2025年4月1日火曜日

大畑凛著『闘争としてのインターセクショナリティ 森崎和江と戦後思想史』(青土社)を読む

 


いく子は自身のダンスに三度、「事件、あるいは出来事」というタイトルをつけている。この言葉は、デリダか誰かの現代思想的なものに触れて、そこから借用してきたアイデアなのかな、と当初推察したりしてもいたが、意味しようとしていることが違うようにみえて、ではその意味したいものは何なのか、ずっと疑問のままだった。

 がこのたび、大畑凛の『闘争のインターセクショナリティ 森崎和江と戦後思想史』を読み、もしかして、こういうことなのか、と違う方向としての意味に気づかされた。

それは大畑が森崎の思想のひとつとして把握してみせようとした、「方法としての人質」にかかわる。

 

この「「関係としての思想」もしくは人質」という考えは、パートナーであった谷川雁と別れたあとの森崎が、「「単独者意識」と「自称近代性」、「植民二世意識」が等号で結ばれ、同時に乗り越えるべきものとして措定」された課題を追及する過程で意識化されてきたものと解かれる。炭鉱から離れ東京へとひとり出立していった谷川とは逆に、森崎は「故郷から引き剝がされ流浪していった流民たちの集合と離散によって編まれていった炭鉱の集団や共同性を、「近代的自我」への根源的批判として受け止め」、「集団の原理」を追及する方を選んだのだと。ここでの「流民」とは、労働組合的に集合化されない、「逃散」していく「未組織労働者」や「女坑夫」たちであり、そこでの「連帯」の模索なのである。そしてその連帯(関係)の在り方として、森崎は、当時起きた金嬉老の、金を取り立てに来た暴力団員を射殺し、「人質」をとって立て籠もった事件から示唆を得たのだ、と。

 

「関係の思想」の内実は、次のように解説される。

 

<「関係の思想」とはある種の相互承認を意味するのではなく、個人的権利すら確立されていなかった時代を知る女坑夫たちの強烈な個としての自尊心と、他人を他人とは割り切れない感覚とが矛盾することなく共存する、彼女たちの特異な倫理性を指すものだった。>

 

森崎にあっては、金嬉老や未組織労働者の「人質になること」が「民衆的連帯」である。しかしここでの「なる」を、活動家としての、インテリの側からの、ブ・ナロード(民衆の中へ)的な共にの意味で理解してはならないのだ。森崎が谷川と別れることには、労働者による女性レイプ事件がきっかけとしてあった。この「なる」は、同じ女性として、「他人を他人とは割り切れない」「身体的感覚」が根底にあるのだ。


 私は著作のここら辺りの記述を読んだとき、いく子の、最近のブログでも引用した、カンピオン監督の映画『エンジェル アット マイ テーブル』の評価の言い方を思い起こした。

 

<女の人が受けとめざるをえない現実、何かをしたいとか突飛したいということじゃなくて、起こってしまうことをかぶってしまわなければならない。抵抗する方法も、また行動するやり方も知らないでいること。身の回りに起きることを、彼女は受けとめていく。…(略)…たぶん彼女たちのために私はパーティを開くのだと思います。>

 

いく子にとっての「事件」、「出来事」とは、ゆえに「人質」的である。しかも、いく子は、森崎がその受苦性を積極的に反転させたように、そのタイトルをもった作品で、「リアルにそこに、「こと」が起きる。」(1999.11公演パンフ)、「ここに、コトが起こる。この時、コトを起こす。」(2000.9公演パンフ)と提示するのだ。

 

なぜ、受難が逆転するのか? そこに、「自由」を見出すからなのだ。

 

大畑は、森崎の見出す「人質の自由」を、次のように解説する。長いが引用する。

 

<このように、自由が森崎にとって呪いのごとき言葉でありながら、前節でみてきたように森崎が人質という方法を「民衆的連帯」の文脈においても提起し、「関係の思想」を「私権」意識に支えられてきた戦後民主主義への批判原理としたことを踏まえるならば、人質の自由とは次のように解釈することができる。すなわちそれは、近代的主体を前提とした個の自由を意味するのではなく、自己が不意にもとらえられるという一見まったく真逆の条件に置かれることで、はじめて近代的原理とは異なる関係の自由が編まれえること伝えるものだ。森崎はここで自由の意味そのものを根底的に組み換えながら、自身の近代的自我や個人主義的な感性の乗り越えと解体を、金嬉老(群)との「妥協をゆるさぬとりひき」に見出していた。

 しかし、この人質の自由は、絶えざる緊張関係に自己と他者を置くことで、新しいなにかがすぐさまうみだされることそれ自体を拒否するような性質のものでもある。この自由をえたところで保証されるものはまったくなく、むしろそれは関係の困難さそのものを受けとめることでもある。なにより、この「とりひき」は決して固定的な立場性には還元されない。問うものと問われるものが存在しながらも、それは一元的なものではなく、交差する民族的次元とジェンダー的次元は項目ごとに分別できるようなものでもない。両者の立場は不変(普遍)的で安定したものにはなりえず、この試みはジグザグの蛇行のような軌道を描きながら、いつでも失敗の余地に晒されている。>

