでくるボールの速さや角度も違えば、風もあり、打順、点差、さまざまな要因で、なにもかもが変わってくる。だから本当は、自分で考えて動ける選手じゃないと、首脳陣からの信頼は得られないんですよ。でも、練習では絶対服従で、自分の言うことをきく選手をつくっているわけだから、試合に勝てるわけがない。勝てないから猛練習をする。また勝てない。これは悪循環ですよね。>

*この対談は、サッカーJリーグの創設に携わった平田竹男氏となされており、平田氏は、「おそらくサッカー界は、野球の軍国主義的なやり方をすごく否定してきた」のであり、「言ってみれば、野球を反面教師にがんばってきたつもり」なのだという。しかしその過程で捨ててきてしまったものがあり、「絶対服従はいけないが、礼儀正しさとか、丁寧さとか、日本人として守らなければならないものまで捨ててはいけない」、と言っています。

(私は、軍隊野球部を出自とする者ですが、桑田氏と同世代で、似たような問題意識で、大学は文学部に入って哲学的に追求してきました。いま騒がれている相撲界では、貴乃花親方が、桑田氏と似たような立ち回りを演じているようです。)

私の息子の一希が、2・3年のころ、よくふざけが原因で練習が中止されていました。親から、「もっとしめてください」という声も出てきました。○藤監督もその父母会の声におされてそうするか、となろうとしていたとき、木曜日のコーチ担当の長い説教事件があって、「子どもを1時間以上たたせて夜遅く帰宅させるコーチの現状をやめさせてくれ」みたいな話が次にでてきたので、○藤監督も、「コーチの考えに任せている。そこは口出ししない」と、父母会の要求を一蹴することになったりしました。
で、その過程で、私と、当時○六小S.Cの監督をしていた○屋監督とのやりとりで出てきたことです。――○屋監督「子どもをしめてもしょうがないですよ。もし、しめて、子どもがほんとうに黙ってしまったら、もうそのチームは終わりですからね。」私も、その意見に同意しました。
その○屋監督が、去年のライオンズ杯決勝、○五・六合同チームと○んぼF.C.との決戦での評価は、次のようなものでした。(コーチ会のメールに流れました。)○五・六の子どもたちは、ひっちゃべっていた。○んぼの子どもたちは、コーチの言うことでしか動けなかった。それが、勝敗を分けた原因だと。具体的には、次のような状況です。(私は、その試合を○屋コーチと見ていたので。)相手のサイド攻撃がこちらの奥深くまできたとき、ゴール前のバイタルエリアが10秒近く空いている時間帯が何度もできていた、もしあそこでボールを受けられたら、簡単に点をとれるのに、なんで○んぼの子はそのスペースを利用しないのか? こちらのワントップの女の子を、中心のセンターバックやボランチの子3 人で囲ってマークしているが、いくらなんでもそんな人数いらないだろう。強いチームとやってきた名残なのか? そしてそのことを、○んぼの子どもたちは気づいていた。フィールドで話し合いがされているのが確認できる。が、結局は、一度もその形をくずさず、前半0-0のまま終わってしまった。後半は、○んぼはじっくりしたパス回しではなく、速攻的にいどんできた。ゆえに、果敢にはなってもパスミスが増え、こちらのカウンター反撃も多くなり、張り合う感じになって、もうバイタルエリアにスペースが生まれる時間はなくなった。そのまま、PK戦となってしまった。となれば、PKでもニコニコしていられるこちらのほうがメンタル的に優位になってしまった。……要は、○屋監督は、○んぼの子ども たちが、コーチに萎縮してプレーするようになってしまったことが敗因だ、と分析したわけです。私もそう見立てて、そんな話をしていたんですね。

あくまで参考までに、以上のエピソードを紹介しておきます。


     *****     *****     *****
《鈴木 です。

(1)「公園とクラブ入部でのサッカー」の違い、(2)「失点を減らす」ことの具体化、についてミーティングで話したこと追記します。

個人技術の向上、そのサッカーに必要な走り方(ステップ)や「止めて、蹴る」という理屈以前の基本技術が水準に達するのには、地道に時間のかかることですが、それを目指させる態度転換は、手助けできると思うので。

(1)イツキの時代、練習中ふざけている子を注意すると、「ふざけているのは俺だけじゃない、なんで俺だけを注意する?」この理屈は正しいか?
例えを3つ例示します。
・大人世界の話。「君たちのじいさんよりちょっと前、日本は世界と戦争した。で、とある市長が、戦争で人を殺したのは日本人だけじゃない、なのになんで日本人だけ責めるのだ、それはおかしい」と発言した。この理屈は正しいか?(当事の大坂市長の慰安婦問題の変形ですが。)
・交通法規を守って注意深く運転しているタクシー運転手でもミスして事故を起こすこともある、それに自動車やバイクを楽しんで乗り回している暴走族が事故を起こして、「タクシー運転手も俺と同じだね!」と言った。この理屈が正しいか?
・○オ君がクラブチームで一生懸命練習して、6年の大会になった。ミスしてゴールを決められた。それを休み時間や公園だけで一緒にサッカーしている友達から「リオも俺も同じだね!」といわれたら、どう感じる?
○オ「いやだなあ。」
スズキ「そう嫌がられて、その市長は、外国人との話し合いをキャンセルされて、政治世界のワールドカップにでられなかったんだ。戦争が起きないよう真剣に話し合っても、ミスで起きてしまうこともある。だけど、はじめから戦争で人を殺すのは当たり前と思っている人と、真剣な議論ができるかい? 世界の政治家は、ふざけた人物として会うのを拒否した。君たちは、日本の中の仲間内だけでやっていればいいかい? それとも、世界に出たいかい?」
○ダイ「世界」
スズキ「サッカーをやるとは、そうした世界標準を身に付けていくことだからね。」

