2020年7月6日月曜日

都知事選を受けて


寄らば大樹の陰、という言葉がまず思い浮かぶ。といっても、この大樹は、まだそう想像=期待されているだけで、しかも、それ自身がなお隠れていないといけないという条件下にある。松のような、荒れ地でのパイオニア的な陽樹ではなく、日陰でも成長していくことのできる陰樹で、樹高ある周りの成長がとまって衰弱してくるのを辛抱強くまって、いつ自分の頭をその樹冠からだし、君臨するかの気配をうかがっている。しかしこの樹木はおそらく、日本の生態系に天然林的な、シイやカシの類いではない。だから、安定的な陰樹林からなる原生林としての極相にはたっしないだろう。どこか孤立した、一匹狼的になりやすく、木にたとえるなら、陽樹ではあるが日陰から高木成長し、沢の近くでひとつ育って屹立している、カツラ、という感じだろうか。街路樹にも使用されるが、夏の暑さや乾燥に弱い。だから、時期をあやまって日の当たる頂上に頭をだすと、たたかれる。

小池氏はもちろん、「排除します」発言で苦い目にあっているのだから、用心するだろう。だから都知事選歴代2位の300万超えの得票という現象は、あくまで心情的な支持、隠然としたままの支持なのだ。もし小池氏が、衰弱しはじめているとはいえ陽樹樹冠帯を形成している自民党にかえったり、その支持を明白に受け入れたりしたならば、その支持の大半が反転する。自身を支えくれはじめていた養分は、どこかに流出してしまうのだ。しかしこの不安定なバランスのなかで立っている樹木に、下草をふくめた森林全体が依拠しなくてはならない生態系の危機があるということなのだ。それはなおあくまで、危機感という信号、森林内部での植物どうしのなんらかの化学物質的交換、隠然とした心情的なものである。

私は今回、たくさんの人が立候補するなかで、ホリエモン新党として出たということになるのか、立花孝志氏にいれようかと考えた。体感として、下積み労働者の泥臭さを感じて、共鳴するところを感じたからだ。しかしそれだけでなく、資本主義機能が不全になっていくなかで、延命に賢明な既得権益は国家主義的な管理をつよめている。この目前将来の生きづらさをおもえば、すでに負け組、ずっこけ資本主義派のホリエモン・グループに頑張ってもらうほうが、よほど風とおしがよくなるだろう、と、あくまで思考実践にしかならないとしても、それを行ってみようと思ったのである。友人から、それはやめてくれ、と選挙に行くこと自体がおっくうで寝ていたら、そんなメールがはいったので、棄権でいいかとおもったが、女房から買い物をたのまれたので、そのついでに投票所にゆき、鉛筆もって少し悩んだが、そのまま白紙でだしたのだった。が、ホリエモン・グループ、たった四万票あまり、との結果をみると、やはり負け組に出しておけばよかったか、とおもえてくる。これは、イロニーということではない。ファシストから拳銃をつけられ、踏み絵のような選択をせまられたら、現にある何かを選ばねばならない。似たようなケースは、深刻度はちがえど、人生で何度もあっただろう。思想的・信条的な選択肢など、とくに仕事上ではないだろう。今回の選挙は、なおぜんぜん深刻ではないとはいえ、現実的な思考訓練をしていたほうがいい、だから、いくだけはいったのだ。

ホリエモンのような、他人にあまり関心のないおちゃらけた不良たちが、ファシストになることはないだろう。堅実な安全パイだと、私はふんだ。よくはしらないが、あとはみな、全体主義的な管理傾向として、グラデーションの違いにおもえた。私には、山本氏の目の表情の動きが、信用できない。これも、労働をしてきたものの体感だ。

しかし、今回の選挙結果で、私がいい結果、兆候の潜在的道筋なんではないか、とおもえたのは、投票率がさがった、ということである。前回よりも、5%近くさがっている。数十万ぶんか。予想では、投票率はあがって、小池氏が独走するとしても、他がいろいろ揚げ足をとって健闘、ぐらいにはいくか、とおもっていた。が、棄権した人が多くなった、ということは、小池氏を支持していく隠然とした心情の中にも、だいぶためらい、躊躇があって、ほんとうは思案中ということなんではないか、ということだ。

さて、ネット上で、新しいメディアで、新しい知的大衆を動かしているかにみえるホリエモン・グループは、どう現実政治に参入していける道筋、文脈をつくっていくだろうか? 少なくとも数十万、多いものは300万人をこえるユー・チューブ視聴者数を獲得してきた番組があるのに、都選で立候補三人の票を合計しても、5万票くらい。地方のほうが人気がでるともおもえない。日本維新の会推薦の小野氏も一緒にやっていたといえるが、彼までいれると、翼賛会のグラデーション、濃艶の一環ということになるだろう。たしかにそのうち、小池氏に投票した人たちが政党を超えて合流しているように、一本の想像(期待)上にすぎない樹木を支持していくことになる、という傾向は強まるだろう。が、うまくいくことはない。なぜなら、日本という生態系自体が、世界の気候変動への対応の動きから取り残されていくから、結果、果実をともなわないからだ。捕鯨問題で国際社会からの離脱の方策が、今後の日本の世界史上での選択のひな型的前例になっていくだろうと私は思ったことがあったが、オリンピックが、誰の目にも見えやすい、日本の孤立の現前化の歴史となるだろう。だから、なお、みせかけ成果が作りやすい、内ゲバ的な争いが激しくなって、国内管理が厳しくなるだろう。

そういう時のためにも、やはり、ひとつの思考訓練として、ホリエモンたちずっこけ資本主義者の戦略を、参考として私は注視したい、ということなのだ。

私の政治的態度は、大文字の政治ではなく、あくまでミクロな、日常的な現場が、大文字の政治に通じていこうとする、というフーコー経由のポストモダニズムのものだ。だから、末端の政治と、大文字の政治は、単線的には関係がない。関係が見えてくることもあるだろう。そのときは、大文字の政治に参加できる、という現実的契機をもつだろう。しかし、現場の政治性がなくなる、ということは原理的にありえない。そこが、むしろ政治の本来性、本場であるからだ。代表制は、そのシステム自体が、ミクロとマクロ、現場と政治を複雑化、不透明化、断絶化、幻想化していく。だから、棄権も、ミクロ観点からは、立派な政治的選択になる。

で、私の植木職場、もはや、現場たりえている感じがしない。大きな政治より、まずそこで、つまりは職場や家庭での闘争こそが、本来的な政治性だが、もはや、闘っているという気がしない。若社長では、相手にならないからだ。女房との決着も、思想的にはついてしまっているような気がする。こんなところで闘っても、からまわりするばかりだ。つまり、その感覚が、マクロな政治への文脈が希薄になっていたり、寸断化されている、という感性的な証しなのだ。コロナ騒動は、その寸断を意識的につくっている。本当の政治的闘争の惹起を、コロナを利用して防ごうとしている。この既得権益保守層の防御とのせめぎ合いは、他国では顕在化しているが、日本では、都選で棄権が増えた、ということぐらいだ、ということだ。

さて、下草は、どう、樹冠を支配する森林生態で、闘っていくだろうか? その道筋をつけられるだろうか? 土の中で種のまま休眠、というのが楽ちんそうだが。

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