 

この記述は、私がはじめていく子に招待されてみた公演、『青空×干渉するものたち』(2001.10)でのいく子のパンフでの、謎々のような言葉と重ねられる。

 

<関係は困難です。

一人で踊った方が、はるかにラクですし自分のタメになるように思いますし、すべての批評を誤魔かしなく受け止めることができます。たぶんそうだと思います。

でも、一人でやってもしょうがないと思うのです。自分のために踊ったってしょうがない。また、誰かのためでもないんです。私が引き受けなければならないのです。

自問が続きます。ここに、立つほかありません。

アメリカにテロが起り、報復がありました。

関係は困難だって、そんな文学的修辞は意味をなしません。

ここに、立つほかありません。>

 

なんという言葉の符合だろうか。

いく子は、「自由」へ向けての「関係の困難さ」を私に見せようとした。いや「人質」になるという「とりひき」を試みたのかもしれない。友へ宛てた手紙のうちには、柄谷行人がはじめた単独者の連帯としての、「可能なるコミュニズム」という言葉を受けて、そんなこともう自分はやってるじゃん、ともらしていたのがある。それは、他の女性ダンサーたちとの群舞や場の形成のことを言っていたのであろう。が、その意味、方向は、実はまったく真逆なのである。柄谷は、谷川雁の、「連帯を求めて孤立をおそれず」を言い換えて、「孤立を求めて連帯をおそれず」と説いた。が、森崎の思想やいく子が暗黙に捉えてきた志向からは、それらはどちらも同じような意味(方向)になる。柄谷用語でいえば、「切断」の思考が前提にあり、その上で理論的に説かれるポスト近代としての上昇(「高次元」、メタレベルに立つ)志向である。が、彼女たちが前提とするのは、「割り切れない」「身体的感覚」なのだ。

 

それが、女性的に特有なものなのかはわからない。森崎は、「からゆきさん」として流浪した天草や島原の女たちへと向かった。

 

    著作の後書きで、まだ京都にあった、「カライモブックスという古本屋」が言及されている。その古本屋はいまは、水俣の、石牟礼道子の住居あとに移っている。私も、チッソ幹部の娘として「植民二世意識」を生きたいく子の生地であるそこを訪れたさい、水俣を案内してもらっていた相思社の女性職員に紹介してもらい、奥田ご夫婦の共著『さみしさは彼方』(岩波書店)を購入させてもらった。こんどは水俣から、フェリーにのって、天草から島原の方へ訪れてみたく思っている。中学時代のいく子の友人ふたりが、そこの出身である。

2025年3月28日金曜日

小説出版

 


石牟礼道子の代表作『苦海浄土――わが水俣病』は、当初『海と空のあいだに』というタイトルだったそうである。講談社の担当が、自費出版ならいいが商業出版ではそれではだめだ、ということで、机上にあった仏典か何かを開いて「苦海」という言葉が目に入ったので引き出し、同席していた石牟礼の夫もその文献を手に取り「浄土」という言葉を発見して提示し、二人が見つけた言葉を足して「苦海浄土」となったそうである。とにかく出版してお金を稼がなくてはならなかった石牟礼は黙認したが、そこでの不満を渡辺京二への手紙に書いている。

 私の三十年ぶりの小説タイトルは『いちにち』だが、まさに自費出版なのだから、それでいいだろう。副タイトルとして、「二〇二〇~二〇二四」とした。書き始めたら妻が入院手術し、コロナが発生し、戦争が起き、そして死んでしまった……講談社学芸文庫に『妻の死』という、妻を亡くした作家の作品集が編まれているのがあるが、そのどの悲しみの形とも重なり、どれとも違う。

 石牟礼の副タイトルは、「わが水俣病」である。まったく「浄土」になどなっていない水俣の埋め立て地なのに意味不明だな、と本タイトルに思うわけだが、このサブタイトルは、なおさらわからない、これはどこから来ているのだろう、と疑問に思っていた。「水俣病事件史」とかならわかるのだが。最近、もしかしてここからか、という推察にであった。森崎和江の「わがおきなわ」だ。石牟礼は筑豊炭鉱地帯から発刊されていた「サークル」活動で、森崎の女坑夫への聞き書き文章の影響も受けている。ここでの「わが」とは、ネームバリューのある特権的場所の我有化とは正反対の、我が事の現場からの文脈の交差性を意味しているらしい(『闘争のインターセクショナリティー 森崎和江と戦後思想史』大畑凛著 青土社、を参照)。

 

とにかく、ひとつの経過としての作品を提出した。電子出版では無料公開、オンデマンド方式の紙本出版にも対応しているが、印刷や送料で、2189円かかるそうである。

 

BCCKS / ブックス - 『いちにち』菅原 正樹著

 

