2026年8月29日土曜日

エリック・ホッファーの著作をめぐり


執行草舟のyoutubeチャンネルで、エリック・ホッファーについて論じられていた。

【すぐに役立つ人生哲学ーエリック・ホッファー】

 

ホッファーについては、若い頃から、翻訳ものはすべて読んでいるが、上の発言をきいて、私の理解が正反対だったことに気づいた。

 

私がホッファーを知ったのは、柄谷行人経由である。当時の柄谷真佐子と『現代という時代の気質』(晶文社 1972年)が共訳されているが、それを読む前に、柄谷のどこかのエセーで言及されているのを知ったのが興味の最初であっただろう。そのエセーで、柄谷が引用していたのが、上の動画番組でも、執行が『人生のロゴス』(実業之日本社)でもとりあげている、以下のようなアフォリズムであった。

 

<山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない。>

 

私はこの言葉を、唯物論的に理解していた。宗教は民衆のアヘンである、というマルクスの言葉の延長として。柄谷のエセーからも、そう理解したのであろう。だから、信仰(宗教)に陥らないように社会変革をしていくことが肝心なのだと、となる方向で。

が、執行は、まったく逆なように理解を提示しているのだ。技術が発展していくと、信仰が置き去りにされてしまう、だから、社会が退廃していくのだと。山を動かす信仰を捨ててはならないのだ、この信仰が、何百年何世代もかけてのボランタリーな巨大な記念物や中世のカテドラル教会を作り上げてきた(ガウディのサグラダファミリアどころではない)、信仰のないところでは、人は技術の道具となってしまう。

 

<右の言葉によって、ホッファーは現代文明に警鐘を鳴らしているのだ。逆説の哲学者の面目が躍如としている。山を動かすほどの信仰が、山を動かすような技術を生み出したのだ。それが、信仰と技術の正しい相関関係である。現代を生きる我々は、それを忘れてしまった。人間は、自分の力で現代の技術を作り上げたと自惚れている。私は、その悲劇的結末が近いように感じている。宇宙の根源的実在から離れてしまった技術には、未来はない。>(『人生のロゴス』より)

 

私は、ホッファーの大衆批判も、ニーチェのいう弱者批判、ルサンチマンによる連帯にすぎない的に理解していた、が、動画での引用を上作品で確認して、もう一度、自宅にあるホッファーの著作の、若い頃、線を引っ張った文章だけでもと追ってみた。すると、こんな箇所に、線が引かれていた。

 

<人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する。「神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きものを選ばれたり」という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD・Hローレンスのような人たちは、重要な点を見過ごしている。>(「適応しえぬ者たち」『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 中本義彦訳 作品社)

 

ホッファーの言う「魂の錬金術」とは、上のような弱者の転倒ではあるが、ニーチェのそれとは違うのだ。さらに深い、もうひとひねりある、さめたリアリズムなのだ。これは、理性の巧緻でも、自然の巧緻でもない、人間=宇宙による巧緻(錬金術)、というべきものだろう。しかし私が振り返ってみれば、私の柄谷の最近著への批判は、ホッファーを引用するところから始められていたのだった(ダンス&パンセ: 柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む)。

 

ところで、参加している生活クラブの今月(9月号)の冊子では、水俣病患者の支援活動をしている、相思社の永野三智さんの談話が掲載されていた。彼女はその現場で、まさにホッファーのような認識、患者が発揮する「魂の錬金術」を語っている。——「お前みたいな若いのに何がわかるんだ」と言われながらただ聞くだけの日々、そこで救われたのは、「女性患者たちと、海に貝を、山や畑に山菜、野菜を取りに行き、一緒に料理をして食べて過ごす「遊び」の時間」だったという。「苦しいとか悲しいとか、わかるわからないではないところでつきあえるので、遊びを教えてもらえるようになってから、別の視点から患者をとらえることができるようになりました。」と。そして、国内でのヒッチハイクやインドへの旅をしていた自分であったので、「定住」することに不安があったけど、相思社で患者たちの話を聞く事が「ここにいながらの旅となり、もう旅に出ようとは思わなくなりました。…(略)…水俣病を発症した人たちは、苦しみから逃れて生きる知恵を持っています。とにかく漁に出て海に支えられたり、食べることにていねいに向き合ったり、畑で作物を育てながら、一年一年を生きてきた人もいます。そういった患者の人たちといっしょに、水俣での旅を続けたいと思っています。」(「オピニオン」『生活と自治』 9月号)

 

以下が、上を補強するホッファーの哲学である。

 