上のような人聞き悪い話に、○田コーチは顔をしかめてたようにおもいますが、知っておいてもらいたいのは、日本のサッカー協会は、明確に野球界を「軍国主義」思想と理解して、それを「反面教師」として指導方針をだしているということです。リーグ戦の普及もその一環です。○山コーチも含めた○ュンタロー父への○田メールでも、○中さんは、そうした理由で、子供が野球に興味を持ちはじめて体験入部しているけれど、本当はサッカーをやってもらいたいんだ、と言っていましたね。昨日、○藤コーチが、娘の高校見学にいくとしっかりしているのは野球部で、サッカー部は…、とおっしゃっていましたが、私が野球部の主要な方針に否定的なのは、「それで世界と戦って負けたんだよ。勝ちたくないの?」というものです。

(2)ウラへの意識。昨日の失点の大半は、ウラをとられてキーパーと1対1の状況を作られたことです。いつか飲み会で話した3年生問題です。で、1試合後、ライオンとシカの例え話をしました。強者ライオンでもシカを前からおそわない、気づかれないように後ろから。シカはどうしてる? 下向いて草たべてるだけか? この話でウラを意識しはじめたのが、○ュウヘイと○ョウタでした。○ウタがウラとられて失点しましたが。サッカーになれは、訓練を受けてるチームほど、サイド中盤でボールを止めて、逆サイドへパスだすこと狙ってきます。ウラへの意識がないと、ひたすら失点します。2試合目、ハイになって暴走するのを落ち着かせようと、フィクソをさせていた○ョウタが、いきなり相手のウラをついて、ボールがでてこないと知るとすぐにポジションにもどるという学習能力をみせました。ただいかんせん、ボールを止めて、蹴る、という攻撃の起点作りができていないので、利用できるのはまだ先になりますが。

*ポジションに関して、学校掃除での役割分担の例えで。あとこまごました技術的な話を、○山コーチと指摘したのが、1試合後のミーティングでした。あせらなくても、面白いサッカーをみせてくれるようになる3年生だと思います。》

2017年11月23日木曜日

相撲界の混乱から

「政治は、まとをはずさぬ正確な計算にもとづいて、単語のエネルギーを巧みに利用しつつ、ことばが社会におよぼす魔力を操作する。かくて天皇という語は、明治憲法発布にさき立つ一時期、類似の意味をもったさまざまな表現方法と激しくせりあうなかで生き残り、当時、この語の中にこめられた語感の印象は、おそらくまだ不安定で、後世からはとうてい思いもおよばないほど、みずみずしかったのである。明治維新黎明期、すなわち憲法発布以前のほぼ二十年間に残された様々な資料から、天皇を指す表現をことごとくひろいあげても、ここではあまり意味がないので、試みに、次のような一群の語を例示しておきたい。
 
 皇上 聖上 聖主 聖躬 至尊 主上 」(亀井孝「天皇制の言語学的考察」田中克彦著『言語学の戦後』所収 三元社)

モンゴル会で起きた事件をきっかけに、日本の相撲界が揺れている。
日本の相撲界や、他の運動部などでも、顧問や部員間での暴力沙汰は今でも取りさだされるけれど、それは残骸なように珍しくなったからで、戦後平和教育が、軍隊的な遺制を取り除くよう洗脳・戦略されてきたからだとは、このブログでも言及してきた。(例;中学部活動問題の中身」)

しかし、その若い世代へ行くほどのやわな現状にいらだつ反動的な勢力も根強いわけで、現政権自体が、なんとか敗戦後のその9条体制と呼べるようなものを変えたいわけだ。しかも、若い父親・母親自身に、敗戦という現実の影響・教訓が忘却されはじめているので、むしろそうした若い民衆のほうから、強い姿勢を求める、憧れる傾向があることが、今回の衆院選アベくん支持の結果に反映されたことの一つでもある。
で、その若い父親、サッカー小学生チームのパパコーチを引き受けてほしいと期待されている親から、次のような素朴な質問が投げかけられてくる。

<私は○○には、サッカーを上手くなることよりも、真剣に取り組むことを望んでいます。下手でもいいので、できる限り走り続ける、練習をちゃんとする、挨拶をする、等です。真剣にやるのであれば、本望でないですが、野球でもいいと思っています。そんな中、1年程見せていただいた中、落○やコーチという立場に関しての感想は、
・真剣さについては、落○チーム(低学年)は、足りないと感じています。でも、他のチームは知らないので低学年特有の事象なのかもしれません。
・コーチがやる気スイッチを押す必要があるのかもしれないですが、それはどこから、コーチの仕事なのでしょうか?試合の時も空を見ている子、走らない子のスイッチを探すこともやるのでしょうか?
・そもそも、人数が足りないのは人口が減っているからで、チームを維持するために、緩くなりすぎていないのでしょうか?所属人数が問題なのであれば、他チームと完全統合してはだめなのでしょうか?>

私も、息子の一希には、この「真剣さ」を学んで欲しいとおもっていた。が、いざパパコーチとして間近に<子どもー大人>と接していると、その実践の内実、方法と思想的理論に、素朴にそのまま「真剣にやれ!」と怒鳴ってすますわけにいかない複雑さが潜んでいることに気づいてきたのだった。(例;「ユーロ・サッカーから――世界とコーチング」・「暴力(教育)と歴史・「見えること、見えないこと、見たいこと