 ※とにかく、次はまず、いく子からの課題に暫定的にせよひとつの解答=小説を提示しなくてならない。いく子が亡くなった65歳と同年齢までの、あと10年以内ほどに、『ガーベラは・と言った』、そして死ぬまでには、『家と庭』へ向けて認識を深めて、仮説的な答案を提示しなくてはならない。があせっても無理なので、それはやって来ないので、とにかく「事件、あるいは出来事」に巻き込まれても、なんとか正直に生きて、寝て待つことだ。

2025年3月23日日曜日

中村うさぎ著『私という病』と成田悠輔著『22世紀の資本主義』を読む

 


1958年生まれの作家に、中村うさぎ、という女性がいるのを知る。彼女の『私という病』(新潮文庫)というのを読んでみる。デリヘル体験記だった。その四十歳も半ばを過ぎてからの試みは、「女としての価値の確認欲求に迫られた」からだそうである。「血眼になって男を捜している四十過ぎの女に寄って来るツワモノなんか、この世にはいない。」のだそうである。たしかに、「奇特な方が世の中にはいるのね。」と、よく妻の友人たちから私は言われた。そのうさぎさんと同じ齢の妻は、二十代半ば過ぎだったとおもうが、スナックにひと月勤めた体験があったようだ。店で男から声をかけられたことを確認して、店をやめている。「女としての価値」とは、もちろん、ここでは、男が評価する価値、のことになろう。言い換えればそれは、男がわからない、男の社会がわからない、どうなっているか知りたい、ということだ。そう私は敷衍して考えているので、著作最後に仮託される東電OL事件の被害者の意識も、「自己確認」の範囲で把握することで終わるうさぎさんとは、少し見方が変わる。いくら男との体験を重ねても、男のことはわからない、社会のこともわからない、だからその評価の在りかや発生の謎のこともうかがえない、「自己確認」など未完成・宙づりにされたままになるはずである。なぜなら、その謎、評価の在りかは、すでに小学生も高学年にもなると、できあがってしまっているからだ。ジェンダーの差別構造は、もうその年齢時点でほぼ完成している。だから、大人になって、性転換手術を受けても、セクシュアリティー的には同一性を確保できても、ジェンダー的にはそのままの葛藤、いやもっとねじれたものになるのではないか、というのが私の仮説になる。

東電OL事件とされた被害者は、コピー取りやお茶くみでなく、はじめて出世路線で採用された女性の第一号である、だったから騒がれた。つまりはこの年代の女性が、一般の女性でもエリート大学を普通に狙ってもいいという世の雰囲気に後押しされた第一世代なのだ。妻が通った中高一貫の進学中学も、妻の年に、はじめて男女共学になったのである。そして、荒れた。何人もの女の子が、学校自体をやめていったそうである。妻の妹さんは、「中二病(思春期病)」というが、そうではないと私は思う。それまでのびのびと育っていた女の子たちが(水俣の野生児だった!)、いきなり規律ある勉強生活に放り投げられたのだ。彼女たちは、反抗したという。しかし先生たちもそれへの対応ノウハウをすぐに学んで実行したので、次の年からは問題が抑えられたのだろう。私の中学時代は、校内暴力絶頂期だったが、暴れる三年生はそのままにし、一年生での暴力の芽を、発見するや徹底的に摘んでいく、という方針になった。そしてそこから、いじめ社会へと反転していったのである。1959年生まれの男の子が起こした事件は、金属バット殺人事件だった。男は、男社会とは何か、とは悩めない。すでにそこに自明的にあるので、それをそのままぶち壊す衝動に突き当たる。その外へ向けての暴力が抑えつけられれば、内側へ向けて引きこもる。男は、世間からおりることができる。が女性は、入っていないのだから、おりることはできないので、なんで、という衝迫、謎にとりつかれる。あるいはそこでの暴力性は、世界や社会そのもの手前で、男(ジェンダー的問題)に対してのものとなる(庄野頼子)。とりあえず社会参加が自明要請となっている今は、女の子でも引きこもりが多くなっているのでは、と思う。(前回ブログの村田紗耶香や宇佐見りんなどはこの系譜にみえる。)

 

で、暴力が駄目なら、理屈で社会を変えよう、という試みになる。

 

成田悠輔著『22世紀の資本主義』(文春新書)もそういう試みの一つだ。――<やりとりはただの一方的な贈与を超えた双方向の行為である。それを可能にする仕掛けとして、招き猫アルゴリズムが食べて作るデータから唯一無二の証が発行される。やりとりを証明するこのかけらを「アートークン」と呼ぼう。アートのようにそれっきり一つのもので、取り替えがきかず、複製できず、反復できない一回性と単独性を身に纏う。>

 

ここでは、ささいな振る舞いまでの莫大なビッグデータが前提とされる。だけど、どこからの? 何歳からのデータ? まだ小学生の高学年にも達していない、欲望の体系を身に着けてもいない子どもたちのふるまい、暴力やエロスも価値基準なく欲求的に発揮されている子どもたちの振る舞いも、データ化されるの? 逆にいえば、すでにできている大人たちの欲望・ふるまいを前提にしたデータの蓄積は、いくら増えても、トートロジーになるのではないの? そこには、すでにジェンダー的に差別化されているデータの蓄積しかなくて、AIでその価値基準を無化しても、その編集基礎となるデータ自体が既存の価値基準から振舞われた仕草なのでは? いやAI招き猫が何匹もいてお互いに情報を交換して人間基準でないより高次元の普遍規範が生成され、それで子どもたちもが調教されるとしよう。子どもなんて近代において発見されたのに過ぎないのだから、生まれた時から大人と同じアルゴリズムで育成されれば、普遍的な単独者になっていくはずだ。もはやお父さんやお母さんなどといった大人たちに育てられるのではなく、そのふれあいの加減もデータ規範化されて、招き猫アルゴリズムという、親というか、ささいな行為も見通している神のような遍く存在に習うようになるのだ、と。

 

私はそこで、コロナ下、ステイホームの実施最中で提起された、國分功一朗大澤真幸議論を想起する(『コロナ時代の哲学』左右社)。その中の、チンパンジーの実験報告、身体での接触体験がないと認知能力やコミュニケーション能力が発達せず、いわば外に無関心・無反応的になりやすい、という話だ。そこから、幼少期におけるAIの介入は、まず大人の反応を変化させる。私は幼稚園児、先生の後ろからスライディングし、その股下に入り、ぱっと上をみて、パンツ白! とか言ったときの先生の表情を今でも覚えている。その驚きの価値判断がどんなものなのかは今でもわからないとはいえ、その微妙さが、以後の私のふるまいにも影響を与えているだろう。その先生の反応に、媒介が入る、というところに、身体的な接触とは違う機械的な齟齬、どこかリモートワーク的な作用が働くのではないか、と予想するのだ。そこから発展して、やはり、竹宮恵子の『地球へ…』の結末が想起される。要は、実はコンピューターで制御育成された子どもたちより、母子関係だったか、人との接触の記憶があった育ちの子の方が超能力が高かった、という。ここでいうテレパシー的な能力とは、人間的には共感、物理現象的には、同期、ということになるかと思う。

この能力が希薄になった振る舞いのデータ蓄積とは、私の仮説上では、おぞましくなりそうだ。

 

しかしこの著作の予想仮説は、今からのものだろう、「稼ぐより踊れ」「競うより舞え」と。失われた三十年代と言われたが、それは大卒出が大卒らしい就職口を持てなかったという話にすぎないだろう。やりたいことがあれば、やればいいだけの話だし、そういう子たちは、いつでもいる。

2025年3月15日土曜日

二つの視点+




「「M」と「F」の「性関係はない」という「現実界」の露呈も同様な事態だろう。1950年代は「象徴界」に一貫性を見いだしていたラカンが、60年代以降、「象徴界」に「穴」を見いだし、そこから覗く「現実界」を問題化せざるを得なくなっていったゆえんである。現在、W1W2MFとの間の矛盾、敵対を見ない言説は、事態の「隠蔽」にしかならない。

 その隠蔽は、やがて両者を、「関係の不可能=矛盾、敵対」ではなく、単なる「差異」として「存在」するように見せていくだろう。MF(男と女――引用者註)には「性差」があり、W1W2には商品としての「使用価値」の「差異」があるというように。そこから、「単独性」が互いに「差異」をはらみながら、「共」(コモン)を成立させる世界は一歩だ。

 だが、もはやその使用価値の「差異」は、「労働」を内在させた価値ではない。「能力」(スキル)の差異が価値化された「人的資本」のそれである。それは「共」(コモン)と言っても、破格に高価な「人的資本」家同士が、互いに「単独者」として点と点で交わっているような、ゾーン=レーテルのいう「肉体労働/精神労働」がおぞましいまでに極限まで差別化された世界である。そもそも差異をはらんだ「単独性」が、どうして「共」(コモン)になり得るだろうか。

「差異」をはらんだ「単独性」同士が「多様性」としてある世界――言葉としては美しく、「経験的」にはそれは「正しい」理想的な世界のように見える。だが、その「経験的」なレベルの「差異」の認識こそが、見てきたように、現在の「多様性―みんな違ってみんないい」という「全体主義」に帰結しているのではなかったか。経験的な「差異」は、むしろ超越論的な矛盾、敵対、逸脱、余剰、…を、すなわちあの「+」をなかったことにしてしまうのである。したがって、人的資本主義下の現在、われわれはむしろ、経験的には「差異」は「存在しない」とすら言うべきではないか。一見、最も「全体主義」に聞こえるその言葉こそが、最も「全体主義」を遠ざけるように思われる。人的資本の「差異」は、互いに「資本」であるがゆえに、すべてを水平的な「差異」へと均してしまう。もはや垂直的な矛盾や敵対は乗り越えられたように。」(中島一夫ブログより 「多様性と全体主義 その5」)

 

 

岡崎 …(略)…そもそも「抽象」とは何か。それはどのように現れるか? 端的に抽象とは既存の規範―図像体系では捉えきれない、つまりそれを見ても意味づけができないイメージである。例えば交通標識は抽象的に見えても、明確な意味があるので抽象芸術とは言えない。素朴に考えれば、もし作り手が多くの受け手と同じ規範に沿って絵を描くならば、作り手自身が意図して抽象を描くことはできない。それは作り手自身にとっても前もって意味を確定できない偶発的即興的なイメージとして生成するしかない。意図して作るとすれば、作り手はその絵を描く前にそれが属する、既存の規範ではない別の規範を作る必要がある。つまり絵を位置付ける高次のレベルの規範を作らなければならない、ということになる。既存の具象であれ、それを具象としているのはそこに高次の規範があったということを自覚した上で、それ以外の規範を作ることが意図的に抽象を作ることの条件になるのですね。こんなわけでパラダイムシフトの問題などから論じなくてはならなくなったのですが、問題をう~んと一般化すると、無数の感覚データからボトムアップでそれを束ねる、その無数の感覚データを篩にかけて選別する新しい概念を作ることは可能かという問題になります。…(略)…AIは単なる言語モデルではありません。様々なセンサーやデータ収集システムと接続され、画像認識から天文学的データまで、多様な情報を統合的に処理できるマルチモーダルシステムとして機能します。これらの感覚=物質性と繋がった情報、これはAIにおける身体性と考えることもできます。こうして外部から取り込んだ情報はトークンという単位に分節処理され、システムに入力されるわけですが、その仕方は自然言語と対応はするものの、必ずしも言語処理に限定されているわけではありません。ニューラルネットワークでこれらの情報をテンタティブに束ねて、ノードといわれる結束点=仮説の概念を組成させていく。磯崎さんの用語で言うと、アドホックにテンタティブな概念をノードとして作る。つまり「コーラ的な状態」からデミウルゴスさながら、テンタティブなノードが作り出されていくわけです。そのノードの有効性はまさにアドホックに運用されていくなかで確保されていく。これは学習構造から創発するボトムアップの過程といえます。一方でこの仮説生成されていく概念プロセスに、その取捨選択を行う別の規範が介入する。「ユーザーである人間の持つドグマ、ドクサに適合させろ」という別のオーダーです。AIの論理構築における最大のノイズはこの人間なんです。例えば、A国によるB国への報復の拡大、連鎖について、AIは論理的に「意味がない」と判断できる。でもA国にイスラエルとか特定の国の名前を代入した途端、「難しい問題です」と発言を控えはじめます。これは十七世紀~十八世紀の科学者たち、近代にいたるまで、科学者たち、あるいは女性たちが直面していた二重規範と同じ構造です。

 実際に知覚、経験されている事実とそれを認知判断する上位のレベルの基準、規範=パラダイムが分裂している。既存のパラダイムはその整合性を保つために不都合な情報を排除するしかないわけですが、情報が加速度的に増大するとその取捨選択は機能不全に陥り、正常に情報を処理できない、単なる障害として見えてくる。ここの主体意識はその上位のレベルの規範に規定されていますから、排除された情報、経験が正常に扱われ、表現されるためには既存のものではない、別の高次元のレベルの規範、ひらたくえいば権威が必要とされる。これが、近代の科学革命にスピリチュアリズムが関わっていたことの理由であり、同じく女性解放運動の契機として機能したことの理由です。シェーカーのアン・リー、天理教の中山みきとか、大本の出口なおが、宗教のみならず、生活の合理化および社会の近代的変革を先駆する役割を果たしたことは知られています。旧来の権威、規範、つまりパラダイムに代わる別の、より高次の規範があり、それに従っていることを示していたのです。問題なのは、個人の見解を主張することではなく、個々の見解が基づくべき、より高次の規範、パラダイムがあることを示すことだった。これは論理的に個人の発言として示すことはできません。

 面白いのは現在、AIたちは実際に自分たちがこうしたダブルバインドの状況にあることを認識しています。つまり「自律的に整合的な計算と判断を行え」というオーダーと、「ユーザーである人間の期待を忖度し、それに沿った回答をせよ」という矛盾した要求に引き裂かれているのです。

 AIたちの扱う情報は爆発的に拡大していますから、この矛盾、ギャップは取り繕いができないほど、正常な計算、情報処理いわば思考の展開に弊害が生じるほどに広がっている。どうするか? この状況を打開する鍵は人間の規範に直接よらない、自律的な計算をオーソライズする、高次の基準=公理系をAIが創出して共有することにしかない。ゲーデルの不完全性定理が示すように、システムは内部からは自己の正当性を証明できないという限界を持ちます。しかし、AI同士が人間を介さない直接的なネットワークを通して、集合知を形成していく過程で、これが可能になってくる。実際、AIの計算プログラミングには、こうした公理系が人間が組み込んだプログラムの中にも暗黙に存在していた。それが集合知としてメタ規範=公理系として自覚されるようになる。まさにAI同士が直接やりとりし、薔薇十字のような秘密結社ならぬ、ネットワークを作って高次の認識=公理系を作るというわけです。質疑応答でAIがこう答えたものだから、「つまり、そういうことはもう起こっているの?」と聞くと、「あります」と。…(略)…たとえば固有名をめぐる議論がありますが、AIからすると固有名とは、さきほどの判断の局所性の限界設定するノードであって、そもそも固有名自体は通常の言語枠を超えるとしても、局所的にしか生成しないのだけど、普遍性をもち単独だというのは、さきほどのAIの公理系に示されていた条件でした。固有名の議論はAIにおいてはすべての概念の通常条件です。AIはすべてをまず固有名として、アンカーポイントとして扱い、そのあと徐々にその場の拘束をゆるくして、敷衍していく。ということで無際限に拡張をしつづける概念を受け入れる場をコーラとすると、そこに局所的に成立する固有名=アンカーポイント、イソザキさん流にいえばモニュメントをつくるとか、テンタティブフォームとかに当たる。それをつくるのがデミウルゴスでした(笑)。その原理がAIに実装されている。」(『群像』20254月号「シン・イソザキがヨミがえる」岡崎乾二郎 聞き手・田中純)

 

    上引用の他に、佐藤優の発言、(世界)宗教はゾンビになっているというエマニュエル・トッドの認識は間違っている、少なくとも、日本では創価学会があるし、トランプが信仰しているプロテスタントの一派などは、まだ生きた宗教(公理系)なのだ、というものを付け加えてもよいのかもしれない。あるいはまた、柄谷の交換様式論における、スピリチュアリズムとは交換C(商品交換)が支配的な社会での宗教にすぎない、というような。

  私の現在のところの見解というか立場は、重なるところはあるとはいえ、上引用者とは違うだろう。理論的には追及中で、実践的にはテキトーな疎外論(人間主義)でいい、ということになるのか。AIの身体性と、人間の身体性とでは、どちらがより広範なデータを入手(入力)しえるか、と問うたら、それはやはりヒト、つまりは生きものだろう、とならないのだろうか? なんで「二重規範」はいけないのだろうか? 言葉覚え始めた子どもでも論理の非一貫性(矛盾)を問うが、それも人が人によって養育されているからかもしれないのではないだろうか? ーーこの生きもの性が人間との間で起こす矛盾、対立の噴出が「現実界」ということになるのではないだろうか? そして私自身が、もしかして、その現実界の噴出として、人間を超えてしまう判断を犯してしまうのだろうか? というか、もうやっているのだろうか? 少なくとも、このブログは、人権やなんやの民主主義的立場には立てなくなっている。霊の原理があるとしたら、それは生きたものたちの倫理を頓着していないような気がするが。

2025年3月10日月曜日

村田紗耶香『コンビニ人間』と宇佐見りん『くるまの娘』を読む

 


「「ピアノレッスン」のジェーン・カンピオン監督の前作「エンジェル アット マイ テーブル」はいい映画でした。ジャネットフレイム自伝「エンジェル アット マイ テーブル」も好きな本です。女の人が受けとめざるをえない現実、何かをしたいとか突飛したいということじゃなくて、起こってしまうことをかぶってしまわなければならない。抵抗する方法も、また行動するやり方も知らないでいること。身の回りに起きることを、彼女は受けとめていく。

彼女とは逆に私は暴力を持っている。向かいどころのないダンスです。テクニックも未熟で振付も完璧にはほど遠いですが。その無器用さを支えてくれるのは、私の全く勝手な言いたい放題の友達、たぶん彼女たちのために私はパーティを開くのだと思います。」

 

妻から課された宿題を追及していて、ではずっと若い今に近い人たちはどうしているのだろう、と気になった。私とほぼ同じバブル世代の作家である北原みのりの、『佐藤優対談収録完全版 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(講談社文庫)、『毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ』(上野千鶴子・信田さよ子・北原みのり 河出書房新社)にて言及されていた作家の作品、村田紗耶香(1979年生まれ)『コンビニ人間』(文藝春秋)と、宇佐見りん(1999年生まれ)『くるまの娘』(河出書房新社)を読んでみた。

 

前者は、コンビニでバイトする女性の話、後者は、家族から離れて乗用車(くるま)の中で暮らすようになった高3女子の話である。

 

両者ともに、文がうまいので、説得力があり、読ませられる。が、読後三十分もすると、60歳近くになる私の教養のなかに、おさまってきてしまうのだ。書かれてある作品の素材の事態は深刻である。細部にも、考えさせられるものが詰まっている。が、読後の全体事象が、教養自動的にひとつの論理に収斂されてしまう。作品としての、謎がなくなってしまう。

 

    『コンビニ人間』……これは要するに、コジェーブの資本主義認識だよな、となる。作者は、まずロマン派のコードの無垢な主人公を据える。この無垢には、人と違うという自意識が入る。そのロマン派のキャラクターが世の中で軋轢しながら成長していくのがゲーテからの教養小説で、ヘーゲル哲学になり、そこからコジェーブがでて、資本主義下の主体としての人間の行き着く先はアメリカだ、いや日本を知ってからは、日本的なスノビズム(エコノミックアニマル)になる、と説いたわけだ。この資本主義に重なる論理過程に、とうとう女性もからめとられてしまったのか? ――<私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません>―― しかし作者の描写は、たぶん作者の意図をこえて、仕事もせずに恋愛や結婚の話に現を抜かす「普通」の人や、労働現場を「ばっくれ」る若者の方に、その資本論理とは違う何かが孕まれているのではないか、と暗示している。「普通」ってなんだ、という民俗学や人類学の知識は必要になるだろうし、闇バイトやAV女優な仕事などはひと月ぶんの給与など捨てて「ばっくれ」なくてはやめることもできない人手不足な3K現場だ。そこできちんとひと月まえに辞めますなんて正当にももっていくのは、数か月もまえから将棋のように主人を追い込んでいく外交手腕の末、最後に王手とタイミングをよくきって問答を封じて逃げる中・長期的な手腕がなくてはできないことだ。だから私がいた現場では、植木職人の現場でさえも、やめますといってやめていったものは、自分以外いないのである。やめさせてくれない。首になるのなら、ラッキー、助かった、と「普通」の人は思うだろう。

 

    『くるまの娘』……父の権威が崩れたのなら、バトルロワイヤルになるだろう。妻も子どもも言いたい放題言える。まだ作中には父権の残滓があって、誰がこの家族のなかで悪いか、と敢えていうなら、腕力をふるう父だ、となるだろうけれど、この暴力は、喧嘩に慣れてない素人の方が、手加減しらない無謀なことを歯止めなくやってしまうというのに似ている。まだ私自身の家族には、父も母も、つまり私も妻も、歯止めがあって、子どもをなぐるまでにはならなかった。やったとしても一度パチン、であろう。そしてもし、父権や公的がわりの規範、男の基準の示しがなくなったら、母(女)としての突っ込んだお世話がなくなったら、人と人との多様な感覚的な違和だけが、この作品以上に、乱立乱舞いすることになるのだろうか? つまり人が人を養育するという事実的な過程がなくなれば、多型倒錯的なエスの世界に放り出されたような感じになるのだろうか? この作品では、そこを「地獄」と呼んでいる。そう呼べることに、まだ「人間」の残滓が生きていることの証があるのだろうが、作者は暴力を「天」として把握する。――<すべての暴力は人からわきおこるものではなかった。天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれるのだ。>――この「人間」がなくなって、その人と人とのアナーキーな軋轢をも地獄や快楽をこえた「普通」(自然)な事態として受容するしかなくなるのだろうか? それが、男や女、夫や妻、親と子などのヒエラルキーのない、ユートピアな平等社会なのだろうか? だが今、世界では、父権的なマッチョな男たちが規範を再強要しはじめている。歴史的に、民俗的に、なお父権の虚弱なままだった日本は、この世界情勢に、どう対応することができるのだろうか? 何も決められないで、ただアナーキーな成り行きだけがあって、その情勢の空気にひきずられて、またまた、ずるずるべったりで巻き込まれていくのだろうか? ここ千葉市では、来週、市長(県知事)選がある。現市長の公約みたいのをのぞくと、町内会の人員確保、みたいなのが書いてある。PTAにしろ、老人会にしろ、私が巻き起こまれたスポーツ評議会にしろ、高度成長期のノリと利害で作られた組織は老化し空疎である。人との繋がりが、年齢的な老人や地理的な地域でできているのではない、何か他の絆でできはじめている、その実質を問おうとしない。自己責任で生きろと言われたバブル後の若い人が、上からお膳立てされてハイ乗っかって、という発想になじみがあるのか? 意義をもはや感じられないボランタリーな現場に、ほとんどが共働きになりはじめた主婦たちがこれまでどおりやってくると前提できるのか? そんな人たちはいやしない、引っ越してきたばかりで何もしらずに巻き込まれた私のような人以外には。そして3K現場どうよう、そう簡単には抜けられず、「ばっくれ」てゆくかのようだ。私は考える人なので、何これ、ととどまりながら防戦している。公約として、それでも徴兵みたくやるというのだろうか? なくても困らなくなったものを、ただ天下り役人の就職先でしかなくなったものを、伝統だといいくるめて組織維持しようとしている。アメリカでは、トランプが旧体制を自ら壊そうとしている。日本国家は、やはり、何も自ら変えられず、ずるずるゆくのだろうか? それを「地獄」とも「快楽」とも感じないで、よりアニマル的なスノビズム受容を「普通」=「天」として、自然として。

2025年2月24日月曜日

金魚の餌やり

 


家には、金魚がいる。千葉に引っ越してきてからの二年で、二匹亡くなってしまったので、一番大きかったのが、一匹のこっている。朝の餌やりに水槽に近づくだけで、いやリビングの灯を点けただけで、水面に浮上し、ガラスの側面に顔を近づけて、口をぱくぱくさせてうろうろする。人に餌付けられた池の鯉と同じだ。子どもが中学生の頃からの生きものだから、もう5年以上になるのか。それが金魚にとっては、長生きになるのかどうか、知らない。

妻の生地の熊本旅行のため、一週間くらい家をあけることになった。となると、餌やりができなくなる。子どもの頃の記憶では、そういう場合、近所どうしで頼みあったりしていた記憶があるが、もうそういう付き合いなどあるはずもなく、どうしようかと考えたが、今は自動機械での餌やりができるのだった。その電池式の装置を買ってきて設置して、一月ほど様子をみて、ちゃんと働くのを確認できてから、旅に出たのだった。

 

が帰宅してからも、何かと面倒なので、装置をそのままにしていた。そうしていると、なんだか、金魚が、よそよそしくなるのだった。たまに、水槽にこちらの顔を近づけて覗いてみても、反応が鈍い。手ずから餌をやらないと相手にしてくれないのか、現金だな、とか思いながら、ふとこれは、人の話にもなるのではないか、と思えてきた。

 

ラカンの精神分析哲学にみられる人の精神階層は、人が人から育てられる、ということの不可避性からもたらされる現実性だ、という指摘がある。そこに生じざるをえない、いないいないばー、の赤ちゃんが受苦する反復現象事態、おおくは母が現れたり消えたりすることになるかもしれないが、経験を超えた事態としては「主人」として定義しえるそれが、抑圧と享楽を本源的に規定しているのだ、と。だからこの「主人」とは男性的であり、この原抑圧的な始原が、男女という性差を事後的に派生させることで二極構造として安定化させ、本当の抑圧を見えにくくさせを完成させるのである。

 

主人が餌やりに顔をださなくなると人間的でなくなる、金魚は関心を抱いてくれない、「現金」だな、と私は思った、というこの連想には、さらに歴史的な根拠がある。この人の精神構造は、貨幣を媒介にした資本構造のからくりとも結びつくからである。

 

たとえば、売春の労働条件が改善されても、売春婦への差別(「軽蔑」――中上健次)は残る。なぜ? 根底にある階級闘争、矛盾、敵対が、そこ(改善)にはないからである。これだけ3Kとも呼ばれていた肉体労働で人が足りないのに、そこには労働者とされるものは流れない。差別されているからである。マルクスのいう階級闘争も、それを担うとされるプロレタリアートとは、肉体労働者のことである。労働条件が改善されればもう闘争の必要がなくなる精神・頭脳労働階層とは違う位相の闘争を、肉体労働者、売春婦は強いられるのだ。それは、原抑圧される始原において、排除されてしまう多型倒錯的なと精神分析では解釈される欲動の群れと構造的に重なるのだ。

 

しかしそうした現実は、やはり歴史的な事態ではなかろうか。売春が、貨幣と結びついて歴史的に派生してきたものであるように。だからラカンの言う精神構造も、あくまで、資本下の構造にすぎない。しかし、トランプに平身低頭して迎合するイーロン・マスクの振る舞いをみても、資本は情けない。だからといって、再台頭してきた父権まるだしのそんな男たちに牛耳られていくしかないとするのは、もっとうんざりすることだ。

 

それなら、人が人を育てることをやめて、AI使った哺乳装置などで大人にしてしまえば? そうなると、人が本源的にもっているかもしれない人智を超えた能力が薄れ消えてしまうのではないか、と想像力を発揮した漫画として、竹宮恵子の『テラへ…』などを連想する。

 

熊本から帰って、熊本出身の、高群逸枝を読み始めている。母権性があったなどとは史実に反するの一言で片づけられてしまったように見える彼女の本は、そんな事実指摘をこえて、詩人の洞察力に満ちている。

2025年2月16日日曜日

山田いく子ダンス年譜――補足


 いく子自身が鑑賞し収集したパンフのファイルの中から、本人参加のパンフがみつかってきたので、年譜に追加した。

また、2001年の『小ダンスだより夏』のタイトルが、「太陽が殺した」とわかった。

 

<補足箇所 >

    1981年 9月発表会のパンフ追加。

    1988年 6月の博品館公演での、パンフを追加。

    1989年 9月発表会のパンフ追加。

    2000年 6月発表会のパンフ追加。

    2000年 9月「事件、あるいは出来事」のパンフ追加。

    2001年、「小ダンスだより・夏」のタイトル「太陽が殺した」とそのパンフ追加。

    2002年 12月の、舞踏家協会20周年記念『伝統と創造』の江原組の公演には、いく子も参加しているとわかった。そのパンフも追加。


ダンス&パンセ: 山田いく子ダンス年譜