<必要に迫られている間は、依然として人間は動物界の一員である。人間は、ただ生きるだけであったら不必要なもののためにエネルギーを注ぎ、さらには生命の危険さえもおかす場合に、特異な存在としての人間となり、最高の創造力を発揮する。したがって、人間(マン)の人間化(ヒューマン)が起こったのは、自然の恵みが豊かで、余暇があり、遊びたわむれる性向はあった状況においてであったと考えるべきである。自然界における人類の擡頭は、心細い戦場においてではなく、エデンのような遊びの庭において起こったのである。>(『人間とは何か』 田中淳訳 河出書房新社)

 

現代の技術が、この水俣の地にあった「エデン」を破壊してしまったのだ。それが、「信仰」なきゆえなのは、明白である。が、チッソの創業者たちが、サムライ的な信念の人だったことを考慮してみよう。そうすると、「信仰」をめぐって、もっと深く細部への、具体的な実践へと繋がる洞察が導きだされるだろう。

 

※ 柄谷がはじめたNAMで、そのセンター事務局を、京都から東京に移す際の引継ぎ業務のとき、京都の事務員からこう聞かされたことがある。浅田彰をふくめた京都の会議で、私菅原のメールがとりあげられて、柄谷がそれをエリック・ホッファーをもちだして説明していた、というのである。どんなメールなのかは知らないが、言いたいことはわかる。私もホッファーのように、最底辺に近い労働現場でものを考えてきたからである。むろん、私はホッファーのような洞察力にはまったく及ばない。が、肉体を動かしていると、やはり色々考えてさせられてくる。最近も、一緒に働いている早稲田大出の若者の気づきのなさから、「縄文」と呼ばれる精神のことが、腑に落ちてきた。もちろんこれは、「信仰」にかかわる。それがわからなきゃ、植木の手入れも上手にならないぞ。……今の現場でも、深い洞察を与えてくれるところは、数々あるだろう。

2026年8月14日金曜日

宮台真司・奥野克巳著『宮台式人類学――前提を遡る思考』(ちくま新書)を読む


 一般教養を確認してみようと、この厚い新書を読んでみる。引用される社会学者関係の人物は、名前も知らない人もいるけれど、自身の既存教養で消化できる。着眼点は重なるが、そこからの認識実践へもっていくところで、私と意見は違うだろう。

 

要は、宮台は、懐かしい昔へ帰れといっているわけだろう。遺伝的にフィードバックもされた「原生自然」に近い生き方・価値を回復せよ、と。その180万年の人類の歴史は、人為的に変えられるものではないのだと。しかし、それに嫌でも気づいて転回するには加速主義的にゆくところまでいくしかない、と。ここは、私も、そうなってゆくのだろうと思う。が、その転回は、昔に帰ることはありえない、と私は思っている。宮台は、シュタイナーも自身の範疇で理解しているけれど、シュタイナーは、群れ(仲間)の回復ではなく、あくまで、個人主義的に成りゆくのが宇宙法則(自然の進化的傾向)と言っているのではないだろうか?

 

ただこの個人主義は、柄谷行人的「単独者」というより、吉本隆明的「非知」に近い。柄谷は、吉本の「非知」に「ボケ」とルビをふるべきだと、自身の理解するヘーゲル哲学にすぎない(マルクスでない)と吉本批判していた。が、シュタイナー的宇宙法則(輪廻)にたてば、インテリこそが知性的でないとなるのだ。彼らは往生できない。だから、そういう人が多いと、いつまでも昇華しえない魂が残存していて、人類は地球段階の次にはいけない、そしてその次段階はシュタイナーにも見えない、と言っていると、私には思えた。その私のシュタイナー理解(まだ主なものしか読んでないが——)からは、宮台がテック資本主義活動からみてとる「カスタマイズ」は、個々人の嗜好にすぎず問題とされない。地球段階自体が、人類のカスタマイズであり、宇宙人は、このカスタマイズされた宇宙の外(隣)からやってきていると観察されているからである。青森の有機りんご農家の木村さんの見聞も、そう証言しているように聞こえる)。

 

宮台は、ドゥルーズ的な「分裂病」などは近代に寄りかかった一時的なもの、と認識する(p454)。私は違うと思う。高群逸枝は、当時まだ熊本に残っていた夜ばいなどの群れ的性慣習を気味わるがって、そこから一対一の男女関係を志向し、それでも群れを認めた(森崎和江や石牟礼道子も然り。それは、宮台の発言でいえば、ダウン症が一定の割合ででてくるということは人類がそれを必要としているからだ、というように、分裂病的な人物も、類として必要な割合(生態)なのだと私は認識する。そしてそれが、シャーマンや預言者の位置だ、と。そうした人物の言動に感化されるように、人類は1人1人が解脱し、最終的に、煮えたった釜の水が一泡一泡になって蒸発し気化し釜(地球魂)が空になっていくように、そうなって、人類は次の惑星段階に魂の物質塊として進化していくのだ、とシュタイナーは言っているように思う。

