2011年4月6日水曜日

一体のなかの分断、分断のなかの一体


「明らかにフィリピン南部のミンダナオ諸島の神話の巨人と、黒潮の北限にあたる鹿島大伸とが、鯰・竜蛇という同工異曲のモチーフを伴っていることに気づかされる。これはまた伊勢神宮の心の御柱の地底に竜神が祀られているという伝説との共通性も示唆している。鹿島大伸が用いる要石は、大きな柱の先端部であり、その柱は、地底奥深く突きささっている故に大地は安定している。時折それが大鯰によって揺るがされるという太平洋沿岸部の伝承に対し、黒潮が対馬海流となっている五島列島、対馬海峡そして北九州の日本海に面した地帯では、先述した福岡・佐賀の淀姫神社の伝説があって、そのモチーフは熊本や香川の方にも及んでいる。大魚による天下異変の予兆がうたわれており、これは海の彼方からの特別なシグナルをよみとろうとした想像力として共通しているといえるだろう。」(宮田登著『歴史と民俗のあいだ 海と都市の視点から』 吉川弘文館)


おくればせながら、いわゆる「最悪の事態(シナリオ)」なる討論をネット上のvideonewsマル激トーク・オン・ディマンドで聞き終えたのが昨夜。自分がほぼ大本営発表から認識したようなことが、しっかりしたインテリの口からきかされてみると、絶望的な気持ちになってきた。そして今朝、おそらくNHKではじめて「最悪のシナリオ」として、もう一度水素爆発が起きる可能性があること、長期的に放射能漏れと拡散がつづくこと、という2点が提示された。汚染された水を海に突然流したのが一昨日。そこから勘ぐれるのは、現場で何か緊急の事態が現実的に予想されてきたということ、ということはつまり、大本営が発表した「最悪のシナリオ」のうち、長期的(だらだらやる)というものはすでに現状路線だったわけだから、もうひとつの「水素爆発」という事態がより高い可能性としてみえてきた、ということを意味するのではないかと私は考える。ゆえに、まえもって発表しておくという段取りをつけて口実をつくったのだろう。


今日私が書いてみようと思ったのは、しかしそういうことではない。上のネット・トーク放送で、社会学者の宮台真司氏が、東京も放射能のホットスポットに当ってしまうことも想定されるのだから、政治機能を関西にうつすということも現政権で考えているのか、と発言したような、世俗レベルでの成り行きについて、である。私の言い方で言い直すならば、文学的な想像力の発揮である。私はこの大災害をめぐる当初のブログでも、日本が冷戦時代のドイツや朝鮮事情のように、国家が東西に分断される事態(文脈)もでてくるのでないか、と指摘(想像)した。これは、現実離れした空想だろうか?


<水俣病の原因企業チッソ(本社・東京)は31日、子会社JNCに液晶生産などすべての営利事業を譲渡する。分社化で4月1日から水俣病被害者への補償や公的債務返済の義務に特化した会社として存続する。…(略)…国策を担った企業による大きな環境汚染。チッソ分社化に詳しい除本理史・東京経済大教授は、東日本大震災による原発事故の補償が水俣病と似た道をたどることを懸念する。>(毎日新聞・3月末頃、朝刊か夕刊か忘却)


長期的な放射能汚染が現実化したこんどの災害では、被害者は東日本全域におよぶ。チェルノブイリ事故対処では、30人の特殊部隊隊員が死に、投企された80万とされる労働者のうち何人が被爆で致命的な傷を負ったのかはしらないが、そうした決断を回避した日本政府は、死ぬことを職業とした人たちにではなく、あるいはその人たちへのやさしさからなのか、広範の一般の人々をも被害者として巻き込む道を選択したのである。つまり、一会社(地域)ですまされるような狭い事態にではなく、国家的な規模にまで事態を拡大する道を選んだのだ。上の記事は、こう言いかえられる文脈をもってくる。――<日本国家は、関西地方にすべての営利事業を譲渡する。分断化で、東日本被害者への補償や公的債務返済の義務に特化した東日本国家として存続する。>


