2025年3月23日日曜日

中村うさぎ著『私という病』と成田悠輔著『22世紀の資本主義』を読む

 


1958年生まれの作家に、中村うさぎ、という女性がいるのを知る。彼女の『私という病』(新潮文庫)というのを読んでみる。デリヘル体験記だった。その四十歳も半ばを過ぎてからの試みは、「女としての価値の確認欲求に迫られた」からだそうである。「血眼になって男を捜している四十過ぎの女に寄って来るツワモノなんか、この世にはいない。」のだそうである。たしかに、「奇特な方が世の中にはいるのね。」と、よく妻の友人たちから私は言われた。そのうさぎさんと同じ齢の妻は、二十代半ば過ぎだったとおもうが、スナックにひと月勤めた体験があったようだ。店で男から声をかけられたことを確認して、店をやめている。「女としての価値」とは、もちろん、ここでは、男が評価する価値、のことになろう。言い換えればそれは、男がわからない、男の社会がわからない、どうなっているか知りたい、ということだ。そう私は敷衍して考えているので、著作最後に仮託される東電OL事件の被害者の意識も、「自己確認」の範囲で把握することで終わるうさぎさんとは、少し見方が変わる。いくら男との体験を重ねても、男のことはわからない、社会のこともわからない、だからその評価の在りかや発生の謎のこともうかがえない、「自己確認」など未完成・宙づりにされたままになるはずである。なぜなら、その謎、評価の在りかは、すでに小学生も高学年にもなると、できあがってしまっているからだ。ジェンダーの差別構造は、もうその年齢時点でほぼ完成している。だから、大人になって、性転換手術を受けても、セクシュアリティー的には同一性を確保できても、ジェンダー的にはそのままの葛藤、いやもっとねじれたものになるのではないか、というのが私の仮説になる。

東電OL事件とされた被害者は、コピー取りやお茶くみでなく、はじめて出世路線で採用された女性の第一号である、だったから騒がれた。つまりはこの年代の女性が、一般の女性でもエリート大学を普通に狙ってもいいという世の雰囲気に後押しされた第一世代なのだ。妻が通った中高一貫の進学中学も、妻の年に、はじめて男女共学になったのである。そして、荒れた。何人もの女の子が、学校自体をやめていったそうである。妻の妹さんは、「中二病(思春期病)」というが、そうではないと私は思う。それまでのびのびと育っていた女の子たちが(水俣の野生児だった!)、いきなり規律ある勉強生活に放り投げられたのだ。彼女たちは、反抗したという。しかし先生たちもそれへの対応ノウハウをすぐに学んで実行したので、次の年からは問題が抑えられたのだろう。私の中学時代は、校内暴力絶頂期だったが、暴れる三年生はそのままにし、一年生での暴力の芽を、発見するや徹底的に摘んでいく、という方針になった。そしてそこから、いじめ社会へと反転していったのである。1959年生まれの男の子が起こした事件は、金属バット殺人事件だった。男は、男社会とは何か、とは悩めない。すでにそこに自明的にあるので、それをそのままぶち壊す衝動に突き当たる。その外へ向けての暴力が抑えつけられれば、内側へ向けて引きこもる。男は、世間からおりることができる。が女性は、入っていないのだから、おりることはできないので、なんで、という衝迫、謎にとりつかれる。あるいはそこでの暴力性は、世界や社会そのもの手前で、男(ジェンダー的問題)に対してのものとなる(庄野頼子)。とりあえず社会参加が自明要請となっている今は、女の子でも引きこもりが多くなっているのでは、と思う。(前回ブログの村田紗耶香や宇佐見りんなどはこの系譜にみえる。)

 

で、暴力が駄目なら、理屈で社会を変えよう、という試みになる。

 

成田悠輔著『22世紀の資本主義』(文春新書)もそういう試みの一つだ。――<やりとりはただの一方的な贈与を超えた双方向の行為である。それを可能にする仕掛けとして、招き猫アルゴリズムが食べて作るデータから唯一無二の証が発行される。やりとりを証明するこのかけらを「アートークン」と呼ぼう。アートのようにそれっきり一つのもので、取り替えがきかず、複製できず、反復できない一回性と単独性を身に纏う。>

 

ここでは、ささいな振る舞いまでの莫大なビッグデータが前提とされる。だけど、どこからの? 何歳からのデータ? まだ小学生の高学年にも達していない、欲望の体系を身に着けてもいない子どもたちのふるまい、暴力やエロスも価値基準なく欲求的に発揮されている子どもたちの振る舞いも、データ化されるの? 逆にいえば、すでにできている大人たちの欲望・ふるまいを前提にしたデータの蓄積は、いくら増えても、トートロジーになるのではないの? そこには、すでにジェンダー的に差別化されているデータの蓄積しかなくて、AIでその価値基準を無化しても、その編集基礎となるデータ自体が既存の価値基準から振舞われた仕草なのでは? いやAI招き猫が何匹もいてお互いに情報を交換して人間基準でないより高次元の普遍規範が生成され、それで子どもたちもが調教されるとしよう。子どもなんて近代において発見されたのに過ぎないのだから、生まれた時から大人と同じアルゴリズムで育成されれば、普遍的な単独者になっていくはずだ。もはやお父さんやお母さんなどといった大人たちに育てられるのではなく、そのふれあいの加減もデータ規範化されて、招き猫アルゴリズムという、親というか、ささいな行為も見通している神のような遍く存在に習うようになるのだ、と。

 

私はそこで、コロナ下、ステイホームの実施最中で提起された、國分功一朗大澤真幸議論を想起する(『コロナ時代の哲学』左右社)。その中の、チンパンジーの実験報告、身体での接触体験がないと認知能力やコミュニケーション能力が発達せず、いわば外に無関心・無反応的になりやすい、という話だ。そこから、幼少期におけるAIの介入は、まず大人の反応を変化させる。私は幼稚園児、先生の後ろからスライディングし、その股下に入り、ぱっと上をみて、パンツ白! とか言ったときの先生の表情を今でも覚えている。その驚きの価値判断がどんなものなのかは今でもわからないとはいえ、その微妙さが、以後の私のふるまいにも影響を与えているだろう。その先生の反応に、媒介が入る、というところに、身体的な接触とは違う機械的な齟齬、どこかリモートワーク的な作用が働くのではないか、と予想するのだ。そこから発展して、やはり、竹宮恵子の『地球へ…』の結末が想起される。要は、実はコンピューターで制御育成された子どもたちより、母子関係だったか、人との接触の記憶があった育ちの子の方が超能力が高かった、という。ここでいうテレパシー的な能力とは、人間的には共感、物理現象的には、同期、ということになるかと思う。

この能力が希薄になった振る舞いのデータ蓄積とは、私の仮説上では、おぞましくなりそうだ。

 

しかしこの著作の予想仮説は、今からのものだろう、「稼ぐより踊れ」「競うより舞え」と。失われた三十年代と言われたが、それは大卒出が大卒らしい就職口を持てなかったという話にすぎないだろう。やりたいことがあれば、やればいいだけの話だし、そういう子たちは、いつでもいる。

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