 

ジジェクは、そんな予定調和的な自然はなく、量子論的に自然は根源的に「崩壊」しているのだと言う(『性と頓挫する絶対』)。が、波動から物質への移行を「崩壊(collapse)」とするジジェクの解釈こそが、ヒューマニズム近代によりかかっている。宮台は「崩壊」ではなく、たしか当初の、ボーアの提案を受けたハイゼンベルクの用語の「収縮(reduction)」をこの書では使用している。私もそれが妥当だと思う。そして、宮台が、「原生自然」に「凹凸」をみる、つまり、陰陽的な男女(+-)を確保しているのも、私と同認識だ。ジジェクのひき出す空(無)からの質量発生にも、物質でのプラスマイナスと、反物質でのプラスマイナスという対が関わるのだ。(と、量子論を私は理解しているのだが、まだブルーバックス程度の一般書で確認中。)それを「崩壊」として受け止めるのは、人間からすれば、の話だ。

 

ジジェクは、バイオテクノロジーが、「原生自然」(遺伝子生態)をも破壊変更していく、と考える。このテクノロジー理解の点は、宮台は、曖昧だと思う。AIに関してははっきりしているが、バイオに関しては、どうなのだろうか? もし現テクノロジーの進展が「原生自然」を破壊できるまでに可能であるなら、宮台理論は成り立たない。ジジェクは、昔を懐かしがらない。人間ではなくなるのだ、と認識しているのだろう。その肯定方向からしか進展はないと。シュタイナーは、たぶん、そうなると人類は終わる、と提示しているのだと思う。あるいはそこからの推論で、宇宙意志は人類を見放して、鉱物に魂入れする、とかの話がでてきているように思う。その場合、人間から、シュタイナーが一番の根底にすえる解脱のための「思考」というものは人類から消えるので(分裂病・預言者・シャーマンも、芸術も消える)、議論・問題自体がもう発生しない。

 

宮台は、「内から湧く力」(ニーチェ的なもの)の回復をのぞむ。これはかつて、柄谷行人が「ファシズム」だと批判していたものだ。この早とちりは、柄谷がはじめたNAMの芸術会合で、岡崎乾二郎が、柄谷がファシストになる者として否定した宮沢賢治を擁護し、最初の読書文献にロドリゴの『贈与の謎』をとりあげたりして批判していた。いまは柄谷は、贈与を擁護しているが、かつてはそれは「共同体」的だと否定されていたのである。だから、そいういう日本批評史上の文脈において、斎藤幸平が『大洪水の前に』で、疎外論をマルクス的唯物論につなげたことを、私はこのブログでも評価したわけだ。が、新作の『人新生の黙示録』では、その線が希薄になって、世界を変える話になっているわけだ。東浩紀は、それではクーデター起こすという話にならないのか、と批判していたが。東の『平和と愚かさ』はまだ読んではいないが、私は東がとらない終末論を、宮台のように受け入れる。そして宮台のように、終わりを防ぐのは科学ではない。川や大気が汚れているのは、見れば、臭いをかげばわかる。CO2の量なんかじゃない。いまの気候変動が、人為的なものが一番の原因なのかはわかりゃしないのだ。が、科学的にどうであれ、身体的・感性(美)的に判断しうる。それは、樹木一本の伐採でもかわいそうだからだめ、とはならない。アイヌ人が熊に感謝するのは、知恵あるライバルとして尊敬するから(スポーツマンシップみたいなものだ)、殺していただくのだ。そうした感性において、乱獲はありえなくなる。環境は見た目でも汚くなる。(中上健次の「ユンボで掘った土と手で掘った土はちがう」――手掘りの方が無駄な土もでず仕上がりきれいで、時間もかかるので、破壊からの地力回復もある。)

 

ジジェクの予想なように、この身体感覚、宮台のいう「原生自然」までもが破壊(崩壊)される(する)なら、終わりの意識もなくなるだろう。哲学的に目的論ではなくなるのは頭がよくなることなのだ、単に出来事は偶然と受け入れられる感性こそが先取的だ、と唯物インテリの厳格主義は評価してきたのだけど、量子論的に全てがつながっている、もつれあっているならば、違う系と系による衝突(偶然)なんてものはありえない。シュタイナーが観察するように、この地球宇宙系では、すべての出来事に意味(必然性)がある。私達は、その意味を確定できないし、他の系からくる宇宙人とは衝突できないとしても。

 

となるのかな?