2011年7月18日月曜日

二つの時間と、ヒューマンスケール

「最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の三月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」という言う人たちがいる。こういう考え方の前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に忘却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。」(柄谷行人著「週刊読書人」 2011.6/17)


木をみておもうことがある。それは、おおよそ、100年を超える樹木となると、どこかヒューマンスケールを超えて存在しはじめる、ということだ。個人主義的に、単にのぼって、切る、というような私がやっているような作業は、それを超えると、できなくなる、あるいは、そのスケールの違う超越的な存在をまえに、畏怖の感じに捉えられ、気を緩めると、振り落とされてしまうような緊張感を覚えるのである。「まだ100年はたってませんね。80年すぎくらいかな。」先週も、新宿の民家にあった欅の木の剪定で、住んでいるおばあさんとそんな話しをした。「ええ。おじいさんが、子供のころ植えたそうですから。」……しかし、私がその欅をみあげながら、骨折した腫れの残る足をさすりながら考えたのは、人の営みはゆえに、100年を超えられない、のではないか、ということである。しかしここでいう人とは、いまの技術体系を支えているような、個人主義的なもの、となるだろう。大昔ならば、樹齢何百年という樹木を相手にできていたはずだ。それは、そのような支援(世代)体制で事にあたるのが前提になっていたからだろう。大正時代くらいまでも、山から庭へ木を移植するのに、何千人という人夫が動員されている。いまは、はした金を設けるために、おまえやっとけ、というような体制である。しかし、戦後植えた小学校の木なども、そろそろ100年を超え始める。しかも、庭木として手入れしているので、傷みもひどい。よく庭の主人が亡くなると、その植木も枯れてなくなるのだとかいわれるが、それはなにも神秘的な話しなどではなく、狭い庭におさまるよう無理な手入れを続けてきたのが原因だろう。庭木もまた、その時代の人の寿命を後追いしだすのである。暑い日差しのなかで、ふた周りも縮小された屋根を覆う欅をながめながら、もう終るのだな、と私は考えていたのである。


避難所のひとつの体育館の床に寝転びながら、周囲に漂う秩序ある静けさを、私は異様なものとして感じたのだった。「災害ユートピア」というよりも、それは想像を超えた事態に直面した人々の諦念ではないか、と。個人的な誤解なのかもしれない。新聞でのある著名人の感想によると、災害後3ヶ月くらいまでは、生き延びたこと、そのことに対応していくことで一生懸命な感じがあるが、4ヶ月めになると、あきらめやら疲労やらで、元気がなくなってくるのだという。単にそういうことなのかもしれない。が私がおもったことは、もっと長い時間でのこと、それと、この短い時間の関係のことである。日本の文化の基底的態度に、あきらめた情感があるのは、こうした大きな自然災害を繰り返し体験したからかもしれない、が、その長期的な習性が、この間近な直後の時間とどうつながっていくのか、というか逆に、この間近な時間が、どのように長期的な時間を作っていくのか、が腑に落ちなくなってきたのである。あの避難所の雰囲気にふれて。ポルトガルの歴史で、ヴェスビオス火山が噴火し、その災害後、大航海にも繰り出していたポルトガル人の気質が、冒険精神から諦め的な淡白さに変質したとかいわれる。外からみれば、そうなのかもしれない。が、中からみれば、その論理は短絡すぎて、なにか欠落があるように感じられてくるのである。いや外国人からみるならば、普通でさえ大人しい日本人の態度は「異様なもの」としてうつっていることでもあるのだから、それは近すぎる見方で、取るに足りない取り越し苦労な思いなのかもしれない。しかし当事者だったら、この諦念を乗り越えていかなくては、トラウマ的傷を乗り越えていかなくては、前にすすめないではないか? そうやって、当事者がこの間近な短い時間を克服してきたとするなら、その超克の時間と、長い文化的な時間、しかもそこで反復習性されてしまう諦念の構造とは、どのような折り合いのもとで構成されているのだろうか? 公的行政単位での話し合いで、被災した県市町村のトップ会談だけでは、当事者として思考力も気力も回復されていないので、被害にあわなかった行政区の人たちの助言と後押しが必要なのだ、と話す被災地の長がいた。こうした、他者的な団体との網目が、持ちつ持たれつの構造を作っていくということだろうか?


先週の毎日新聞で、「ATM窃盗事件25件 原発事故後、半径25キロ圏」と記事がでている。火事場泥棒の被害総額は約4億2千万円だそうだ。副島隆彦氏の、現地入り報告直後の掲示板からの現地レポートを勘案して推論すれば、これは単独の犯罪ではなく、組織犯罪なのだろう。副島氏によれば、事故後、重機をのせた関西ナンバーのトラックが現地へむけて走ってゆくのが目撃されていたという。それは、山口組が阪神大震災の教訓としてマニュアル化していた、災害後対策によるのだという。こうした現象が、「災害ユートピア」的な人の真実を、裏切っているというわけではないだろう。どちらも、真実なのだろう。この位相の違いが現実的に絡み合う時、その時が社会的な項目を形づくりはじめ、次なる時間へと繋いでいく。一つの時間の終りから始められたものが、もう一つの時間の終りに挿入されることで、その終りの内側に始まりが胎動する。しかしそれは、この私には関係していることなのだろうか? ヒューマンスケールを超えていることなのだろうか? しかしそれも、この私とが、あくまで近代的な個人という枠組みから抜け出ようとしなければ、という話しなのだろうか? ならば、私自身は、誰に繋がってゆくだろう?


最近読んだものに、沖縄のユタの話しをきいて腰痛がなおった、という話しがあった。ならば、私は恐山のイタコの話しをきけば、腰痛がなおるかな、と考えたりしている。同時に、そんな考えを抱いてしまう私自身が気力をなくしているからなのか、とも内省する。私はただ、終りがやってくるのを、黙って見ている事しかできないのだろうか、それとも、この終りに、次なる始まりが胎動しはじめているのだろうか?

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