現在TVコマーシャルで、日本(人)が一体であり、そうなるべきだとの宣伝が繰り返されている。W杯で活躍したサッカー選手をも起用しながら。しかし、今回の事態で政治中枢がみせた有様は、日本の政治家や一般庶民が、アフリカW杯でみせた日本代表のプロ選手やチームワークとは、なお程遠い差がある、ということである。岡田監督がみせたような、身を翻すような決断を菅総理はみせることはしないし、何度失敗しても個人で突き進むことを貫いた本田選手と彼を信頼して連携した他選手とのチームプレーもみられない。単純に、日本がワールドカップでベスト16に進めたのは、その一体的なチームワークのためではない、そう最終的に落ち着かせた個人間の切磋琢磨と、それでも自分たちは弱いのだ、世界では勝てない、このままでは負けるのだ、という切羽詰った場所、土壇場での冷静な判断力にあったのである。そうした認識を提示し、きっかけを作ったのは、日系ブラジル人のトゥーリオだといわれている。つまりその一体のなかには、外国人が、われわれとは違った思考を肉体化した人間の存在もが内包されていたのである。現在、世の風潮にのって、日本はひとつだ、と謳歌している人たちは、そんなすでにマスコミで取り上げられていたことさえ忘れてしまっているのだろう。そんな彼らが、あるいはわれわれ一般大衆の意識レベルが、この大災害において、日本(人)が一体になる、というその負担を引き受けられるのか、私には疑問である。日本(人)が一体であり、国家がひとつであるという道を選ぶのなら、小銭の募金程度ではすまなくなるのかもしれないのである。大げさな、単純な例でいうならば、北朝鮮と韓国を足して、ふたつに割る、その生活レベルを容認できるか、現給料や年収の1/3の経済力で生きることを許容できるか、という話しになってくるかもしれないそのとき、「一体」と声だかに叫んだその振舞いをも忘れて、痛みわけを拒否し、身の保身に翻るのではないか、と私は危惧するのだ。ならば、チッソ分社化にみらるように、被害が軽度だったものが現生活を生き延びさせるために、西日本を分断化し、東日本政府にその損害を負わせる、という現実路線がいいのだろうか? 現状では、そんなのもいやだ、と大衆はわがままをみせるだろうが。そしてその感覚は正しい。ベルリンの壁崩壊いこう、そして現北朝鮮と韓国の状況を鑑みても、50年たてば別民族(民俗)になってしまう、ということである。負債の支払いがおわったあとでの統一は、深い溝や取り返しのつかないような傷を負債者に負わせることになるのである。そのことは、分断統治が、人間にとって、歴史に生きる民族(民俗)として、いいことではない、不自然であることを意味しているだろう。ならばわれわれはやはり、分断統治という目先の経済的な現実路線とやらではなく、一体を貫く、という精神的な自然路線をとるべきだ、と私は考える。そしてその実現のためには、いまのような「一体」を叫ぶのではなく、むしろ「分断」を思考に据えなくてはならない。それは現実の深刻さを肝に命じるためもあるが、「分断」という中身がちがっている。ここでいう分断とは、W杯で日本代表がみせた、「個人」を前提にする、ということ、そのエゴを内包させていく、ということである。単純にいえば、この季節に、サクラの花見もできないような精神力に、今後の長期的な忍耐力など期待できないだろう、ということだ。現今の自粛現象は、いわば自然に反しており、人為的な対応としても間違っているだろう、ということだ。われわれ個人がまず、あのときの日本代表選手のようにならなければならない。(が、現プロ選手とサッカー協会が後退をはじめたようなので、サッカーでいえば、レベルの後退が懸念されるが……)


以上の意見は、妄想なのだろうか? しかしこれは、福島原発事故ひとつですんだ場合のことであり、地震活動期に入ったことが確認された今後、まだ原発事故が発生する、ということも現実的なのである。そのときは、以上の想像内容は破綻する。またそうにはならなくても、これは国内政治的にみた場合である。ロシアや中国の戦闘機が、この災害時に領空侵犯していることは報じられている。それは、単に放射能調査のためだけではないかもしれない。東電(日本政府)は、汚染水を海に垂れ流し、隣国からの抗議を受けているが、もし、日本国家がこの事態に対処不能となれば、諸外国が事態にあたるだろう、となれば、統治能力なしとして、ほんとうに国家機能にも諸外国が介入し、東西の分断国家が、東はロシア、西は中国、沖縄はアメリカ、とか植民地的な分割統治になる、ということだって想像してもいいのかもしれないのである。


そうならないことを祈りつつ。

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