2008年5月10日土曜日
韓日間とフリーターのニヒリズム
「韓日間の問題を解決する方式に疑問を感じはじめたのは、ニ○○一年の教科書問題のときからだった。日本の右翼的思考に反対する「良心的」知識人と市民の存在は、わたしにとって日本を信頼しうる根拠ともなってきた。「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書の採択率を最小限度にとどめることで、韓国のナショナリズムを慎めた人々もまた、彼らであったことは忘れられてはならない。しかし、彼らが韓国の市民団体と連帯するなかで、韓国のナショナリズムには目を塞いでいる構造に、わたしは疑問を抱きはじめていた。さらにその連帯の「運動」、すなわち日本の徹底した「謝罪」をうながす行動は、韓国のナショナリズムを拡大するばかりで、問題の解決へと向かうのではなく、いっそうの対立を招いているようにみえた。そうだとしたら、その問題の意味とはなんなのか?」(『和解のために』朴裕河著・佐藤久訳 平凡社)
私の身の回りで、在日朝鮮・韓国の人たちへ抱く日本人のイメージとは、声がでかい、喧嘩腰で話してくる、といった強そうな民族像である。が実際ソウルの街を歩いていると、出会う人々は優しそうというか、むしろ弱々しそうにみえる。「なんでこれで、日本のサッカーは韓国に勝てず、野球もおいあげられているのかな?」、職人のうちでも話題になった。私より年上の職人さんたちは、子供時代や青年時、すぐ近所にまだ朝鮮人の集落があったようだから、日常的に彼らと触れてきたことがあったようだ。確かにスポーツの世界でみられるような、屈強な精神の集団、といった感じはしない。むしろ、韓流の柔らかさわやかな俳優のイメージである。二十年近くまえに私がいったときも、そんな感想だった。が、釜山はちがった。同じ幼稚園に通った子供を通して知り合った麻浦区の焼き肉屋の若旦那とも、そういう違いの話もしたのだった。「釜山のサラリーマンは、日本でいう、なんかヤクザみたいでしたよ。」というと、げらげら笑いながら、私の言葉を韓国語に訳して母親に伝え、奥さんも「漁民だからかもね」と答えたのだった。「スポーツやる人は、南のほうの人なんじゃないですかね? 日本でも、野球が強いのは、関西以南ですよ。」私が風を切って歩くような二十年前の釜山の背広姿の男たちのことを思い出してそういうと、「かもな」と博徒系の職人さんは言う。私は韓国内にいまだ残っているだろう差別構造のことはまったく知らないが、両班とそうでない者、そして昔の高句麗・新羅・百済といった三国構造の名残なのか、いまでも大まかにその三つの地域にわけられるそこに、なお無意識構造的な原動力があるのではないだろうか、とおもう。北から降りてきた支配民族と、南に追いやられ押し込められてきた原住民的な人たちとの対立もあったときく。そしていまでも、南の人は嘘をついて裏切る、とかのイメージで、就職や結婚差別がある、といわれているようだけど。そしてスポーツ・芸能といえば、差別を受ける側でも実力で参入できる世界だろう。
私が、今はそんなものはない、とされているような旧習的な差別・階級的視点にこだわってしまうのは、やはり植木職人という、遅れているというのか、忘れられている、というか、はじめから覚えられていない、というか、そういう職業世界にいるからだろう。たとえ差別というものがなくなった、とされても、そこで生きられる行動様式は、そうはなくならないのではないかと思う、と同時に、そこにある時差(遅れ)は、むしろ世の中を変えていくエネルギーの溜め池のようなものなのではないかと思えるからだ。こんな感想は、むしろ東京というグローバル都市でこそ見える、あるいは残っているという特権からくるのかもしれない。地方の方がむしろ、慣例的な仕事もなくなり、より共同体的な基盤が過激に壊されてきているかもしれないからである。