とりあえず、サッカーやスポーツ、ひいては教育ということに限っての話なら、日本の近代化過程での暴力的文化土壌を考察した元巨人軍投手の桑田氏への言及ブログ(今回、貴乃花親方が、桑田みたいな立場なのか? 日本相撲界の土壌を変えるための陰謀めいた…)、そして日本の学級社会の特殊性や体罰の歴史に関する引用ブログ、があるが、もうひとつ、若いパパコーチには、次のセルジオ越後の言葉を紹介しておきたくなる。

<子どもの習い事で、武道の人気が高まっているらしい。どうも補欠がないことと、「礼に始まり礼で終わる」精神で、礼儀が身につけられる。やはり補欠に悩む親は、個人競技をさせたいのだろう。それ自体はよいと思うが、ただ気になるのは、礼儀が身につくからという理由。本当にそうだろうか?
 サッカーでも、試合前にハーフウェーラインまで行き、対戦相手に大声で「お願いします」とおじぎする。試合後はベンチに挨拶に行く。しかし、大人に指示されたから礼をしているだけで、なぜそれをやっているのか本質を理解していない。だから、しまいには誰もいない後援会のテントに向かって礼をする。
 僕はこの光景に驚いた。そもそも、一体相手に何をお願いするというのだろうか?
 ブラジルでは対戦相手に挨拶するところを見たことがない。日本でも、Jリーグでは誰もやっていない。Jリーグどころか、W杯もオリンピックでもやっていない。なのに、大人たちは「礼儀」として教える。
 挨拶する子どもも「なぜやるのか」を考えることはしない。それは想像力に欠け、こなし上手になっているだけだと思う。大人に怒られないように、顔色をうかがいながら行動しているだけ。したがって、武道をやれば礼儀が身につくかどうかは、甚だ疑問だ。
 プロの場合は対戦相手ではなく、サポーターに向かって礼をする。大人になってもやらないことを、なぜ学校では強制的に教えるのだろうか。大声で挨拶するように教えるけれども、社会に出て大声で挨拶したら「うるさい」って言われるよ。(笑)。大人になっても使えるものを教えないと、ますます部活動は軍隊のように感じる。そんなうわべの礼儀よりも、大人と子どもが触れあう社会教育のほうが重要だと思う。
 僕の恩師は「社会」だと思っている。大勢の大人と子どもが集まってプレーして育ったから、誰がサッカーを教えてくれたかわからない。親以外の大人も、多くのことを教えてくれた。>(セルジオ越後著『補欠廃止論』 ポプラ新書)

     *****     *****     *****

日本で起きたモンゴル会での暴力事件のことを、もう少し、深く、ディープ・ヒストリー的に考えてみよう。

エマニュエル・トッドの家族人類学によれば、ユーラシア大陸の中央あたりから父権的な
共同体家族が文明として発祥し、それが周辺へと伝播していき、より周辺の亜周辺的なところに近づいてゆくほど、より原初的な核家族形態が残っている、ということになる。中国の文明も、とくに秦の始皇帝時代には、そのユーラシア的な騎馬民族の軍事組織にも転用される共同体家族の影響がみられる、ということになるだろう。もちろん、ヨーロッパという周辺地域に、中央集権的な家族・組織形態を伝播させたのが、モンゴル帝国である。そこでは、父権的な指示系統、教育が強いのかもしれない。日本でも、それは武家政権の成立過程とともに、伝播が実地してゆく。モンゴル帝国は上陸支配には失敗したが。封建制とは、文明的な共同体家族と、原初的な核家族とのせめぎ合いの周辺的事態である。そしてその封建制から民主主義が派生してきた。友愛とは、任侠である。しかし日本では、その近代の骨格を導入するに際し、伝統(封建)的なものは恥ずべき不適格、これからの時代に不適応なものとして捨象されてきた。とくに、二次大戦への敗戦は、アメリカの占領政策ともあいまって、より徹底的にその武人的な組織性は排除されていった。日本では、学校という近代的な教育制度、その勉強だけ教えればいいという形は、農村社会の在り方から受容されず変形され、体育や家庭科技術などどいった、総合的な子どもの面倒見、という体制になったため、そこで戦後、部活動という学校の余剰的場所が派生し、武人的な封建思想が残存された。民主主義のモデルたるヨーロッパ近代では、実はなお封建精神は、具体的な決闘の残存としても継承されている。それは青年時代の秘密結社的な性格をもつ。フェイスブックとは、ハーバード大学のそんな結社から排除されたものがそのノウハウを盗んでネット上に実装されたものだとは知られている。日本の町内会の青年部なども、なおその伝統をひきずっているとは言えるかもしれない。がとなれば、この封建的な暴力性は、原初的な核家族性を起源にもっているのかもしれない、となる。アフリカの部族では、今なおこの13歳頃からの若い青年団体が、狩りをしながら新しい土地を探し求める冒険をする。それがまた、大人社会へ向けての通過儀礼である。秘密結社の卒業には、勇気だめしのテスト(決闘)があるが、バンジー・ジャンプなどもその一例である。が、この若者の遊動性は、反抗期と結びつけられ、それがある種のホルモンの分泌を伴っていることが解明されてきている。ということは、サルからヒトへと、森から追い立てられた人類が、世界環境で生き延びていくために、身体的に発揮された脳力が、この新天地への冒険を恐れない青年期の<反抗=暴力>というホルモン作用だったのかもしれない、ということになる。ひいては、その核家族的な遊動的性質が、文明・定住的な共同体家族の父権的な暴力性へと換骨奪胎されていき、民主主義(封建制)とは、その中途半端な過渡的な半端形態、ということになる。もちろん、時間軸だけで考え、実践を組織する必要はない。文明は、めざすべき理念でもない。が、それが自然適応のための身体(ホルモン)と結びついているとしたら、リベラル理念で、戦後平和教育、9条体制で抑えようとしも無理が出てくる、ということになる。青年期の通過儀礼的な結社の実質を、近代化の過程で糞真面目に排除してしまってきたことが、とくに日本では現今の若者の犯罪事件を惹起させてきているようにもみえる。暴力との付き合い方が、私たちにはわからなくなってしまったものとして。それが、<真剣さ>をいざパパコーチとしてサッカークラブに導入する際の、実践的混乱として現象する。

2017年11月18日土曜日

座間事件

「美登利はかの日を始めにして生れかはりし様の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束からやくそくはてし無く、さしもに中よし成けれど正太とさへに親しまず、いつも耻かし気に顔のみ赤めて筆やの店に手踊の活溌かつぱつさは再び見るにかたく成ける、人は怪しがりて病ひのせいかと危ぶむも有れども母親一人ほほ笑みては、今におきやんの本性は現れまする、これは中休みと子細わけありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順おとなしう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたとそしるもあり、表町はにはかに火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な夜なの弓張提燈ゆみはりでうちん、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そぞろ寒げに、折ふし供する三五郎の声のみ何時に変らず滑稽おどけては聞えぬ。」(樋口一葉「たけくらべ」 青空文庫)

秋葉原事件、川崎事件、相模原事件、とうと、このブログでもいくつかの世間を騒がした犯罪事件を考察してきた。
そして、最近の座間事件……、相模原事件の時の唖然さを超えて、単に、判断が停止した。内心の気味悪さから逃げるように、もう考えるのはやめようという気だった。が、ブログ「世に倦む日日」の言及にふれて、やはり私自身が黙って処してしまうことは自身に対する怠けと敗北という気がしてき、とくにはそのブログ上での「40代独身女性、自営業」の方のコメント、<明るい未来なんてあるとは到底思えない、殺伐とした毎日。精神的に弱って頼れるものを求める女性をおびきよせ、短期間に、次々と殺す。そしてその遺体に囲まれて生活する。「どうせろくな人生じゃないし」「どうせいずれつかまるだろうし」「ここまでやればどうせ死刑だろうし」という気持ちがこみ上げ、五感、自分を取り巻く現実が急速に現実味を失い、自分と関係なくなるような感覚を覚えました。この犯人はサイコパスだ、という分析もあるようですが、案外そうとも言えないのかもしれない、絶望し自暴自棄になった時にこの状況は思いのほか近くに存在するものなのかもしれない、と思いました。>――を読んで、自分がこの事件から逃げようと、隠そうとしてきたことを掘り返してみたくなった。

この事件から、私が最初に連想したのは、無邪気に戦場を観光として訪ね、テロリストによって首切られてしまった香田証生さんの事件である。人を簡単に信じて、あるいは、世界を甘く見て、現実にさらされてしまった。……しかし今回の事件の多くは、まだ中学生や高校生なのだった。これから、だまされながら、世間知を知って、大人になっていく年頃だ。いきなりだまされて、殺されてしまう。世間知を積む暇もない。だまされるだけなら、他の多くの家出少女たちが、暴力団まがいの組織につかまって、風俗産業へと突き出されているかもしれない。そこでの自殺率は断然と高いそうだ。実際、被疑者の白石氏は、女性をそうした業界へと派遣させる仕事をしていた。それゆえか、彼自身には27歳という年齢以上の世間知がついていたようにもうかがえる。私は、香田氏の件に触発されて描いた上リンクの絵本(『人を喰う話』)で、その27歳という、カントやドストエフスキーによって特権視された自然・文化的境界のことを問題にした。肉体(自然)的に大人になる13歳前後から、もう10年生きてみることが、啓蒙(文化)としての大人になる条件(ずれ)なのだと。それはまた、職人が技術を身に付け一人前になるには10年かかる、という世間知的洞察でもあると。だから、24歳でなくなった香田氏が、あと3年いきていたら、と嘆いたのだ。

そうして白石氏は、27歳になったのだ。首を斬られる方ではなく、斬ってみる方の日本人として。

座間の現場の上空には、アメリカの軍機が轟音をたてて飛んでいるのが日常である。死体を処理していたアパートは、さらに線路沿いにある。騒音というより、爆音の中の生活になるのだろうか? 私は、現場を知らない。死臭が漂っていたというのに、近所の人には、それが「変な匂い」、「生温かい匂い」として、日常的に過ぎていったのは異様である。もし、行方不明になった妹を追う兄の強さがなかったら、もっと毎日が過ごされていたということだ。死臭にも慣れなくては生きていけない場所、それはむろん、戦場である。前線の戦場である。この戦争への不感症……これを、座間という、米軍基地に隣接した特異的な場所、としてやり過ごしていいものだろうか?

