2011年4月25日月曜日

政治危機と日常



「とはいえ、歴史における「公」は、決してすべてが事実として「幻想」であり、「欺瞞」であるとはいえない。たとえそれが支配者の狡知――「イデオロギー操作」――によって、自らをしばる軛になったとしても、支配者をして否応なしに「公」の形をとらざるをえなくさせた力は、やはり、社会の深部、人民生活そのものの中に生き、そこからわきでてきた力といわなくてはならない。そしてそれは、原始・太古の人民の本源的な「自由」に深い根をもっている、と私は考える。それだけではない。同じ「公」でも、「公界」が決して「公権力」にならなかったことを考えてみなくてはならない。さきに「無縁」「公界」「楽」が、この「自由」の、人民による自覚的・意識的表現といったのは、その意味からで、そこには、天皇の影もないのである。」(網野善彦著 『〔増補〕無縁・公界・楽』 平凡社)


環境エネルギー政策研究所の飯田氏は、原発というエネルギー政策をやめられないのは、経済的・技術的な理由によるのではなく、結局は政治的な次元によるのだと発言している(4/18、ISEPでの第一回目Ust-channel)。それは大企業から官僚、政治家をまきこんだ利権構造体制による、ということのようだが、そういう範疇にとどまるだけのものではないのかもしれない。これまで長らく脱原発運動を展開してきた学者の間では、積み重ねた論理的反駁がなぜか最後にブラックボックスに行き着き逆転し、結局は議論過程とは関係なく原発容認の結論がだされてくることに不思議さを覚え、おそらく、日本を核武装させたい政治勢力があるのではないか、と推論せざるをえない、という意見もあるようだ。実際、原発導入のシナリオには、読売体制を作った元内務省の正力氏の日本国民誘導の思惑があったというNHKの特集番組にもあるし(pacecontinua参照)、副島隆彦氏は、それをアメリカへの属国論的現実として、一貫して主張している。また、4/16日づけの田中宇氏の国際ニュース分析にも、3/11後の福島原発事故をめぐるアメリカの原子力規制委員会の動きが、9.11以後にアメリカ政府がとった世論誘導の政策と類似している、という指摘がある。私も、ふとこの恐怖をあおられている感じは、とその反復類似性を先のブログで言ったわけだ。


佐藤優氏は、自分は菅氏にずっと批判的であったけれど、ここで総理交代とかの政治的空白をつくると、チェルノブイリ事故にもちこたえられず崩壊した旧ソ連のようになってしまうから、いまの体制を支持する、と意見をのべている(『Sapio』)。私としては、本当に菅総理の現状指揮で、原発事故を収束出来るのかが疑問におもえてきているので、佐藤氏の立つ前提がいいのかどうかわからない。ISEPの飯田氏が、国際的な支援体制のもとで、創造的な事故処理方法を模索していかないと乗り越えていかれないのではないか、と危機感を表明しているが、私にもそうみえる。菅総理はほぼ処置法の実践決断を、なお東電に任せているようにおもえるが、その東電がやろうとしているのは、いわば復旧作業である。1号機は、アメリカが意見していた水棺に事実上なってきているので、そうする、ということらしいが、それでもその水を循環させ、冷却するにはどうしたらいいか、とのアイデアは、朝日新聞で泡のように出てきては消えていくその様をみていると、世論向けのパフォーマンスで情報を垂れ流してみせているだけであって、なお真剣に考えられているようにはみえない。つまり、もっと近接したところでどうするか、考えているようにはみえない。そもそも、修理などできないかもしれない、などとは素人(総理大臣)でも思われてくるのだから、そのときはどうするのか、と二刀流でやっていくのが当たり前の考えなのではないか、と思うのだが。そもそも、労働力がたりない。私はもう一度、自衛隊や消防の支援を考慮にした、復旧処理ゆきづまりの場合に備えた、国際的な支援体制を、東電任せとは別に官邸が作っていかなくてはいけないのではないか、と思ってしまうのだが。そういう素振りもみせない菅総理の呑気さで、本当にこの危機を乗り越えられるのか、と私は疑ってしまうのである。


要するに今の体制とは、名もなき社会の底辺層の労働者に、いやなことをすべて押し付けて、そのことを国民も知らず、あるいは知っていても知らぬふりをしていく差別体制ということである。国家を守るために、これから発病して死んでゆくのは、特殊部隊員や自衛隊員や消防隊員ではなく、路上で寝ているような日雇い労務者なのである。しかもなんと、彼らはいま、ニュースで報道されているような免震塔やJヴィレッジで休んでいるのではなく、現場から1.6kmぐらいはなれただけの、詰め所で待機しているのだという( 〔翻訳〕現場作業員はどんなひとたちか? )。あの旧ソ連でさえ、いちおうは、導入した労働者を集団で団地に住まわせ、健康状況を見ようとしたわけだろう。すぐに国家が崩壊し支援体制がなくなってしまったとはいえ。あるいは、囚人とかを使っていた、という闇の部分があるとしても。しかしこの日本体制はなんなのか? まるきり、平常体制ではないか? 多くのわれわれが彼らを無視しながら歩道を通り過ぎてゆく、その日常さながらではないか? この危機(チャンス)にあって、総理大臣いか、何も変えようとしないのか? この、日常を?


昨日、かつての運動仲間に誘われて、反原発のデモ行進に参加してきた。長池評議会の旗のもとに、とかいわれていたのだが、松葉杖の私はでおくれて、ふと気付くと、おそらく「のじれん」の旗の下で行進をしていた。「われわれの仲間を殺すな!」「われわれは英雄ではないぞ!」……もっともな叫び声だ。この臭いものには蓋をする、サイテーな日常生活こそを、われわれは変えていく必要があるのだ。

0 件のコメント: