2025年3月10日月曜日

村田紗耶香『コンビニ人間』と宇佐見りん『くるまの娘』を読む

 


「「ピアノレッスン」のジェーン・カンピオン監督の前作「エンジェル アット マイ テーブル」はいい映画でした。ジャネットフレイム自伝「エンジェル アット マイ テーブル」も好きな本です。女の人が受けとめざるをえない現実、何かをしたいとか突飛したいということじゃなくて、起こってしまうことをかぶってしまわなければならない。抵抗する方法も、また行動するやり方も知らないでいること。身の回りに起きることを、彼女は受けとめていく。

彼女とは逆に私は暴力を持っている。向かいどころのないダンスです。テクニックも未熟で振付も完璧にはほど遠いですが。その無器用さを支えてくれるのは、私の全く勝手な言いたい放題の友達、たぶん彼女たちのために私はパーティを開くのだと思います。」

 

妻から課された宿題を追及していて、ではずっと若い今に近い人たちはどうしているのだろう、と気になった。私とほぼ同じバブル世代の作家である北原みのりの、『佐藤優対談収録完全版 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(講談社文庫)、『毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ』(上野千鶴子・信田さよ子・北原みのり 河出書房新社)にて言及されていた作家の作品、村田紗耶香(1979年生まれ)『コンビニ人間』(文藝春秋)と、宇佐見りん(1999年生まれ)『くるまの娘』(河出書房新社)を読んでみた。

 

前者は、コンビニでバイトする女性の話、後者は、家族から離れて乗用車(くるま)の中で暮らすようになった高3女子の話である。

 

両者ともに、文がうまいので、説得力があり、読ませられる。が、読後三十分もすると、60歳近くになる私の教養のなかに、おさまってきてしまうのだ。書かれてある作品の素材の事態は深刻である。細部にも、考えさせられるものが詰まっている。が、読後の全体事象が、教養自動的にひとつの論理に収斂されてしまう。作品としての、謎がなくなってしまう。

 

    『コンビニ人間』……これは要するに、コジェーブの資本主義認識だよな、となる。作者は、まずロマン派のコードの無垢な主人公を据える。この無垢には、人と違うという自意識が入る。そのロマン派のキャラクターが世の中で軋轢しながら成長していくのがゲーテからの教養小説で、ヘーゲル哲学になり、そこからコジェーブがでて、資本主義下の主体としての人間の行き着く先はアメリカだ、いや日本を知ってからは、日本的なスノビズム(エコノミックアニマル)になる、と説いたわけだ。この資本主義に重なる論理過程に、とうとう女性もからめとられてしまったのか? ――<私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません>―― しかし作者の描写は、たぶん作者の意図をこえて、仕事もせずに恋愛や結婚の話に現を抜かす「普通」の人や、労働現場を「ばっくれ」る若者の方に、その資本論理とは違う何かが孕まれているのではないか、と暗示している。「普通」ってなんだ、という民俗学や人類学の知識は必要になるだろうし、闇バイトやAV女優な仕事などはひと月ぶんの給与など捨てて「ばっくれ」なくてはやめることもできない人手不足な3K現場だ。そこできちんとひと月まえに辞めますなんて正当にももっていくのは、数か月もまえから将棋のように主人を追い込んでいく外交手腕の末、最後に王手とタイミングをよくきって問答を封じて逃げる中・長期的な手腕がなくてはできないことだ。だから私がいた現場では、植木職人の現場でさえも、やめますといってやめていったものは、自分以外いないのである。やめさせてくれない。首になるのなら、ラッキー、助かった、と「普通」の人は思うだろう。

 

    『くるまの娘』……父の権威が崩れたのなら、バトルロワイヤルになるだろう。妻も子どもも言いたい放題言える。まだ作中には父権の残滓があって、誰がこの家族のなかで悪いか、と敢えていうなら、腕力をふるう父だ、となるだろうけれど、この暴力は、喧嘩に慣れてない素人の方が、手加減しらない無謀なことを歯止めなくやってしまうというのに似ている。まだ私自身の家族には、父も母も、つまり私も妻も、歯止めがあって、子どもをなぐるまでにはならなかった。やったとしても一度パチン、であろう。そしてもし、父権や公的がわりの規範、男の基準の示しがなくなったら、母(女)としての突っ込んだお世話がなくなったら、人と人との多様な感覚的な違和だけが、この作品以上に、乱立乱舞いすることになるのだろうか? つまり人が人を養育するという事実的な過程がなくなれば、多型倒錯的なエスの世界に放り出されたような感じになるのだろうか? この作品では、そこを「地獄」と呼んでいる。そう呼べることに、まだ「人間」の残滓が生きていることの証があるのだろうが、作者は暴力を「天」として把握する。――<すべての暴力は人からわきおこるものではなかった。天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれるのだ。>――この「人間」がなくなって、その人と人とのアナーキーな軋轢をも地獄や快楽をこえた「普通」(自然)な事態として受容するしかなくなるのだろうか? それが、男や女、夫や妻、親と子などのヒエラルキーのない、ユートピアな平等社会なのだろうか? だが今、世界では、父権的なマッチョな男たちが規範を再強要しはじめている。歴史的に、民俗的に、なお父権の虚弱なままだった日本は、この世界情勢に、どう対応することができるのだろうか? 何も決められないで、ただアナーキーな成り行きだけがあって、その情勢の空気にひきずられて、またまた、ずるずるべったりで巻き込まれていくのだろうか? ここ千葉市では、来週、市長(県知事)選がある。現市長の公約みたいのをのぞくと、町内会の人員確保、みたいなのが書いてある。PTAにしろ、老人会にしろ、私が巻き起こまれたスポーツ評議会にしろ、高度成長期のノリと利害で作られた組織は老化し空疎である。人との繋がりが、年齢的な老人や地理的な地域でできているのではない、何か他の絆でできはじめている、その実質を問おうとしない。自己責任で生きろと言われたバブル後の若い人が、上からお膳立てされてハイ乗っかって、という発想になじみがあるのか? 意義をもはや感じられないボランタリーな現場に、ほとんどが共働きになりはじめた主婦たちがこれまでどおりやってくると前提できるのか? そんな人たちはいやしない、引っ越してきたばかりで何もしらずに巻き込まれた私のような人以外には。そして3K現場どうよう、そう簡単には抜けられず、「ばっくれ」てゆくかのようだ。私は考える人なので、何これ、ととどまりながら防戦している。公約として、それでも徴兵みたくやるというのだろうか? なくても困らなくなったものを、ただ天下り役人の就職先でしかなくなったものを、伝統だといいくるめて組織維持しようとしている。アメリカでは、トランプが旧体制を自ら壊そうとしている。日本国家は、やはり、何も自ら変えられず、ずるずるゆくのだろうか? それを「地獄」とも「快楽」とも感じないで、よりアニマル的なスノビズム受容を「普通」=「天」として、自然として。

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