<明るい未来なんてあるとは到底思えない、殺伐とした毎日。精神的に弱って頼れるものを求める女性をおびきよせ、短期間に、次々と殺す。そしてその遺体に囲まれて生活する。「どうせろくな人生じゃないし」「どうせいずれつかまるだろうし」「ここまでやればどうせ死刑だろうし」という気持ちがこみ上げ、五感、自分を取り巻く現実が急速に現実味を失い、自分と関係なくなるような感覚を覚えました。この犯人はサイコパスだ、という分析もあるようですが、案外そうとも言えないのかもしれない、絶望し自暴自棄になった時にこの状況は思いのほか近くに存在するものなのかもしれない、と思いました。>――この女性のコメントは、山城むつみ氏が小林秀雄の戦争洞察に読みこんでみせた次の引用と私には重なってくる。

<連中は何と異常で「無惨」な行為に走ったことかという視線で彼らを見ているとき、自分はそうはならないということが暗に前提されてしまっている。しかし、そう考えていられるのは、僕らがあくまで「ここ」にいて「ここ」の日常感覚が「そこ」においても延長し、「ここ」のモラルが「そこ」でも連続的に保持し得ると信じ切っているからにすぎない。もし「そこ」が「ここ」の座標を延長した空間にはないのだとしたら、――もし「そこ」が「ここ」とは連続していない、断層のある、別の空間に属しているのだとしたら、――そう信じ切っている僕らが何かの拍子で「そこ」に置かれたとき、強姦・虐殺・放火に走らないという保証はどこにもない。>(「山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』

白石氏にとって、あるいは、いまや若い世代にとってはとくに、この日常が、もはや<戦場>に近いものとして感受されているのではないか? というか、年寄世代は、徐々にこの今の世界に移ってきているので、「不感症」になっているということではないのか? 戦場では、だまされる、ということが一命に関わることに直結するかもしれず、だますことは、殺すことになってしまうのかもしれない。ツイッターなどの言葉のやりとりの速さは、考える暇を与えない。経験が世間知として積み立てられていくのではなく、反応としての対処だけが絶えず強迫される。それは、でかい脳みそを抱えたヒトにとっては、エントロピーを増大させる不快なことになっていく。知的にとどまる時間差(暇)は、身体・生理的に必要になってくるのだ。だから、被害者は素直にスマホを明け渡して捨て、加害者は仕事をやめ塹壕の中に引きこもる。外に飛び交う銃弾の下で、いかに死ねるかの知的探索にオタク化する。その関係は、戦犯的な、単独的な、休戦、戦争の放棄なのだ。殺された妹は、ラインで後を追う親身な兄に頼るよりも、まずは戦場から降りることを選択した。しかし世界が、日常が戦争なとき、どこに降りられる場所があるだろう? メディアを捨てることは、ただ目をふさぐことに等しくなる。ネットや携帯を知らないで過ごせた経験の積んでいる年寄世代の者たちのように、面倒くさい、と適当に処理することもおそらく敵わないのだ。

しかし、戦争は過ぎる。というか、もう私たちは、また敗けたのだ。まだ終ってはいないのかもしれない。が、勝ちはない。年寄たちが頑張れば、引き分けぐらいはあるかもしれない。だから、私は、息子をはじめとした若者にはこういいたいのだ(というか、教えているサッカーチームでは、たまに言うことだけど)。敗戦後のことを考えて生き延びよ、賢しらな自暴自棄になるな、人生も歴史もリーグ戦だ。当たって砕けろなどというトーナメント方式・思考は、敵からの侵略はモンゴル帝国とアメリカ帝国しか知らない島国根性な平和ボケだ。実際、俘虜の辱めを受けずという教訓を無視して、年寄たちは敗戦から復興してみせたではないか? 受験に失敗したら人生終わりだ、みたいなプレッシャーは事実じゃない。人生も、歴史も、リーグ戦だ。失敗をフィードバックして、次を考えろ。君たちはサッカーを通して、世界基準を身に付けろ。……
 
予想通りなアベ君支持の選挙結果を目の当たりにすると、「歴史の必然」という小林秀雄の言葉を連想する。しかしこの言葉には、もはや鋭い情感は失われている。ばかばかしく、茶番にしかならない。が、若い世代には、それが初めての現実になるのだ。つまり、猶予(モラトリアム・暇)をくれない戦争が。

参照ブログ:
秋葉原事件「小さな過去」、「犯罪に――

2017年10月22日日曜日

衆院選挙とお笑いの動向

サッカーや野球を禁止するために設けられた広場中央の柵。すると子どもたちは、この柵をネット代わりに、テニスをし始めるのだった。笑える。

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「瀬山陽の『日本外史』は文学的表現が政治的権力とかかわらざるをえない一つの時代の起点に位置している。それは「文学が政治上の事業に附帯せしめられた時代」にちがいなかったが、一方、文学がその無力を自覚することによって、政治を批判する姿勢を獲得した時代でもある。この「有用」の世界と「無用」の世界との緊張関係を激化させつつ、幕末の文学は明治維新に到達し、「文学から政治へ」というサイクルを終える。維新から明治二十年代にかけては逆に「政治から文学へ」というサイクルが始まるのであって、いわゆる文学極衰論争は政治と文学の緊張関係が弛緩の兆しを示し始めた時点、いいかえれば政治的近代の挫折から、文学的近代の庶出子が生誕する時点で発生するのである。文学極衰論争をうけつぐ形で争われた愛山と透谷の二つの文学史は、この二つのサイクルの終結点から逆にさかのぼって、近代文学への転換期をトータルに把握しようという野心的な意図を潜在させていたのだ。
「近世から近代へ」という問題を、戯作小説から近代小説へという脈絡のうちに模索しようとする文学史は、逍遥の『小説神髄』ないしは不知庵の「現代文学」にあらわれていた文学概念を、逆に幕末に延長する操作によって構成されている。幕末から明治にかけて演じられた政治と文学の苛烈な劇を切りすててしまったこのような文学史は、もはや何程の可能性も残されていないであろう。」(前田愛著作集第一巻「幕末・維新期の文学」 筑摩書房)