今月から、雇用保険なるものに入るようになった。税務署から、会社に圧力がかかったのだろう。公共工事に参入するため株式会社の形式にしたのはもう何年も前になるが、いわば従業員(職人)は実質労働的には社員だが、法的実質としては、日雇い形式、しかし自分で青色申告にでもすれば一人親方(自営業)的、にもなりうるような曖昧な存在だった(源泉徴収もされてないということ)。しかし「曖昧」とは、外側にそんな法的整備がなされてきたためにそう「なった」ということで、内側の論理=現実からは、明確な在り方=立場だったのだろうと思う。その名残が、その保険料を全額会社で負担する、という会社(親方)の行動様態に現れている。法的には、何割かは個人負担で給料から天引きされることになる。奥さんは、「経営がやばくなったら負担してもらうかもしれないけどね。」という。厚生年金も、職人側から申し込めばその手続きをとってやるといわれたが、手取りが減るので誰も申し込んでいない。とにかくも、法など無視している。がそれは、派遣会社の経営陣がとるような資本主義行動なのではなく、労働者との人格的関係からくる。その関係を阻害してくるような外的な規制がわずらわしいのだ。だから、人格(関係)を引き裂く(区別する)ような手続き(手間)を、ばっとさばく(はぶく)という身体的な合理性のほうを選択するのである。それが、区別なく全部払ってやる、という内側には一体感的な、外側には喧嘩腰ともいえる対応になるのだ。これは人を雇い入れるときのことでも覗える。もちろん、広告をだしたりといったことはせず、知り合い、地域づて、あるいは私のような飛び込みで人が時折くるのだが、入るときの条件などないのではなかろうか? 私などからすれば、この人じゃ無理だろう、というような人までが仕事をしにやってくる。が、仕事に入るのはいいが、その労働(当初はさばいた枝の束の運びになるわけだが―)がきつい、とかいうよりも、その人間関係に入るのが難しい、のではないかとおもう。バイト派遣ではいる現場仕事なら孤立していても時間はすぎるが、人格関係のあるところでは、それはきつくなるだろう。たとえば私は、一日に百回くらい「おまえはバカだ」と言われていたのではないかとおもう。ならいったいなんで人を雇ったんだ、という思いが強くなる。しかしそこに法的形式ではなく、人格関係が前提されている、ということは、なにかあるたびごとに、その人間関係が更新されていく、ということなのである。要は、自分が悪いとわかると、反省的な関係が再構築されようとするのである。それは時間のかかること、やめないで持続していくことだけで在りうるような関係である。
しかし私がこんなことを思うのは、私がよそ者としてそこに入り、長らく居続けているという特殊性からくる個人的見解なのかもしれない。私の我慢強さ――それは野球部という軍人的体系を体験してきたこと――や、優しさとみえてくるかもしれない、微動だにしないニヒリズムは、情動の激しい人たちを慎める試金石というか、心のバランスをとる羅針盤のような役割を果たしてきたようにもみえるからである。要は、やりすぎてしまった、とおもわせる……。しかしそのニヒリズムは、たとえば大学を卒業しても就職せず週に3日ほどのアルイバイトで凌ぐことで歳を過ごしていた行動様式は、まずは運動部=軍人社会(中学時代からの野球部の……)から戦後の民主主義社会(旧制中学系の進学高校にみられる左翼的な……)への、「一身にして二世を経る」ような自己挫折を通した内省からきているのだ。よって大学を出ても会社に入らないとのフリーター的選択は、バブル期にいわれた企業戦士にならないこと、つまりは明確な徴兵拒否だったのである。ならばこのニヒリズムは、韓日間にみられる情動的な関係(職人の間にぽかんと置かれたノンポリインテリな……)においても、羅針盤として機能する動かぬ試金石にもなりうるのではかろうか? トラウマを癒すのではなく、その方法的自覚とは、平和主義的な思想にもなりうるのではなかろうか?
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