一般教養を確認してみようと、この厚い新書を読んでみる。引用される社会学者関係の人物は、名前も知らない人もいるけれど、自身の既存教養で消化できる。着眼点は重なるが、そこからの認識実践へもっていくところで、私と意見は違うだろう。
要は、宮台は、懐かしい昔へ帰れといっているわけだろう。遺伝的にフィードバックもされた「原生自然」に近い生き方・価値を回復せよ、と。その180万年の人類の歴史は、人為的に変えられるものではないのだと。しかし、それに嫌でも気づいて転回するには加速主義的にゆくところまでいくしかない、と。ここは、私も、そうなってゆくのだろうと思う。が、その転回は、昔に帰ることはありえない、と私は思っている。宮台は、シュタイナーも自身の範疇で理解しているけれど、シュタイナーは、群れ(仲間)の回復ではなく、あくまで、個人主義的に成りゆくのが宇宙法則(自然の進化的傾向)と言っているのではないだろうか?
ただこの個人主義は、柄谷行人的「単独者」というより、吉本隆明的「非知」に近い。柄谷は、吉本の「非知」に「ボケ」とルビをふるべきだと、自身の理解するヘーゲル哲学にすぎない(マルクスでない)と吉本批判していた。が、シュタイナー的宇宙法則(輪廻)にたてば、インテリこそが知性的でないとなるのだ。彼らは往生できない。だから、そういう人が多いと、いつまでも昇華しえない魂が残存していて、人類は地球段階の次にはいけない、そしてその次段階はシュタイナーにも見えない、と言っていると、私には思えた。その私のシュタイナー理解(まだ主なものしか読んでないが——)からは、宮台がテック資本主義活動からみてとる「カスタマイズ」は、個々人の嗜好にすぎず問題とされない。地球段階自体が、人類のカスタマイズであり、宇宙人は、このカスタマイズされた宇宙の外(隣)からやってきていると観察されているからである。青森の有機りんご農家の木村さんの見聞も、そう証言しているように聞こえる)。
宮台は、ドゥルーズ的な「分裂病」などは近代に寄りかかった一時的なもの、と認識する(p454)。私は違うと思う。高群逸枝は、当時まだ熊本に残っていた夜ばいなどの群れ的性慣習を気味わるがって、そこから一対一の男女関係を志向し、それでも群れを認めた(森崎和江や石牟礼道子も然り。それは、宮台の発言でいえば、ダウン症が一定の割合ででてくるということは人類がそれを必要としているからだ、というように、分裂病的な人物も、類として必要な割合(生態)なのだと私は認識する。そしてそれが、シャーマンや預言者の位置だ、と。そうした人物の言動に感化されるように、人類は1人1人が解脱し、最終的に、煮えたった釜の水が一泡一泡になって蒸発し気化し釜(地球魂)が空になっていくように、そうなって、人類は次の惑星段階に魂の物質塊として進化していくのだ、とシュタイナーは言っているように思う。
ジジェクは、そんな予定調和的な自然はなく、量子論的に自然は根源的に「崩壊」しているのだと言う(『性と頓挫する絶対』)。が、波動から物質への移行を「崩壊(collapse)」とするジジェクの解釈こそが、ヒューマニズム近代によりかかっている。宮台は「崩壊」ではなく、たしか当初の、ボーアの提案を受けたハイゼンベルクの用語の「収縮(reduction)」をこの書では使用している。私もそれが妥当だと思う。そして、宮台が、「原生自然」に「凹凸」をみる、つまり、陰陽的な男女(+-)を確保しているのも、私と同認識だ。ジジェクのひき出す空(無)からの質量発生にも、物質でのプラスマイナスと、反物質でのプラスマイナスという対が関わるのだ。(と、量子論を私は理解しているのだが、まだブルーバックス程度の一般書で確認中。)それを「崩壊」として受け止めるのは、人間からすれば、の話だ。
ジジェクは、バイオテクノロジーが、「原生自然」(遺伝子生態)をも破壊変更していく、と考える。このテクノロジー理解の点は、宮台は、曖昧だと思う。AIに関してははっきりしているが、バイオに関しては、どうなのだろうか? もし現テクノロジーの進展が「原生自然」を破壊できるまでに可能であるなら、宮台理論は成り立たない。ジジェクは、昔を懐かしがらない。人間ではなくなるのだ、と認識しているのだろう。その肯定方向からしか進展はないと。シュタイナーは、たぶん、そうなると人類は終わる、と提示しているのだと思う。あるいはそこからの推論で、宇宙意志は人類を見放して、鉱物に魂入れする、とかの話がでてきているように思う。その場合、人間から、シュタイナーが一番の根底にすえる解脱のための「思考」というものは人類から消えるので(分裂病・預言者・シャーマンも、芸術も消える)、議論・問題自体がもう発生しない。
宮台は、「内から湧く力」(ニーチェ的なもの)の回復をのぞむ。これはかつて、柄谷行人が「ファシズム」だと批判していたものだ。この早とちりは、柄谷がはじめたNAMの芸術会合で、岡崎乾二郎が、柄谷がファシストになる者として否定した宮沢賢治を擁護し、最初の読書文献にロドリゴの『贈与の謎』をとりあげたりして批判していた。いまは柄谷は、贈与を擁護しているが、かつてはそれは「共同体」的だと否定されていたのである。だから、そいういう日本批評史上の文脈において、斎藤幸平が『大洪水の前に』で、疎外論をマルクス的唯物論につなげたことを、私はこのブログでも評価したわけだ。が、新作の『人新生の黙示録』では、その線が希薄になって、世界を変える話になっているわけだ。東浩紀は、それではクーデター起こすという話にならないのか、と批判していたが。東の『平和と愚かさ』はまだ読んではいないが、私は東がとらない終末論を、宮台のように受け入れる。そして宮台のように、終わりを防ぐのは科学ではない。川や大気が汚れているのは、見れば、臭いをかげばわかる。CO2の量なんかじゃない。いまの気候変動が、人為的なものが一番の原因なのかはわかりゃしないのだ。が、科学的にどうであれ、身体的・感性(美)的に判断しうる。それは、樹木一本の伐採でもかわいそうだからだめ、とはならない。アイヌ人が熊に感謝するのは、知恵あるライバルとして尊敬するから(スポーツマンシップみたいなものだ)、殺していただくのだ。そうした感性において、乱獲はありえなくなる。環境は見た目でも汚くなる。(中上健次の「ユンボで掘った土と手で掘った土はちがう」――手掘りの方が無駄な土もでず仕上がりきれいで、時間もかかるので、破壊からの地力回復もある。)
ジジェクの予想なように、この身体感覚、宮台のいう「原生自然」までもが破壊(崩壊)される(する)なら、終わりの意識もなくなるだろう。哲学的に目的論ではなくなるのは頭がよくなることなのだ、単に出来事は偶然と受け入れられる感性こそが先取的だ、と唯物インテリの厳格主義は評価してきたのだけど、量子論的に全てがつながっている、もつれあっているならば、違う系と系による衝突(偶然)なんてものはありえない。シュタイナーが観察するように、この地球宇宙系では、すべての出来事に意味(必然性)がある。私達は、その意味を確定できないし、他の系からくる宇宙人とは衝突できないとしても。
となるのかな?