今回の衆議院選挙結果がどうなるか、この文章を書き始める日中の時点ではわからないが、どんな結果になっても、大勢は変わらないだろう。私自身は、先ほど投票に行って、小選挙区では立憲民主党の候補、比例では共産党に入れてきたが、棄権を呼びかけているそうな東浩紀氏のような態度でも、充分結果に反映される、いいかえれば、結果などどうでもいいような選挙であると、私は考えている。その結果を受けて、ずるずる時勢にながされていくのではなく、坂口安吾的に前に進んで行く現実的な文脈づくりを、政治家にはしてほしいものだ。が、何が「現実」的なのか、人間にとってリアルとは何なのか、そこに基づいた現実政策とはどのようなものなのか、政治ジャーナリズムの世界では合意がない。というか、文学界ではマイナーとはいえ少なくとも議論しえる了解事項はあっても、結局は政治レベルには反映されてゆくところまでは、影響力なく衰退してしまった、ということなのだろう。

今回、私が興味をもち、もっと突っ込んでみる必要があると感じたのは、20・30代での投票動向である。選挙前の世論調査によると(「朝日新聞」10/19朝刊)、18~29歳では41%が自民支持(60代では27%)、安倍内閣の続投支持でも前者が49%で、後者は60%が不支持だという。安倍総理の以前からの街頭演説でも、「わたしたちを支持しているのは実は若者たちなのです!」と、何か証拠でもあげたように特異そうに声を張り上げているシーンもTV放映されていたようにおもう。この若者と高齢者との落差は、統計的に意味がある、とかいう差異を超えているだろう。この落差を、どうとらえたらいいのだろう?

中学2年になる息子が、お笑い番組ばかりみているので、これはどういうことなのか、と調べてみたくなって、吉村誠著『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版)というのを読んでみた。東大の社会学部を出て放送界に就職し今は大学講師をしている書き手らしいが、文学的な教養がすっとんで書かれているので、そこへの突っ込みどころがそのまま問題点として明確になってきて、興味深い。
たとえば吉村氏は、新聞はエリートの書き言葉社会で、テレビは民衆の話し言葉の社会だ、という。が、たとえば夏目漱石が大学の先生から新聞社へ転職したとき、気が狂ったのかと騒がれたというが、それはむろんエリート社会を捨てて自ら民衆の生活へと降りていったからである。ニーチェによる大衆の定義は、新聞を読むような人たちである。エリートは、新聞など読まないのだ。私も早稲田大学の英文学の授業で、先生から、「ジャーナリスト」という字義通りな意味は「その日暮らし」ということだからね、と講義されている。明治政権のエスタブリッシュメントからもれた佐幕派のもと武士たちが、民権運動を盾に浮浪者的・ジャーナル的に始めたのがその大勢だったろう。もちろん、武士は識字率の高いインテリともいえる。が、この転換期の文脈抜きにして、新聞がエリート/テレビが民衆(生活者)、と短絡的につなげていると、もしかして、次の時代には、テレビ(でニュースを見る)のがエリート/スマホ(で趣味だけ覗くの)が民衆、ということになりかねない。吉村氏は、テレビでもニュースが「標準語」的なエリート志向で、そういう体制への抵抗として「方言」にこだわった「お笑い芸人」の姿勢(番組)を評価するのだが、その文脈だけけでは、趣味的世界が独特のスラング社会を縮約形成してゆくように、今度はそこが抵抗の拠点、と理解されるのだろうか? あるいは実際的にも、若きロックフェラーは、自分がフェミニズム運動を支援し資金援助するのは、女性が働きに出て子どもが独り家に残れば、勉強なんかせずテレビをみるだけのバカになっていくから社会を支配しやすくなるからだ、と言うような事を公言していたが、そんなエスタブリッシュメントの言葉を聞いたら、無邪気に民衆的なテレビが時代を変えていく力を潜在させていると期待することはできないだろう。

もともと近代社会とは、ラテン語(漢語)の聖書(原文)を方言(のちの国語)に翻訳してみせることから普及したネーションな運動であろう。それは俗語革命が基調であった。
日本では明治時代、人々の主体性、人民の主権性の思想を普及させるためにも模索されたのが、言文一致の運動だった。これは、書くことと言う(話す)ことを近づけようとする試みともいえるのだろうが、もちろんそういう書き言葉の世界の運動である。それが、なお識字率の低い明治時代(参照;前田愛「近代読者の成立」)、一般民衆とはかけ離れていたという事実性は確かであるだろう。が、漱石がそうであるように、エリート社会に属することもできた者でさえ抵抗していたのだ。ならば、抵抗の拠点を、実体的なスラングの場所、社会に求めるのは早とちりではないか? だから、抵抗の仕方もまた、生活の言葉に近づければいい、それを取り入れればいい、という安楽さも文学的に自覚されて、むしろ読ませない書き言葉としての抵抗の姿を見せる運動ものちに現れただろう。とにかく、まずは書き言葉の世界で「生活」を取り戻してゆくような生きた運動が始められたとしても、それはエリートなエスタブリッシュメントな社会で、民衆とは関係ないとはいえない。当時はなおほど遠かったとしても。必要なのは、そこにあったエリートの苦闘を、民衆たる「お笑い芸人」が参考にすることだろう。エリートがお笑いを参考にしたように。前掲書で前田愛氏は、言文一致に苦闘していた二葉亭は、落語家の円朝の「噺」から学びとって文体を作っていったのだと指摘している。それは、「外在的リズム」をもった「身振りとしての言語」である。しかし、であるがゆえに、その文の調べには、「滑稽めかした声、演技された声、誇張された声」が響いてしまう。当時は、新聞も家族(近所)みんなに聞こえるよう声をだして読んでやるのが普通だった。音読にはよくても、黙読には堪えない、ということが次なる問題となってくる社会の趨勢であった(らしい)。

<有明が幼稚な鑑賞力で高誦したという『佳人之奇遇』は美妙が排斥した「吟ずる」読み方で読まれたのであった。それは蘆花が『黒い眼と茶色の目』でいきいきと描き出しているように、学校・寄宿舎・私塾・政治結社等の精神的共同体の内部で集団的・共同的に享受された。このような享受の場は自由民権運動の敗退とともに失われて、享受の単位は家庭ないしは個人に縮小する。美妙が読者に要請した「通常の談話態(はなしぶり)」のように読む読み方は『小説神髄』が提示した「親子相ならびて巻をひらき朗読するに堪へ」る改良された戯作、その具体的実現としての硯友社文学に対応するであろう。新聞小説であり、家庭小説である。硯友社文学の優勢のまえに『あひびき』の読者が少数者であったことは否むべくもない。しかし、近代読者の系譜はじつにこの少数者の中から辿られる。それは漢文崩しの華麗な文体のリズムに陶酔して政治的情熱を昂揚させる書生達でもなく、雅俗折衷体の美文を節面白く朗読する家長の声に聞き入る明治の家族達でもない。作者の詩想と密着した内在的リズムを通して、作者ないしは作中人物に同化を遂げる孤独な読者なのである。>(前田愛・前掲書)

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で、平成時代ももうすぐ終わろうとしている我が家はどうか?

ルソーのような「孤独者」にあこがれる父親が、新聞を読んでぼそっと見解なるものをつぶやくと、2LDKのDKの所にいた女房が、「また気味のわるいわけのわからんことをいって!」とすかさず反撃してくる。1Lのところにいた私は、「別に俺の意見を言っているんじなくて、一般教養的な、前提となる現実の話をしてんだよ」と、その意見を補強するために、ときにはなんらかの書物を取り出して読み上げる。すると、「また誰々が言ってるか! 自分の意見はないのか!」と食ってかかってくる。障子戸を開けたままにしているので、1LとDKはつながっている。私と同じ1Lでお笑い番組を見ていた息子は、テレビにイヤホンをつけて聞き始める。それに気づいた女房は「いつまで見てるの! バカになるからイヤなんだよ!」と怒鳴りつける。「うるさいよ!」といって息子は立ち上がると、漫画本をもって隣の1Lへいって襖戸をしめたりする。そうして夜になれば、その襖の向こうの一部屋で、家族三人が川の字になって寝ているのだった。……この都会の団地にも、息子の同級生は何人もいる。兄弟・姉妹がいる家族だって。じいさんやばあさんがいる家というか部屋もある。やはり私は、前田氏の前掲書から引用したくなる。<この読み手と聞き手とからなる共同的な読書の方式は、日本の「家」の生活様式と無関係ではないと考える。それは夙にラフカディオ・ハーンが「日本人の生活には内密ということが、どんな種類のものも殆んど全くない。(中略)そして紙の壁と日光との此世界では、誰も一緒に居る男や女を憚りもせず、恥づかしがりもせぬ。為す事は総て、或る意味に於いて、公に為すのである。個人的習慣、特癖(もしあれば)、弱点、好き嫌ひ、愛するもの悪むもの、悉く誰にも分らずには居らぬ。悪徳も美徳も隠す事が出来ぬ。隠そうにも隠すべき場所が絶対に無いのである。」と指摘したところのプライヴァシィーの欠如を基調としている。>

子どもが、独りで読書などしないのは、もっともな条件なのだ。子ども部屋を獲得した昭和から、江戸の平和へと退潮していった平成。が、選挙闘争は、国土の防衛問題が焦点となるくらいだから、明治時代への移行みたいだ。つまり若者は、なお江戸時代から激動しはじめた時代をみている。しかし両親や老人には、敗戦の名残が、昭和の感覚がある。殿様が没落し、社会が変わってしまう、しまえることを知っている。しかも、自分たちが受けた教育には、昭和の軍隊的なものも濃厚だった。けれども、子どもたちは、知らない。殿様は、そのまま殿様であって、自分も自分だ。自分を変えていく、変えていける暴力的な力の発揮を許された感覚がない。ましてや、他人に対する暴力など。学校では、いじめか引きこもりだ。引き込もれる子は子供部屋を持っている。ときおり切れた奴がでてくるが、いつのまにかどこかにいなくなってしまう。テレビの事件でも、そうやって犯人がつかまっていく。それは余分な人たちで、やはり殿様は殿様、金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、そう、世の中も言っている。それを変えて行く、というのは余分な余興なのだ。ニュースの事件がお笑い番組の余興みたいに。ぼくは1Lの隅でDSをやってるのが楽しい。アベくんも、アベくんなんだろうな。他にも政党ってあるみたいだけど、それも、余分ってことじゃないの?

2017年10月14日土曜日

遺体

「ようするに、先カンブリア時代は捕食の実験段階のようなもので、大半を占めていたのは平和を好む菜食主義者だったが、そうした連中も、たまたま動物の死体に出くわせば、喜んでごちそうにあずかっていたということなのだ。肉の味を覚えつつあったというところだろう。」(『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー著 渡辺正隆/今西康子訳 草思社)

先々週、草野球チームの元監督さんが亡くなった。59歳になる直前だったそうだ。私が植木屋さんに入って間もなくの27歳頃のときに、親方を通してその監督さんから呼ばれて、以来、仕事で樹から落ちてケガをする43歳頃まで、ずっとその新宿区は下町にあたる界隈のチームで野球を続けていたことになる。ケガも落ち着き、ぎっくり腰にもならなくなった去年から、そのチームの一員がはじめた別のチームで野球をまたはじめたが、元監督さんも選手としてかつてそのチームにも所属していたから、ここのところは、試合のたびに訪れてベンチに座りくだを播く元監督さんとは顔をあわしていた。歩くのもままならない状態なので、近所の球場へ来るのにも、タクシーでやってきた。本格的な野球経験のない人だったが、もしこの人に草野球へと誘われなかったら、私はもはや野球とは縁がなかっただろう。私にとって、高校野球の経験はつらいもので、テレビでスポーツ番組をみることさえもが忌避反応になっていたのである。職場地区の草野球チームに参加することで、私の後遺症は癒えていった。おそらく30歳もすぎてからの帰省中に、甲子園をテレビで見ていた私に、「おまえ見れるようになったのかい」と母がふともらしたことがある。気づている素振りを見せることもなかった母の一言に、洞察力があるんだな、と思ったものだ。
元監督さんは、荒行あとで悟りを開いた坊さんのように、静かに棺の中に納まっていた。私がそんな連想をしたのは、最近高野山での千日行を終えて聖となった僧のニュースをみていて、その坊さんの容姿と似たものを感じたからだろう。実際、白血病の移植手術の後遺症ということで、肺の機能が極度に低下していたため、病院に担ぎこまれたときは相当苦しがっていたらしい。「抗生物質は効かなかったらもう時間の問題になる」と医者からも言われていたので、覚悟はできていて、自分の棺をかつぐ若衆の位置を弟に口述筆記させていた。2・3日意識がなくなっていた状態がつづいたあとで、息をひきとったそうだ。その日の斎場で、野球仲間とともにその遺体と面会した。斎場自体が、元監督さんが暮らした草野球チームの界隈地区にあるのだが、土葬される天皇以外の皇室縁者の火葬場になるところだ。苦行を超えてこそ刻まれるような穏やかだが芯の入った表情……しかし、そこにはもう、魂がない、ここにはない、という衝撃を受ける。間近に遺体を見つめるのは、20代の頃の、父方の祖母のとき以来だが、当時は、特別な感慨はなかったろう。私は、棺を足方向から見つめる斜め上辺りを見回してみたりした。死後の霊が、そこら辺から集まった人を見降ろしているというような、風説を確かめてみたくもなった。がそれにしても、遺体はあまりに物体的であって、魂や霊などという存在自体を否定しているような衝迫性を湛えている。私は、ゾシマ長老の腐敗する遺体にうろたえるアリョーシャの描写をしたドストエフスキーのことを思ったりした。そこにある遺体は、あの世への信頼を懐疑的にさせてくる。

しかしそう懐疑的になっても、私は、仕事中でも、この強い個性的な人格をもつ監督さんのことを意識せざるをえなかった。白血病になってからは、髪を伸ばし、染め、見るからに、内田裕也というロックンローラーにそっくりだった。だから街や病院でも間違わられてサインを求められると、そのまま、「にょろにょろ」と適当なサインを何食わぬ顔でやってのけられる人である。女性からは毛嫌いされていたが、そのことも平気な沙汰で、キャバレーで知り合ったフィリピーナをフィリピンまで求婚しに訪れ、その妹の方がよくなったと求婚者を急に変えて、しかもまんまと騙されて帰国してくることにも平然としていた。内心はわからないが、自分はもう世間からはそう見下されている、見下されてきたものなのだ、という開き直りの強さがあって、それが男たちにはどこか愛嬌と尊敬の念を抱かせていたかもしれない。そんな彼の霊が、私を誘いに来るのではないか、身近な人の死はつづく、という迷信の存在を、私は遺体の衝撃を忘れるように、用心した。ちょうど、高木剪定の危険作業が仕事では続いていた。「○○さん、俺を連れてくんじゃなくて、守ってくれよな」、そんなことを思いながら、木を切っていた。

そして、女房の母親が死んだ。通夜も葬儀もせず、遺影も線香もなく、老人ホームから町屋の斎場へと送られ、死の翌日に火葬された。住まい近所の斎場で1週間ほど待ってから荼毘に付された監督さんと、同じ日だった。私は午前中は監督さんを見送り、午後は義理の母の遺体に対面した。ふくよかだった面影はなく、やせこけて、ミイラ同然、そう私はおもった。息子の一希は、どう感じたのだろう? 何も感じてないようにうかがえた。焼き終えるまでの待ち時間が耐えきれず、散歩に行ってくると斎場を出て行き、骨を拾う儀式には居なかった。だいぶん経っても戻ってこないので、私も周辺を捜しにいった。駅の繁華街の方ではなく、むしろ自然がある方を選ぶだろうと、土手越えの歩道橋を渡ると自然公園があるらしいとわかったが、これ以上時間をかけて捜しにいくとすれ違うだろうと思われ、引き返した。斎場入口まえで、息子と出くわした。「白鳥がいたよ」と息子は言う。「エサやりに慣れてるのか、口笛を吹いたら、寄って来た。」

私はそのとき、息子に不平を言ったが、しばらくしてふと、その白鳥が祖母だったのではないか、私たちが骨を拾っているあいだ、息子はおばあちゃんと会っていたのかもしれない、そんな思いがひらめいた。そんな閃きを信じているのか、そう想うことであの遺体の現実から逃避しようとしているのか、私には判然としなかった。